第三部

第一幕第一場:ドルチェ『優しく』(前編)


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 四度目の朝。あたしの頭上には、いつもの見慣れた紺のベルペットの夜空があり、いつものように小さな星々が微かな光を放っている。


 これまでに味わった沢山の苦しみと後悔の記憶はまだ鮮明に残っている。色々と思うことはあるけれど、今は逡巡している暇はない。


 だからあたしは素早く起きて、お気に入りの住処から裸足で抜け出し、身づくろいもせずに階下へと駆けだした。



 そのお陰か、屋敷を出かけるお父様を見送ることに今回はギリギリ成功した。そんな珍しい行為に、お父様はとてもビックリしていた。何せハグ付きの見送りだなんて、記憶の限りあたしの人生の初である。


 きっとバラの香りを嗅いでも、そんな記憶は蘇ってこないはずである。そしてハグで見送りつつも、ちゃんと『身の危険を感じるから街を出ましょう。それも急いで』と耳元で伝えておいた。


 お父様も驚きながらも、何度も頷いていたので多分大丈夫だろう。




 それから婆やといつものように二人で朝食を済ませると、ちょっとお願いをしてから自室に戻った。今までの記憶で重要な点を書き出すために。


 小一時間の間、あたしは悩みながらも洋紙に書き連ねてみた。日々失われていいく記憶とバラの香りで鮮明にできる事、そしてマリアンナとガルガーノの事、もちろんルチアと呼ばれていた可愛そうな猫娘の事もだ。



「こんなものかしら?」


 一通り書き終えると、それを読み返して確認する。


 (うん、良いと思うわ)


 その内容に納得できたので、最後に記憶の限り思い出せた母の似顔絵を描いてみた。決して上手くはないけれども、眺めているとあたしの胸を温かくしてくれる出来だった。




 そして今、あたしは周囲に気を配りながら公園通りを小走りに進んでいた。


 目的地は川辺の教会ではなく、通りの終端にある交差路だ。いくら警備がザルな新市街とは言え、出入口がある街道沿いには番兵がチェックする関所がある。


 元々この街は出入税が安いので、わざわざ抜け荷などをする者は少ないらしいけど、稀に奇特な人が実行するらしい。

 そんな人が抜け道として利用するのが、この交差路を曲がり川辺にある葦の群れの中を突っ切るルートらしい。

 今回はその奇特な人々を待ち伏せするために、日曜の礼拝に向かうのを諦めてやってきたのである。あたしは右袖口に収めている小袋を確認する。これは今朝、婆やに用意してもらったものだ。小袋に少し鼻を近づけるだけで、ムズムズする。これなら効果は十分だろう。


 その後、曲がり角の所にある植木付近にあたしは身を伏せて待つ事にした。そこから教会へ続く道を眺めていると、ポツポツと礼拝のために向かう人々の姿が見える。


「はぁ~。考えてみれば、あの教会での世情調査ルーチンワークともお別れになるのよね……』


 王都でも引き続き同様の調査が行えるのだろうか等とボーッと考えていると、遠くから早駆けする馬の足音が聞こえてきた。



 その音にハッとしたあたしは、身を伏せている植木から乗り出してそちらを覗く。


 案の定、二人乗りと思しき騎馬が一騎、この曲がり角に向かって駆けて来るのが見えた。そしてその走る騎馬を眺めながら、この出会いランデブーをどう演出したものかと少し考えてみた。


 おそらく大丈夫だろうとは思うものの、眼前まで馬が迫ってくるのはやはり怖いので、今回はさっさと通りに姿を現すことにした。それから両手を揚げて、向かってくる騎馬に対して頭上で振る。


「止まってぇーっ!!」


 発声の音量には自信があったので、思いっきり声を張り上げてみると……。ちゃんとあたしのすぐ横で馬を急停止してくれた。流石は彼だ。やはり剣だけでなく、乗馬の腕前も中々のモノだ。



「どうしましたか? そこのお嬢さん」


 馬上の騎手があたしに声をかけてきた。


「高貴なお方よ、どうかご無礼をお許しください。騎士様が後ろにお乗せになっているお嬢様方に、あたくしは用がありますの」と余所行きの立ち振る舞いと笑顔で応じる。


「……何故に彼女を。まさか追手か!?」


 あら? 何か勘違いさせたのか、彼はそう言いながら素早く腰の剣を抜き放つ。


「待って! ガル様、お待ちになって!」


 彼の後ろに乗っている女性が、目の前の背中に抱き着きながら彼の動きを制する。


「しかし!」などと反論する声もあったけど、どうやら彼女の頼みには逆らえないらしく、大人しくこちらの言うことを聞いてくれそうだ。


 それから彼女は外套のフードを外し顔を見せてくれた。あぁ、あたしと同じく陽光に照らされて美しく輝く金髪とこの青空のように深く碧い瞳をもった年頃の娘、従妹のマリアンヌことマリーだった。



「ジルお姉さまですか? 何故ここにいらっしゃるの?」


「お久し振りね、マリー。それはこっちの台詞よ、あなたこそ何故この街にいるの? 確か王都住まいでしょ?」


「そ、それは……、その……」


「ふーん、ひょっとして……こちらの素敵な殿方と逢引きでもしていたの?」


 お? 意外と図星だったのか、二人の挙動が急におかしくなったようにあたしには見えた。ほほぅ~、ここは少し事情こいばな追及ほりかえしたいけど、我慢しておこう。


「うんうん、分かったわ。もう野暮な事は聞かないから、何故そうも急いでいるのか教えて。本当はうちの屋敷でゆっくりとお茶でもしたいと思うけど」


「えぇ、今は時間が無いの。ジルお姉さま、直ぐに街を出て! お姉さまも狙われているの!」


 ん? 『も』?


 すると先ほどから、後方をしきりに気にしていた彼が急に声をあげた。


「駄目だ、マリー! 追手が直ぐそこまで来たようだ。つかまってろ!」


 彼はそう言うと、マリーと言う女の子を離すまいと右手を後ろに回して自分に密着させるように押さえつけ、左手で手綱を操りながら馬を駆けさせた。


 あぁ、やってしまった感がある。なんやかんやで二人を茶化してしまった為に、貴重な時間を奪ってしまったらしい。ごめん、これはあたしの失敗だったわ。



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 その後少しすると、二人を追うように馬にまたがった追手らしき男が二騎現れた。あたしを無視して、目の前を一気に走り抜けようとする馬の前方に、右袖に隠しておいた小袋を放り投げてみた。



 前を走る髭面の小男の騎手の顔面に見事命中。やったね! その布目の粗い麻の小袋からは、中に詰まっていた香辛料が空中へと飛散し、鼻の粘膜を刺激する。


「ぐえぇぇぇぇぇっ!? くそっ、一体何だ!?」 ドシャッ!!


 髭面の小男は落馬し、激しい音を立てて地面に叩きつけられた。乗り手を失った馬も駄句足となり、やがて足を止めて荒く鼻息を吹いている。


 一方、後ろを走っていた痩せたノッポは落馬こそはしなかったものの、馬が走ること止めてまともに操る事もできなくなっていた。


 ザマァ見なさい。以前ぜんぜんせ、お世話になってお礼よ! とガッツポーズのあたし。



 そして起き上がった髭面の小男は、腰をさすりながら涙と鼻水まみれの顔面であたしに向かってくる。 やばっ。


「くそっ! この小娘があぁ!! ぬっ!?」


 あたしの顔を見ると驚き戸惑っている。 あぁ、やっぱり臭い息だわ。勘弁してよぉ……。



「おい、アンチョビ! 小娘はこっちだぜ! さっきのあれは影武者じゃねぇのか!?」


 髭面の小男は、まだ馬上にある痩せノッポに声をかける。


 すると痩せノッポは、馬上からあたしに顔を近づけてきて、鼻をクンカクンカさせて臭いを嗅いでくる。 えぇっ!?


「んすんす、チガウす。コノムスメノニオイ、チガウす」


「ちっ、なんだよく見るとこっちは年増ばばあじゃねぇか! あっちが本物か、追うぞ!!」


「ウンす」


 髭面の小男は空馬に飛び乗り、痩せノッポと共に先ほど立ち去ったガルガーノとマリーの後を追って、鞭を風車の様に振り回して馬を駆けさせながら去っていった。



「……ちっ、憶えてなさいよ」


 と言ったお礼は必ずしてやる、と誓いながらあたしは追手を見送った。

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