60 お久しぶりンヌ(とか言ってる場合じゃない)

 

 眼前に立つ男は緑かがった長い黒髪は一つに束ね、長い錫杖を片手に握りしめていた。私達が着ているような黒のローブではなく、灰色のゆったりとしたローブは、ところどころに金の刺繍が入れられ、一見して手が込んだ品であることがわかる。モノクルをはめられた切れ長の瞳は、ぞっとするほどに静かだった。


 ソキウスは、驚愕のあまりにひどく声を震わせた。


「ヴェ、ヴェダー様……!!」


 そのとき、空気を読むことができないサンというスライムは、足元で叫んでいた。


 ――ヤッダ~~お久しぶりンヌ~~!!!


 彼らの言葉をなんとなくでもわかるのは、私とロータスのみである。ぐっと唇を噛んで、感情を飲み込んだ。サンは本日未明、彼曰くイケメンメガネ(ヴェダー)の脇から逃亡したのだ。ぐうぜ~~ん! なんてぼよぼよしているけど、あちらとこちらの落差が激しい。あとメガネというかモノクルだし。


 あまり突っ込んでいるとわけがわからなくなってしまいそうであるため、即座に気を引き締めた。言葉にせずとも、イッチ達には私の感情が伝わる。三匹はハッとしたように私を見て、即座にロータスと、私の鞄の中に滑り込んだ。


 にこり、とヴェダーは微笑み、錫杖を持ち上げる。瞬間、ロータスは飛び出した。爆風がヴェダーの手で生み出される。「ん、んえっ!?」 けれども、ロータスはそれを真一文字に切り裂いた。草花がロータスを境にして、なぎ倒されている。「風って切れるの!?」


 言っている暇もなく、まずは出口の確保だ。丁度扉は私の背中にある。慌てて振り返ってドアノブを握りしめた。動かない。「なんで!?」 力ばかりが空回りして、ぴくりとも動かない。すぐさま首根っこが引っ張り上げられた。んげ、と悲鳴を上げた私を持ち上げたロータスの反対の腕には、ソキウスが抱えられている。なんという馬鹿力。すでに剣は腰に差し戻されていて、ロータスは跳躍した。


「う、うわあああ!!??」


 今度は悲鳴を出したのはソキウスだ。唐突な浮遊感に、私はぐっと口元を押さえて耐えた。円状の空間のてっぺんにはぽかりと空が切り抜かれている。ロータスは壁を蹴り上げ、高さを自身で確保する。ぐん、ぐんと幾度も体が上下になる。


 ロータスは、飛行スキルを保有している。けれども、何もないところから飛ぶことができるわけもなく、高さが必要だ。つまり恐ろしいことに、彼はこの行動を、全て自力で行っている。


 ――翼が、開いた


 私よりも彼はずっと高く飛ぶことができる。手を伸ばせば、届きそうな空だ。ほっと息をついた。そのときだ。しゃんっ……。ころりとした鈴の音が聞こえた。ヴェダーは、もうずっと遠くにいる。こんな、すぐに消えてしまいそうな微かな音が、まさか彼の手元の錫杖から出されたわけもない。そう思うのに、はっきりと聞こえた。すると、あっという間に空は木の枝で覆われた。自由自在に動く枝は格子状に天井を囲い込み、進むことすらできない。私達は否応なく、地面に引き戻された。


 へたり込んで、男を見た。ヴェダーはただ錫杖を地面に付きたて、微笑んでいる。

 正直、窮した。手段さえ選ばなければ、いくらでもやりようはある。ロータスもわかっている。でも彼は剣に手をかけたまま、抜かない。


 ヴェダーはただ、私達の逃亡を阻止しようとしただけだ。初めに向けられた風もそうだろう。草花はなぎ倒されただけで、殺傷力があるようには見えない。ヴェダーはその場から動きもしないまま、私達を観察していた。


 ――逃げる分には逃しとけ。こっちから手を出さねえ限り問題ない


 ロータスは、そんな人だ。人でも、モンスターでも、必要以上に手を出そうとはしない。けれども、彼は静かに息を吸い込んだ。噛み締めた歯の間から、短く息を吐き出す。手段が必要なら、彼はいくらでも天秤にかける。ロータスとヴェダーとの距離は、一瞬にして詰められた。そのときヴェダーは本当にわずかだったけれど、やっと表情を崩し、瞳を大きくさせた。


 白銀が、きらめく。


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