97 エルドラド

 

「あの、えっと……ど、どちらさま……」

「いちいち言わせんじゃないわよ。わかるでしょ」


 なんというか、とにかく偉そうな女の人だった。言わせんなよとかリアルで初めて聞いたな……と思って顔を上げていると、べそべそになっている顔が、少しだけマシになっていることに気がついた。下を見て、握りしめた自分の拳を見る。拳をつけているはずの地面はもちろんない。顔を上げた。女の人が、こっちをじろっと睨んでいる。もしかしたら、それがデフォルトの表情になっているから本人が気づいていないだけで、別に睨んでいるつもりはないのかもしれない。それにしたって美人だ。私とは比べ物にならないな、と思った。


「……なんでいるの?」

「そりゃあ、私はあんただから」

「ほ、ほほう……」

「べそべそがいつまで続くのかと思うと腹が立って腹が立って」

「ほ、ほう……」

「ところであんた、ほんとにそれ私のつもり? 顔はまあ中々ね。私、もとがいいから。そこから想像して肉付けするわけだから、そうなるのはわかるけど。胸が小さすぎる」

「oh……」


 なぜ私は胸のサイズで説教をされているのか。というか私的には十分なほどにボンキュッボンだと思うのだけれど、さらに想像を羽ばたかせた先があったというのか。

 気づいたら私は体育座りをしていて、その隣では、エルドラドが足を伸ばして、ゆったりリラックスをしていらっしゃった。だからなんで。「私はあんただからでしょうが」 これ以上の説明は出てこないらしい。


「……で、なんなのよ。枝の一つや二つ、三つや四つさっさと切り落としなさい。どんくさいわね」

「それは切りすぎてもう大地が崩壊するのでは」

「足らないよりもやりまくる方がいいと私は思うわ」

「とてもバイオレンス……」


 これが、“エルドラド”という女だ。綺麗で、苛烈で、人の話なんてなんにも聞かない。自分さえよければそれでいいと思っている。けれども、曲げない。曲がらない。真っ直ぐに前を見て、進んでいる、最恐の魔女。

 私はただエルドラドの幻影を追っているだけの、ちんちくりんだ。長いはずの手足はいつの間にか短くなって、ただのいつものエルに変わっていた。体育座りがあまりにもしっくりくる。「それができたら、苦労しないよ……」 呟いた言葉に、エルドラドは、はぁん? と顎をしゃくれさせた。


「聞こえないわ。もっとハキハキしゃべんなさいよ」

「できたら、苦労しないって言ってるのーー!!!」


 全力を尽くした。でも、いくら進んでも、進むことなんてできない。ヴェジャーシャの固有スキルは強力だ。こんな風に、視界も、場所も、全てを封じられてしまったらどうしようもない。私にできることはただ体育座りをすることのみである。エルドラドは、形のいい眉を歪めて、はあ? と呆れたような声を出した。


「ほんと馬鹿ね。全力の尽くし方が違うのよ。ちょっと考えてごらんなさい。あのヴァカはあんた達を殺すつもりなんてまったくない。そのつもりだったら、物で押しつぶして圧死でも空気だけなくして窒息させるだの、半分だけ世界樹に埋めて動けなくさせるだの、やりようなんていくらでもあるでしょ?」

「端的にお伝えするととてもエグい」


 そして今馬鹿の発音めちゃくちゃよかった。

 でもたしかにヴェジャーシャは能力を自分で制限しているように感じた。「殺すつもりがない相手と戦ってるのよ。んなもん汚い手なんていくらでもやりようがあるってもんでしょ?」 エルドラドの笑顔はとっても美しかったが、おやめくださいの一言である。


「……殺すつもりがないって、なんでだろ」


 それならそれにこしたことはないけれど、ヴェルベクトも、カーセイも、私の村も襲った同一人物とはとても思えない。行動がちぐはぐなのだ。「……ああ、そういえば前に、何か言ってたわね」 エルドラドが首を傾げて、真っ赤な口元を可愛らしくつんと尖らせた。「前って?」「…………私、ぐすぐす言うやつって嫌いなのよね」 つまり覚えていない、ということだろうか。


 しらっとした視線を送ってしまったかもしれない。「違うわよ!」とエルドラドは苛立ったような声を出して、立ち上がった。かつん、とヒールのかっこいい音がする。たしかに、その、見上げると、ナイスバディ。実物は迫力が違う。


「思い出すとイライラしてめんどくさいって意味よ。覚えてるわよ、私、記憶力はいいんだから。私を追い出した村の奴らの顔は、今も全部覚えてる。人間なんて嫌い。だいっきらい。でもぐすぐすして、動かないやつはもっと嫌い。なによ、そんな顔をするんなら、あんたが直接見てきなさいよ!」


 何を、無茶な、と思ったのに、ぱこっと真っ暗なはずの足元に穴があいた。暗闇の中に光がある。「え」 体育座りのポーズのまま落ちていく。「え、え」 ひゅう、と重力に従って、髪と服がばたばたして、「え、ええええーーー!!!?」


 とりあえず、叫ぶしかない。

 たくさんの泡が、潰れては消えていく。あの泡を、見たことがある。世界樹の記憶と同じだ。それはただ一人の視点だった。エルドラドという少女の記憶で、苦しんだり、悲しんだり、ただ人間なんて嫌いだと叫んでいた。


 あれは多分、彼女が最初に魔族になったとき。崖から落ちて、飛行スキルを会得して、それでも体のバランスを崩して落下してしまったから、腕が見当違いの方向に曲がっている。私のときと、少し違うのは、違う時空の記憶だから。金髪で、真っ赤な瞳の可愛らしい小さな女の子は泣いていた。大声を出して、泣いていた。痛いし、苦しいし、悲しい。


 でも泣くのはこれで最後にしようと思った。ぐすぐすと、情けない声なんて聞こえないし、自分の耳に届くはずもない。泣いてなんかいない。私がエルドラドになって、エルドラドが私になる。記憶の泡が弾けて、また新しい泡を見る。ああ、そうだ、こんなことがあった。ゆっくりと、記憶の海に沈んでいく。


 ――“私”は、弱いものが嫌いだ。


 幼い自分だって嫌いだったから、全てを捨てた。長い髪が風の中で揺れている。目の前にいる男は、自分と同じ魔族だという。助けられた、のだろうか。荒れて、泥だらけになって生きているエルドラドに、男は手を伸ばした。ヴェジャーシャと名乗る彼は生きる力を欠いていて、それでもどこか諦めることなく、わずかに瞳に光を灯していた。


 結局、反りが合わなかったから、男のもとからはすぐに離れた。一人の方が気楽だった。そのはずなのに、ときおり男は気づけばそこにいて、ぽつぽつと言葉を吐き出す。どこかに行けというのも面倒だから、聞くだけ聞いてやった。誰にも、言うことはないのだけれど、と言葉を置いて話し始めるものだから結局、言っているんじゃないか、と呆れた。でも自分はほとんど聞いていないようなものだったから、言っていないと同じなのかもしれない、と思った。


「この世界は、ずっと同じことを繰り返しているんだ。どれだけ同じことを繰り返しても、同じ場所に戻っていく」


 信じがたい内容だった。

 男は十三年の時を幾度も繰り返しているのだという。それは男だけしか知らないことで、彼は世界樹と同じ存在であるから、全ての時間を認識している。


「魔族とは、新たに生まれた人間だ。花から実が咲くように、赤い瞳を持って生まれる魔族は、次の世代の“人間”なんだ。古い葉はこぼれて、落ちて、消えていく。そして新しい芽が生まれる。それと同じだ。私は新しい人間の中でも、より強い能力を持っていたから、魔族に変わってしまったときから、いつしか世界の“中心”になっていた。だから私だけがこの繰り返しを知っている」


 多分、面倒だったから、彼女はあっそう。と適当に返事をした。

 ヴェジャーシャは続けた。


「初めに魔族に変わってしまったとき、私は自分の中の怒りを持て余して、多くの街を襲った。その分、魔族を保護した。でも、自分の行動で、多くの人を傷つけて、恨みと、怨嗟が混じり合った存在になってしまったのだと知ったときにはすでにもう手遅れだった。十三年の時を巻き戻ったとき、変わろうと思った。恨む気持ちはあった。捨てることはできなかったけれど、天秤にかけたんだ。私は正しく生きようとした」


 なのに、と言葉を震わせ一つひとつ、飲み込むようにヴェジャーシャは話した。頭上に広がる鉛色の空は男とよく似ていた。風が湿った匂いを運んでいる。


「街を襲わず、恨みをかわず、魔族のみを助けたはずなんだ。なのに、二度目は最初のときよりも、より悲惨な結果が待っていた。幾度繰り返してもそうだ。気がついた。私が最初に行った行動が、全てのレールをしいてしまったんだ。だから道からそれると、さらなる悲劇が募っていく。絶望したよ。それでも繰り返すごとに、いくつかのパターンがあることに気がついた」


 私が殺される未来もあったけれど、結局死んでも、最初に戻ってしまうんだ、とバカバカしい話をしている。


「聖女という存在がいる。彼女は、毎回違った人間が召喚される。名前も、姿も同じなのに、中身が違う。彼女の行動によって、物語が変化する」


 それからヴェジャーシャは、システムだとか、ルートだとか、よくわからない言葉を言っていた。

 この世界とはどこか別の世界があって、この世界はただのゲームだ。彼女達が、スイッチを押して、ゲームを起動させて、新しい物語を紡ぐ度に世界が始まる。エンディングで終わったと思うと、また初めから。別の“聖女”が物語を始める。死んで、殺されて、ループして、生きて、いつまで経ってもどこまでも終わりが来ない。繰り返している。


 やっぱりよく、わからない。

 それでも、何か妙に気になるものがあった。男と初めて出会ったとき、奇妙な既視感があった。出会ったことないはずなのに、知っている。ときおり、それを感じるときがある。片目と、片腕のない男と相対したときもそうだ。どこかで会ったような、そんなはずもないのに。


「この世界の神は、システムを具現化している。彼が全ての管理者だ」


 知っている。猫の姿をしていて、ときおりエルドラドにちょっかいを出す。鬱陶しいから、いつの間にか猫という存在そのものが嫌いになっていた。


「ああ、そうなの」


 口調からすると、やっぱり適当なものだった。けれど、内に渦巻く感情があった。人間なんて嫌いだ。エルドラドを捨てたから。けれど、本当に捨てたのはエルドラドの方だ。あんなやつら、こっちから願い下げだった。少しだけ、記憶の底に情けない顔でこっちを見つめる幼馴染の姿があったけれど、知らないふりをした。


 一人で生きて、好き勝手に暴れることが性に合っている。だから、嫌いなものがたくさんある。「腹が立つわ」 ふいに口からこぼれていた。自分は自分であるはずなのに、誰か知らない人間の手の中にいると思うと、我慢がならない。「虫唾が走る」 苛立って、吐き出すための言葉しかない。ヴェジャーシャは、静かに口元を緩ませている。これがエルドラドという女だからだ。


「随分、繰り返してきた。だからこそ見えてきたものもある。あと幾度繰り返すことになるのかわからないけれど、この袋小路を、いつか私は終わらせてみせる。聖女が選ぶ選択肢を、私が選び、道を進めるんだ。“異物”を巻き込んでもいい。あとはソレイユだ。あそこは、一番神とのつながりが薄い。スライムは神の使いだから、彼らを少しずつ移動させて、さらにつながりを薄くする。システムの穴を作るんだよ」


 その辺りになると、もう話を聞くのも面倒になって、さっさと背中を向けて去っていった。ぐちゃぐちゃと、面倒なことを言う男だと思った。


「あんたはあんたで勝手にしなさいよ。私は私で勝手にする」


 いちいち、言わずとも、という話だけど。






 灰色の空に、分厚い雲が流れていく。少しずつ流れて、消えていく。消えていく。いつの間にか、“私”は体育座りのままで、真っ暗な場所にいた。


「……で、わかった?」


 ――綺麗な顔が、こっちを見ていた。「見えた」 けれど。「よく、わかって、ない……」 でしょ? とエルドラドは肩をすくめた。


「っていうかあのときの方が、目にもうちょっと光があったわよね」と呟いているエルドラドはさておき、先程みた光景を思い出す。それこそ、ヴェダーの場所で見た世界樹の記憶とよく似ている。あれは未来の記憶ではない。過去の、いや、別の時の記憶だった。


 ヴェジャーシャは、十三年の時を繰り返していた。いや、五つ葉の国の物語を繰り返していた。それも、ただ、一人きりで。

 既視感。そうだ、私も彼と初めて出会ったとき、奇妙な感覚があった。礼拝堂の中に立っているヴェジャーシャを見て、どこか見覚えがある光景だと思ったのだ。そのときは、ステンドグラスに描かれている絵が、ゲームのOPと似ているからだと考えたけれど、違う。私はヴェジャーシャという男の人そのものに、懐かしさを感じていた。


 喉の奥に、ひっかかるような感覚がある。(知ってる……) どくり、と心臓が大きな音をたてた。十三年という時を、私は知っている。


 ――リピーズ歴、十三年。この世界は、王が変わる度に新たな暦を重ねる。


 その、“王”とは一体何者なのか。

 ただ、世界の暦なのだと思っていた。五つ葉の国の物語。人間の国は、全部で四つ。残りの一つは、魔族の土地。魔族も含めて、世界の暦なのだ。それなら、王様はヴェジャーシャであることに、なんの違和感もない。


「ヴェジャーシャが言っていた異物って、結子のこと……?」


 先程の話では、聖女は名前も見かけも同じだけれど、違う人間だと言っていた。結子はたしかにゲームとデフォルトネームは同じなのに、ゲームの結子の姿ではない。行動も、もとの主人公と同じものだとは言い切れない。結子は隠しルートに行き着く選択肢を理解していた。でも、その選択肢を、まだ選んではいない。ループをする予定だったからもともと隠しルートを狙っていたのだろうけど、ヘイルランドが攻めてきたと聞いて、一番驚いていたのは結子だった。


 結子が選ぶはずの選択肢を、ヴェジャーシャが埋めた。だからこそ、今この流れになっている。神様が遠い、とソレイユに来たばかりの頃、イッチ達が言っていたじゃないか。過去の自分と同じ行動をして、正しく十三年の時を歩む。その間に、神の力を削ぎ落として、ソレイユのバランスを崩して。つまり、それは。


「ヴェジャーシャは、ゲームを本当に、文字通りに終わらせようとしているってこと……?」

「知らないけど、そうなんじゃないの」


 好きにすればいいと思うけど、と記憶の中の光景と同じセリフをエルドラドは話している。「でも、誰かの手のひらの上で遊ばれてるってのは、正直我慢がならない。あんた、いいように踊らされてるんじゃないわよ」 いつの間にか彼女は立ち上がって、腕を組みながら私を見下ろしている。


「こんな暗闇、幻影スキルがありゃなんとでもなるでしょ。あれは【思い込みを力に変える】ものよ。そりゃ、自分の能力以上のことはできないけど、あんたの周りには、いつも音があって、光があって、地面がある。当たり前のことでしょ? 想像力が足りないのよ。いくらでももとの場所に戻ることができる」


 慌てて瞳を閉じた。


 彼女の言うとおりだ。当たり前のことなのだから。ゆっくりと、足から考えていく。ちかちかと、頭の中のスキルが光っている。


「しょうもないスキルならいくらでもあるでしょ。あんたの目的は枝を切り落とすこと。ただ一つ。シンプルなものよ。そんなこともできないようで、エルドラドの名前なんて名乗らないでくれる?」


 いや名乗ってないけど。今はエルって言ってます、なんて言葉は、もちろん彼女の耳には入らない。でもそうだ、“声”が聞こえている。ここには音がある。


「地面もあるわ。空もね。随分高くまで来たのね。こんなに高い空、私も見たことない。クラウディ国から出たことはないから。雲がないってこんなのなのね。気味が悪いわ。別に、悪い気分ではないけれど」


 一つひとつ、取り戻してく。足の感覚がある。音がある。空気がある。空がある。

 真っ直ぐに、私は立っている。




 ***



 少女が、目の前にいた。それはひどく、おかしなことだ。間違いなく指を打った。なのに効かない。エルドラド――いや、今はエルという名の彼女には、ヴェジャーシャのスキルが、まったくもって効いていない。


 神の使いであるスライム達には、ヴェジャーシャの能力が効きづらいことは理解している。おそらく、エルが意識を失っている時間は、一秒にも満たない。その間に、全てを諦めてもらおう、とヴェジャーシャは鈍い思考の中で考えていた。彼は幾度も繰り返し続けた中ですっかり精神を疲弊していて、過去にエルドラドと顔を合わせたときに比べると、人格すらも塗りつぶされて、自分でももう何もわからない。


 頭の中は常に鈍く、思考は緩慢だ。ただ、一つの目的があった。この繰り返しを終わらせる。ただ、そのために彼は繰り返した。死んだ、生きた。繰り返した。ロータス、という言葉を聞くと、少しばかり心が動いたが、本当に少しだけだ。感情は泥の中に埋もれていく。引っ張り上げようとしても、深くて、重くて、浮き上がることはない。


 だから視界と感覚、全てを奪ったはずの少女が立っているところで、何の驚きもなかった。バチン、バチン、と繰り返して指を鳴らす。変化がない。ならば次だ。


「この木は、私とともに枯れてもらわなければ、困る……」


 そのために、聖女と世界樹のリンクを外した。十三年の時間を使って、ソレイユから神の力を奪うことは手間だったが、繰り返した膨大な時間を考えれば、なんてこともない、小指の先程の苦労だった。このルートの終着点で、聖女はループし、世界をやり戻す。やり戻されては困るのだ。枯れていく世界を彼は求めているのだから。


 だから、邪魔をしないでほしい。


 バチン、と指を叩く。彼女の周囲に檻を作る。パチン、と指を叩く。岩で囲む。樹木で阻む。物理的に、間接的に、全ての力を見せつけて、彼女の道を拒み、妨害する。なのに目の光を失わない。「こんなの、ここにあるわけないでしょ!」と、叫んで、顔を真っ赤にして、拳を握って、こちらのスキルを弾き飛ばす。困ったことに。


 ああ、困った。でも別に大して困ってはいない。ヴェジャーシャと、彼女の能力は、どうやら相性が悪いらしい。きっとこんなこともある。じゃあ、考える暇もない程度に苦しめようと、それだけだ。

 あまり殺したくはない。苦しめるつもりもなかった。なら少しならいだろう。


 苦しんでもらってもいいだろう。


 パチン、と指を鳴らす。その途端、一瞬のみエルは不思議な顔をした。時間が経つにつれ、次第に表情を変えていく。理解したのだろう、しかし冷静に思考するには、足りないものがある。酸素だ。空気の全てを消すこともできるが、そこまではしない。大気中にある二酸化炭素、窒素、そんな名前をヴェジャーシャは知りもしないけれど、ほんのわずかに分量を変化させるだけで、人は意識を失うということは、幾度か“実験”したから知っている。死にはしない、死なせることもできるけど。絶妙な配分で消す。たくさん、たくさん殺したから、大丈夫、お手の物だ。苦しいだろうね、と他人事のように考える。


 さて、これで終わった。


 さようなら、と背中を向けた。それが、なぜだろうか、尾を引くような感覚に、振り返った。彼女がいた。ほっぺをぱんぱんに膨らませて、苦しげにあえいで、右手を振り上げる。吐き出す息もないだろうに、かすれた声が響いた。


「スキル、――素潜り!」


 きらりと、彼女の右手にはめられた文様がきらめいた。




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