明治の総理大臣たち

井上みなと

明治の総理大臣プロフィール

第1話 伊藤博文のプロフィール

※一部をスクショしてSNSなどに載せる場合は「©️井上みなと」とURLの記載をしてください。

※全文の転載、翻訳転載は禁止です。


(※伊藤については『伊藤博文逸話: 井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎』を作ってますので、よろしければご検索ください)


名前:伊藤博文

誕生日:1841年10月16日(旧暦:天保12年9月2日)丑年。

身長体重:160㎝くらい、体重は58kgくらい(晩年時)

どこ生まれ:周防国熊毛郡。今の山口県光市。長州出身。


何した人?:日本に内閣制度を創設。明治憲法を制定。初代枢密院議長、初代貴族院議長。開明派の文官トップとして、日本に立憲政治を定着させる。


学歴:松下村塾に入門するものの、身分が低かったため、塾の敷居をまたぐことが許されず、戸外で聴講していたとの話も。その為か、事あるごとに松下村塾の話をする山縣と真逆に伊藤はほとんど松下村塾の話を話をしなかった。家の仕事があって長くいられなかったとの話も。


好きな食べ物:ふぐ、お酒

趣味:読書、刀剣集め


家族構成:父、母、祖父母。父が養子に入っているため、血が繋がらないものの祖父母、特に祖母にはめちゃめちゃ可愛がられた一人っ子。

先妻は松下村塾四天王・入江九一の妹だが子供はなく、伊藤とも一緒に生活していない。伊藤の妻・梅子と同居した娘は生子、朝子の二人。生子だけが伊藤と梅子の間の子だが、朝子も伊藤家で実子同様に育てられる。婚外子の文吉と真一は別の家の子として育っている。また、四女澤子は末松家の養女にされている。(長女は早世)

跡を継いだ博邦氏は親友・井上馨の兄の四男。養子といっても三歳の時から伊藤家で育っている。


特徴:顔のほくろ。

爵位:公爵


人間関係:

井上馨……無二の親友。二人で一つの御神酒徳利。井上馨がいなければ伊藤博文は存在しないとまで云えるほど大事な存在。良い家柄にもかかわらず、低い身分の伊藤と友達付き合いをし、伊藤がイギリス留学できたのも馨のおかげ。伊藤が留学の際に水夫作業でお腹を壊して大変な時も命を賭けて助けてくれる。明治以後は伊藤のほうが地位が高くなるが、変わらぬ交友を続け、伊藤と半世紀に渡る友情で繋がる。公私ともに伊藤の一番は、誰から見ても井上馨であり、同心一体の存在である。侯爵。伊藤より五歳年上。


高杉晋作……伊藤にとっては幕末時代の忘れ得ぬ人。高杉の功山寺挙兵に参加した伊藤と、奇兵隊幹部でありながら高杉に付いていかなかった山縣という評価は、明治の二人にも付いて回る。伊藤の博文という名前もその前の俊輔という名も、春畝というのもすべて高杉がつけたもの。「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」という高杉を評した言葉は伊藤の書いた。伊藤より二歳年上。


杉孫七郎……同じ長州出身。子爵。伊藤とは幕末からずっと仲が良く、木戸孝允の墓参りなどにも一緒に行っていた模様。伊藤が死んだときの葬儀委員長は杉で、終生、仲が良かったのが伺える。伊藤より六歳年上。


井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎……毅は熊本、巳代治は長崎、金子は福岡出身。明治憲法を共に作った部下たち。毅は岩倉具視に信頼された官僚で伊藤より三つ年下。巳代治は十六歳年下。金子は十二歳年下。毅は肺病持ちでありながら、伊藤だけでなく明治政府の知恵袋として活躍し、巳代治は伊藤のまさに子飼いの部下で、部下をほとんどもたない伊藤を毅と巳代治が支えていた。金子は他から誘いがあっても断り、終生伊藤に仕え続けた。


女性関係:奥さんは梅子さん。芸妓さんで、イギリスから帰国してすぐの伊藤と知り合う。伊藤は結婚していたが、離婚して梅子さんと結婚。伊藤が芸者と遊ぶのには寛容だが、素人女性とは関係を持たないよう約束させている。

伊藤関係の女性逸話は豊富だが、野党が伊藤を攻撃するために作った創作話も多い。芸者が伊藤公のお手付きだと嘘宣伝していた面もある。

ただ、女好きでないわけではなく「伊藤が最初の相手となれば箔がつくから」と水揚げを頼まれれば断らずに受け、長続きはしないが芸者とはいつも遊んでいたし、女に溺れはしないが、女好きは女好きである。

なお「伊藤は大がつくほどの女好きで女遊びのしすぎで破産して家がなくなった」とか「家を失って野宿をしていた伊藤博文を見て、一国の首相の家がないのはさすがにまずいという事で作られたのが、首相官邸の始まり」などの嘘がまことしやかにSNSなどで流れているが、まったくの嘘である。

首相官邸はそもそも太政官官邸として元々あった施設であり、首相官邸は首相のものであって伊藤のものにはならない。首相が他の人にかわってしまえば、伊藤は出なければいけなくなるし、明治天皇陛下はかなりの額の支援を伊藤にしているので、本当に伊藤に家を与えたいなら家を与えればいいだけで、そもそも現在、三菱グループの倶楽部として使われている「開東閣」は岩崎家が伊藤から明治22年に買ったものであり、伊藤が首相になったのは明治18年なのだから、計算がまったく合わない。


各大臣との関係:(あくまで自分が知っている範囲の為、漏れがある可能性もあります)


黒田清隆……大久保利通亡き後、薩摩の最有力者である黒田は、注意すべき存在であり、かつ、何かあれば薩長で手を組まないといけない存在でもある。黒田が北海道の開拓使官営事業を激安で払い下げようとして問題になった『開拓使官有物払下げ事件』では、黒田をというか、薩長政府を守り、大隈を政府から追い払う。この時の政変により、黒田の地位は落ちたと言われるが、その後も条約改正で黒田と大隈が手を組んで動くのを警戒したりと水面下の争いを繰り広げ続ける。


山縣有朋……明治半ば以降、伊藤と山縣が明治政府の二大巨頭となる。伊藤は文官であり、山縣は軍人である。同じ長州の出身で、仲間ではあるが、ライバルでもある。個人的にどうこうというより、政治的な立場として対立しているといって良い。伊藤が地方政治に手を伸ばせなかったのは、地方政治は山縣の手中にあったからという話があったり、伊藤は日露戦争後に増長する軍を抑えるために公式令を作ろうとするが、山縣に軍令というものを作れとねじ込まれ、軍部の抑え込みに失敗するなど、二人の関係が後の時代にも影響する。


松方正義……松方は薩摩の人間であるが、どちらかというと伊藤に近い人物である。それは別に伊藤に好意的だったからではなく、薩摩は黒田に人望がなく、西郷従道・大山巌は政治の方にはほとんど関与せず、松方自身も幕末に何の活躍もなく軽んじられいたため、財政の苦手な伊藤のそばで大蔵大臣などをする。


大隈重信……明治初期、伊藤は大隈の築地の家に井上馨と共に出入りしており、とても仲が良かった。その頃は家も大隈の家の近所に建てていた。維新三傑が生きている頃は、大蔵省の連中として西郷隆盛から一緒に睨まれる存在だった。その後、明治十四年の政変で袂を分かつが、学校で習うイギリス流がどうとかより、伊藤は大隈が自分にちゃんと話をしなかったことにむかついている気がする。その後も大隈のことは気にかけており、大隈も早稲田のニ十周年記念で伊藤が演説したときには大喜びで、政治上の立場は違うが、思想的に近く、互いに気にしあう存在だった。


桂太郎……同じ長州の出身であり、伊藤の子・文吉は桂太郎の末子・寿磨子と結婚しているため親戚でもある。しかし、伊藤は自分の内閣の時に病気で職務に耐えられないとやめた桂が、そのすぐ後に欧州に行きたいと言い出し、病気じゃなかったのかと不快感を表すこともあり、また、伊藤は日露戦争にギリギリまで反対しており、戦争をしたい主戦派の桂と激しくぶつかった。桂は伊藤と対立関係にあった山縣の後継であり、軍事費を増やすため地租増徴しようとする桂に対し伊藤は国民の負担を増やすより行財政改革を求めるが、桂は伊藤に近い奥田義人の行革案を潰して辞任に追い込み、伊藤と政友会の不興を買うなど、子供同士は別として、本人たち同士の関係は微妙だったようだ。

桂太郎は権力欲が強く、同郷の先輩である井上馨に陸軍大臣になるのを求められて断り、井上の組閣が流れると自分が総理大臣になっており、また仲間と結託して爵位を求めるなどしており、後年は元勲たちとの関係も悪くなっている。

金子堅太郎が語るところによると、伊藤博文の桂太郎評は「『 罪あれば人に嫁し、 功あれば己に帰する』 桂の慣用手段ならん」(罪は他人に押し付けて、功績があれば自分のものにするのが桂太郎のいつものやり方だ)ということである。


西園寺公望……西園寺は伊藤の後継者である。明治15年の伊藤の欧州憲法調査の際には随員となり、以後、法典調査会副総裁などで三羽烏とは違う形で伊藤の腹心として働き、伊藤が山縣の策謀で政友会総裁を辞める際も後任になっている。ただ、伊藤のことが好きかというと微妙である。西園寺は藩閥を嫌っており、伊藤を評価している面もあるが、伊藤の家を訪問しながら伊藤が席を外すと、伊藤のことを俗物と吐き捨てるなどしている。もっとも西園寺は皮肉屋であるので、そのときその時の一言を全部真に受けていられない気もする。


最期は?:ロシア蔵相との非公式会談のために訪れたハルビン駅で安重根によって射殺された。歴史マンガなどでは「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたとされることが多いが、個人的には伊藤のお孫さんが語った「俺は駄目だ。誰かほかにやられたか?」と周囲を心配し、可愛がっていた森槐南も撃たれたと聞いて「森もやられたか…」と言ったのが最後の言葉と思っている。また、伊藤は歴史マンガやドラマにあるように撃たれていきなり死んだのではなく、撃たれた後、伊藤の出迎えに哈爾浜の駅に来ていた中村是公満州鉄道総裁らが伊藤を守るために電車の中に運び込み、随従していた医師が伊藤の治療に当たるなどしているため、その間にいろんな人がいろんな言葉を聞いているため、どれが最後の言葉とするか難しいのかもしれない。

 明治42年、69歳で死亡。国葬になり、三十万人以上の国民が集まり、会場のある日比谷公園は入場できない人たちでごった返し、絵葉書が売られたり、イベント状態であった。また、葬儀写真集も作られている。


(伊藤博文については『伊藤博文』(https://kakuyomu.jp/works/16816700426203752287/episodes/16816700426203762256)という簡単な伝記をカクヨムに置いてますので、よろしければご覧ください)

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