37 雨がひどくなるまで

 


 雨がひどくなるまで、うちにいて欲しいと提案した。

 ――いいと言って欲しい。

 そう思って、私はエルとロータスさんを見つめた。まるで祈るような気持ちだと気づいたときには恥ずかしくなった。


 ぱちぱちと囲炉裏の火が弾ける音が聞こえる。エルとロータスさんは互いに視線を見合わせた。断られる、と直感で感じた。だって、ロータスさんはあんなに強い。モンスターが出たところでへっちゃらだろうから、わざわざうちに泊まって足止めする必要なんてどこにもない。でも、と彼らには気づかれないように、小さく拳を握った。誰かと話したい。一緒にいて欲しい。そう思った。人とまともに話すのはあまりないことだったから。


 エルはロータスさんを見て、そのあと私を見つめた。いや、私を見てるけど、私よりもちょっと上の何かを見ていた。「ううん」 考えている、と思ったら、「それじゃあ、お言葉に甘えようかなぁ」 あんまりにも嬉しくて、なんでそう言ってくれたんだろうと不思議に思う気持ちもぱっとどこかに消えて行った。


「ロータスも、いいよね?」

「……別に好き好んで殺生したいわけでもねぇし。モンスターが襲って来ねぇっつうんなら、それにこしたことはねぇな」

「う、うん! うん!」


 嬉しくて何度も頷いた。エルはちょっと苦笑しているみたいだった。「えっと、それじゃあ申し訳ないけど……雨宿り、じゃなく」 また聞き覚えのない言葉をエルが言った。もしかして。


「雨待ち宿のこと?」

「そう、それ」


 雨がひどくなるまで、よろしくねと笑った彼女の言葉が嬉しくて、たくさん色んな準備をした。今日は会えると思った。でも、会えなかった。その代わりに、エル達に出会った。嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。




 家にいてね、とお願いして、急いで雨合羽を被った。家にある食料でも食事は事足りるけど、初めてのお客様だ。ちょっとは豪華なものにしたい。毎日こつこつと作った雨はじきの布を鞄の中いっぱいに抱えて店に行った。ぴちゃぴちゃと長靴で水たまりを弾きながら、頬が、心が紅潮していた。


 お店の人は私を嫌っているけど、毎月きちんと商品を納めているから、買い叩かずにお金を払ってくれる。ぺたんこになった鞄なのに、まるでぱんぱんになったみたいだ。小さく叩いて、スキップして、ご飯を買いに行った。美味しいものを出したい。一人で食べるんじゃない。みんなで一緒にご飯を食べるんだ。


 あんまりにも私がにこにこしていたからだろうか。「気味が悪い」 つぶやかれた声は、私よりもずっと遠かったのに、雨の中でもよく聞こえた。ざあざあと音が響く。雨は冷たいものなのだな、と当たり前のことを考えた。見上げると、心まで固くなってしまうような気がした。



「エルマ、おかえりなさい!」


 てとてとと、私よりもちょっと小さな背の女の子がきらきらした髪の毛を揺らして出迎えてくれた。呆然として肩掛けカバンの紐を握りしめた。「あああ、髪が濡れてる。ごめん、一緒に行ったらよかったね」 ぽたぽたと肩から滴る雫にエルは困ったように眉を寄せて、「タオル、どこかな!? 早く上がろう、風邪ひくよ!」と私の手をひいた。


 引き戸を開けるとあまりのきらめきが襲ってきた。


「え……あの、ここ、私の、家……?」

「ご、ごめん……ごめんね、触ってない、ものは、触ってない……! 誓って! ごめんね……!?」


 人が来ないものだから、あんまり綺麗にしていると言えなかった家だ。確かに、何も変わっていない。なのに内からあふれる光に目が潰れてしまいそうになった。部屋の中はホコリひとつなく、床だけでなく、壁や天井までぴかぴかだ。「あ、あ、さ、サン、だめっ……!」「え?」 エルの声に聞いて振り返ると、私が通った入り口までさらなる輝きが襲ってきた。明らかにさっきと違う。まるで私が通った後を、誰かが掃除をしてしまったみたいだ。


 エルを見ると見当違いの方向を見つめて、視線をうろうろさせている。と、思ったら、「ごめん!」ともう一回手を合わせた。「勝手にしちゃって、本当に……!」「う、ううん、全然いいんだけど、こんな一瞬で、どうやって……?」「と、特技、特技なの!」「うん……?」


 ロータスさんはあっという間にたくさんの薪を作ってくれた。私一人ではどうしてもできなくて困っていた家のいくつかの修繕を手伝ってくれた。怖い顔をしていると思ったら、ありがとうとお礼を言うと、彼はにっと可愛らしく笑ってくれたから驚いた。そしてやっぱり視線をそらす度に、新しくどこかがぴかぴかになっているような気がした。


 エルとは一緒に料理をした。食材を切って、いつもならこんなものかなあ、と適当にする味付けに、細心の注意を払った。「なんだか楽しいなあ。同年代の子とお料理ってしたことないなぁ」 ストラさんに、もっと色々習っとくんだったな、と知らない人の名前を彼女は呟いた。私だって楽しかった。


「……あのね」


 だから、私が彼女に呟いてしまったのは、ちょっとしたきっかけが重なってしまっただけなのかもしれない。人とずっと話すことができなくて、寂しくて、冷たい家の中にいた。お帰りと言ってくれる言葉が嬉しいことを思い出した。二人で話して、同じ布団の中に入った。ロータスさんは隣の部屋だ。小さなエルの体と、私と二人でぎゅうぎゅうにくっついて、こっそりと話をした。


「私のお兄ちゃんね、魔族なんだ」


 村の人は全員が知っている。ある日、兄は魔族になった。このことを言うのは、少しの勇気が必要だった。魔族というだけで、みんなが怖がる。私も真っ赤に染まった兄の目を見て、悲鳴を上げた。怖かった。エルとこの話ができたのは、彼女が旅人だから。嫌われてしまっても、どこかに行ってしまう人だからだ。でも、できることなら、嫌わないでほしかった。布団の中で手のひらを握ったまま、どこにも行かないでほしかった。ひどく祈った。彼女は、「そうかぁ」と言っただけで、何も変わらなかった。ほっとした。


「お兄ちゃんが魔族になって、すぐに牢屋に囚われたよ。崖から落としてしまうには、雨がひどくてそこまで行けなかったから。でも、お兄ちゃんはとても賢かったから、牢から逃げた。それを、村の人は私が逃したと思ってるから、みんな私のことが嫌いなんだ」


 朝になって、牢の中から忽然と消えてしまった兄の姿を村の人は必死で探した。そして私を糾弾した。

 私は魔族ではなく、人であることに違いはないから、何かをされることはなかった。すでにいなくなってしまった両親の仕事を引き継いでいて、役割もあったから、居場所はあったけれど、生きていくためだけだ。寂しくて、寂しくて仕方がなかった。こんな話を聞かされたところで、エルが困ることはわかりきっていたけれど、勝手に言葉がこぼれていた。エルは静かに聞いてくれた。真っ暗で、彼女がどんな顔をしているかわからなかったけど、ときおり握りしめられる手のひらが、聞いているよと教えてくれた。


「そうなんだね」


 別に、聞いてくれるだけでよかった。私を嫌いにならないでくれたら、それでよかった。「じゃあ、お兄さんは無事なんだね」 エルが、小さく私に問いかけた言葉に、うんと頷いた。「あのね」 きゅっと小さく手のひらを握ってくれた。


「お兄さんが無事で、よかったねって、私、言ってもいいのかな」


 とても、恐る恐る、エルは言った。当たり前だ。魔族が無事でよかっただなんて、そんなこと。

 息を飲み込んだ。

 声がかすれて、うまく伝えることができなかった。うん、と頷いた。何度だって頷いた。隣の部屋のロータスさんに、もしかしたら聞かれているかもしれないけど、ぼろぼろと溢れる涙が止まらなかった。


 次の日腫れぼったい瞼を見られることが恥ずかしくてエルから顔をそむけると、彼女はほんの少し笑っていた。ロータスさんは何も言わなかった。知らないふりをしてくれた。雨は、しとしとと降るばかりで、大降りになることがなくて、あと数日と思ったのに、やっぱり天気とは難しいものなのだなと思った。

 なぜだかときどき、ロータスさんはどこか遠くを睨んでいるような、不思議な表情をしていた。




 ひどく降ったと思えばやんでしまう。やんだと思えば溜まった桶の水がひっくり返ったように空の上では雷雨が暴れだしている。中々旅日和、というには難しく、出立の日が伸びていくばかりだった。そんなとき、エルと一緒に買い出しに行くと、「おおい」と声が聞こえた。もちろん私に向かってではなく、別の人を呼んだのだ。村の大人で、外で行商をしている人だ。たいへんだ、たいへんだ、と言葉を繰り返していた。


 最近、外に行くには物騒な天気だから、彼は村の周囲を見て回っていた。村は小さな川にぐるりと囲まれている。その川が、モンスターを遠ざける。その一つの川が枯れてしまっていたのだと。ここ最近の荒れた天気で、川の流れが変わってしまって、流れていた水がどこかに行ってしまったのだ。


 今は雨が降ってはいない。モンスターが来るかもしれない。ぞっとしたとき、村の人たちの行動は早かった。自分たちで川を作るのだ。今まで何度も繰り返してきた。家に溜めていた水を桶にいれて何度も運んだ。ロータスさんも、エルも手伝ってくれた。はやく、雨が降って。祈るような気持ちだった。体中を泥だらけにしているうちに、少しずつ雨が降ってきた。


「よ、よかったね……!」

「うん!」


 エルと一緒に笑った。ロータスさんは力持ちだから、村の人ではないのに、誰よりも動いてくれた。


「すごいね、ロータスさん。強いし、頼りになるし」


 私達は力がないから、せめてみんなのお腹が膨れるようにとお握りを配って歩いた。いつもは話すことも怖くて、端で小さくなっているだけだけど、今日はエルがいるから頑張ることができた。私からものを受け取ることに躊躇する人も多かったけど、どうぞと伝えると、ありがとうと返事を聞けた。私のことを嫌っている人は間違いなくいる。でも、もしかしたら全員ではなかったかもしれない。私が一人で逃げ出して、見ないふりをしていたのかも。責められることが怖かった。


「そういえば、ロータスさんって、エルのお兄さん、ではないよね……?」

「え? うん。違うよ」


 最初は中々聞けなかったけど、今はそんなことはない。ときどき、二人が楽しげに話している声がきこえる。どちらかというとエルが話しかけて、ロータスさんが静かに合いの手を入れているような雰囲気だけど、兄妹の関係にも、友人の関係にも見えなくて、それ以外の何と聞かれると、少し困った。


「それじゃあ、なんで……」


 一緒に旅をしているの、と聞こうとした。のしりと、大きな足音が聞こえた。


 村中の人たちが力を合わせて川を修復している最中だから、たくさんのおにぎりを抱えて、お昼を食べ逃してしまった人がいないか探し回っていた。こんなところに、誰も来ないよね、と枯れてしまった川と正反対の場所に来たとき、大きな木が倒れて、川の流れがせき止められていることに気づいた。雨は、降り始めている。でもこんな小雨じゃ、近づいているモンスターが遠ざかることはない。


 のしり、のしり、とモンスターは近づいた。のっそりとした四本脚なのに、爪はぎらぎらと光っていた。「あ……」 ぼとり、と手の中からおにぎりが一つ、こぼれ落ちた。誰かに、助けを。振り返ろうとした。でもいけない。数日前の恐怖が蘇った。あのときはロータスさんがいた。今はだめだ。エルは、私よりも年下だ。彼女をかばわないといけない。震える両手を、ゆっくりと開いた。がくがくと足に力が入らない。でも、この場で背中を向けることは、絶対にできない。


「エルマ」


 背中から、エルに話しかけられた。「え、エル、大丈夫、安心して。もうちょっとでもっと雨が降るから。そしたら、あいつもどこかに行くから。絶対、止めてみせるから」 もしかしたら、私がロータスさんに助けられたのは、このときのためにあったのかもしれない。彼女たちをこの村に引き止めたのは私だから、こんなことになってしまったのは、私の責任でもあるけれど。


「ぜ、ぜったい、大丈夫だから……!」


 何があっても、絶対、この子を逃してみせる。歯の奥を食いしばって、まっすぐに立った。「ありがとう」 聞こえたエルの声は、とても小さかった。そりゃそうだ。怖いに決まっている。「勇気が出た。火事場の馬鹿力でがんばるよ」 そう言って、彼女はするりと私の腕の間から抜け出した。


 熊のようなそのモンスターが、咆哮を上げこちらに駆け出したのは同時だった。何かが、激しくモンスターにぶつかった。初めてロータスさんに出会ったときと同じように、見えない塊が右から、左から打ち当たる。でもそれはバランスを崩しただけだった。気づけば私の前に立っていたエルが、小さなナイフを持っていることに気がついた。エルだって旅人だ。ロータスさんと同じように武器を持っているのは当たり前のことだけど、そんな小さなもので、何ができるというのだろう。エルが着た古くなった私の雨合羽が、ばたばたと風の中で泳いでいる。


「やめて、にげて!」


 エルは私に背中を向けていたから、表情なんてわからない。なのに、なぜだろう。にかりと笑ったような、そんな気がした。「いくよ!」 真っ直ぐに、ナイフを構えた。


「――スキル。まねっこ!」


 ひらりと彼女は空をとんだ。違う。襲い来るモンスターにナイフを突き出し、それを起点にしてぐるんと回った。「……んやぁ!」 モンスターの上に馬乗りになって、まっすぐに頭の上に両手でナイフを突き立てた。

 あのとき、私を助けてくれたロータスさんの動きとは比べ物にならないけど、なぜだか、彼のことを思い出した。無駄な動き一つなく、あっという間に大量の薪を斧で割って作った彼の動きを、いびつに真似ているような、不思議な動作だ。


 ギャアウ! とモンスターは悲鳴をあげた。「エル!!」 でもそれだけだ。致命傷ではなかった。「え、あ、あ、うわ」 暴れるモンスターの上に必死に乗っていた彼女は、突き立てたナイフを両手で握ったまま、顔色を真っ青にさせた。どうしたら、と悲鳴をあげたとき、モンスターの体を、真っ直ぐに矢が射抜いた。


「ひえっ」


 モンスターの上で、エルはばたばたと暴れた。ずどんと崩れるようにすっかり動かなくなったモンスターから、エルは小さな体を転がり落とした。わあっ! と滑り込んで受け止めた。でも私だってそんなに大きなわけじゃないから、一緒につぶれてしまった。すっかり、空はどしゃぶりになっている。騒ぎを聞きつけた人たちがやってきて、悲鳴があがった。一体、何があったのか。泥だらけの顔で困惑とともに問いかける村人たちを見回した。モンスターに突き刺さっていた矢は、いつの間にかなくなっていた。


 ここまで雨が降れば、モンスターが近寄ることはない。けれど、悠長にはしていられない。こんなところまで崩れていたのか、と呆然と呟く村長は、すぐさま再度周囲の確認をと伝令を飛ばした。溢れるような喧騒の中で、私はただ小さくなった。


「エルマ、あのモンスターは、彼女が……?」


 いつの間にかやって来ていたロータスさんに、エルは首根っこを掴まれてうへへと笑いつつ、最終的にごしごしと頭を撫でられていた。そんな様子を見ながら、村長は私に確認した。「そうです、あの子が」 とても、不思議な動きだった。スキル、と彼女は言っていたけれど、もちろんそれは告げなかった。


 ロータスさんとエルが村に滞在していることは知ってはいただろうけれど、私の客人ということで、みんな遠巻きに距離を置いていた。村長は水を弾くフードを深くかぶりつつも、エルたちにお礼を言った。「違いますよ、がんばったのはエルマです。だから、お礼を言うのならエルマにも言ってください」 エルの言葉にびっくりして、そんなことない、と否定した。私はやくたたずに、両手を広げていたくらいだ。でも、村長は彼女の言葉に頷いた。


 村長とは、互いに妙な距離感があった。他の話をきいていた村人達もそうだ。これは小さなきっかけだった。おずおずとした距離はあったけれど、少しずつ、話を重ねるようになった。エルは小さく、私にだけわかるように、ぶい、と二本の指をこっちに向けていた。



 ***



「エル、ロータスさんも、ありがとう。お礼をするつもりで、大変な目に合わせてしまったけれど……」

「そんなことない。この国のことを私達は全然知らなかったから、とっても助かったよ。こっちこそありがとう!」


 旅をするには、あまりにもいい雨日和だった。ロータスさんは、怖い顔だと思っていたけれど、慣れてくるとそんなこともなく、ちょっと口元を笑わせた。でもぐしゃぐしゃと頭を撫でられたのはびっくりした。案外、子供好きな人なのだろうか。自分で子供というのは、ちょっと照れるけど。


 彼らが来て、何かが変わった。ロータスさんには、丈の長さが少し足りなくて申し訳ないけど、兄の雨合羽を渡した。旅なんてしたことがないけど、私にできる限りの手伝いはさせてもらったつもりだ。ぱちゃぱちゃっと足元で不思議な音が聞こえた。まるで見えない何かが、跳ねて返事をしているみたいだ。エルを見ると、「あははぁ」と妙に苦笑いをして私の足元に視線をさまよわせている。やっぱり、何かいるのだろうか、と思ったけど、言いたくない様子だったから聞かなかった。


 家の中でお別れの言葉はとっくに済ませていた。でもこれで最後となると、ひどく後ろ髪がひかれた。何か、他に言うことがあるんじゃないか。もっと、できることはあったんじゃないかな。そんな風にただ眉を悲しくさせて口元をもごつかせる私に、エルはちょっと困ったような顔をした。それから、ロータスさんを見た。互いに、何かをわかりあっている様子でちょっと不思議だ。エルは、「あのね、エルマ」 私の手を取って、じっと私を見た。


「……えっ」


 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、エルの瞳の色が変わった。真っ青な彼女の瞳が、真っ赤に、それは一度、見たことがある瞳の色だ。うふふ、とエルは笑っていた。「何か見えた? 気の所為かな、そうじゃないかも」 ロータスさんは、何も言わない。もしかして彼も、と思うけど、ぐっと口をつぐんだ。


「エルマは人だけど、そうじゃない人も、たくさんいるだろうね。この一週間、私は楽しかったよ。エルマと一緒にいたのは、エルマが人だからとか、そうじゃないからとか関係なく、エルマだからいたんだよ」


 ここにいるのは、ただの個人だ。エルが魔族であるとか、私が人であるとか、そんなことは関係ない。雨に濡れて、ほんの少し冷たくなっているけれど、ぎゅっと握りしめてくれる可愛らしい手のひらは、私達と同じだった。


 もうすでに、存分にお別れの挨拶はしていた。だから、これ以上言葉を重ねる必要なんてなかった。私はエルを見送った。でも、どうしても、どうしても、喉の奥がひっかかって、苦しくて、気づけば叫んでしまっていた。


「エル、あのね!」


 雨の音で、周囲には聞こえない。もしかすると、エルにも届かないかもしれない。


「兄が、逃げたっていうのは本当。でも、みんなが私を逃したと思っているっていうのは、嘘! 私が、本当にお兄ちゃんを逃したの!」


 兄が魔族に変わってしまったということはわかっていた。でも、気づけば必死で鍵を盗んで、冷たい牢屋越しに格子を握りしめ、逃げてと必死に叫んでいた。ぼろぼろに涙をこぼして、情けない顔と姿だった。


 兄が逃げた後に、村の人達は私が兄を逃したと責め立てた。違う、と嘘をついた。私をかばってくれた人もいた。でも自分がしてしまったことは本当だから、怖くて、怖くて、自分からみんなと距離をとった。そうするうちに、どんどん離れて、戻ることができなくなった。重たい荷物を抱えてそれをどこにも下ろすことができなくて、夜になると一人で震えた。


 でも、後悔をしているかと聞かれると、そうじゃない。


 きっと、魔族にだって色んな人がいるんだろう。怖い魔族もいるだろうから、みんなが恐れるのは仕方がない。私だって、今も怖い。でも、兄は怖くない。エルも、ロータスさんも。


「エル、ロータスさん、またね! ありがとう!!」


 ここにいるのは、互いに名前がついている個人だった。

 聞こえたのだろうか。彼らはほんのちょっと振り向いた。それから、大きく手を振ってくれた。私も手を振った。体はすっかり冷たくなってしまったけれど、そんなのとっくに慣れっこだ。彼らがすっかり見えなくなってしまうまで、ずっと手のひらを振り続けた。ずっとずっと。私とよく似た名前の、小さな女の子へ。

 可愛らしい、魔族の女の子へ。




 ***




「いやあ、お世話になったねえ」


 と、言いながら、ここ数日姿を消し続けていたイッチ達が、ウェイウェイと足元で踊っている。とは言っても本能的にエルマに懐いていたのか、いつもよりも存在を主張してくるのでちょっと焦った。久しぶりのおうちのお掃除に魂が震え上がっていたこともあるのだろう。おそらく彼らははらぺこ亭でおうちをぴかぴかにする楽しみに目覚めてしまった。気持ちはわかるぞ。


 エルマのことを思い出しながら、森の中を進んでいく。ざくざく、ぴょこぴょこ。びゅんびゅん。足音は一人と三匹分である。私の分はない。そして返事もない。「…………なぜっ!!!!」 さすがにツッコミの声が溢れて抑えることができなかった。私はロータスに確保されたまま、強制的におんぶモードが発動していた。


 いや、もともと確かに急ぐときやら大変なときは失礼しますとお世話になっていたものの、今はそういうわけでもないし、これでも彼と出会ったときよりは背が伸びたのだ。軽い気持ちで背負ってもらうにはちょっと外聞が悪い。


 エルマと別れてしばらく、何も言わず、よっこいせとロータスは私を抱えて、まるでこれが当たり前であるかのようにずんずん進んだ。これがデフォルト状態であると言いたげな様子に、ツッコミすらもできずなんでなんだと揺られ続け、さすがに我慢の限界が突破した。いつもよりも無口で絡みづらかったこともある。ただ、心当たりはあった。


「ええっと、あの、うううん」


 ――ロータスは幼い頃に、幼馴染が魔族になってしまった。

 そのとき何もできなかったことを、彼は悔いている。エルマは兄が魔族になった。そして彼を逃がすことができた。


 ざくざく、と先に進んでいく。丁度、いくつもの大きな木の下を通り過ぎた。きつい雨の中でも、頭の上の葉っぱが大きくて、地面のぬかるみは少ない。歩きやすくなった地面を見て、なんとか会話を探した。


「……あの矢がなかったら、危なかったよね」


 実際に、モンスターに止めをさしたのは、どこからか飛んで来たかもわからない一本の矢だった。私はちょっと動きを鈍くして、弱らせたくらいだ。

 ふう、とロータスは短く息を吐き出した。寒くて、ほんの少し白くなってしまっている。よっこいせ、とロータスは木の下に私を下ろした。ごつごつした根っこの上に座って、今度はさっきよりも長い溜め息をついた。休憩だね? 休憩ですな? とりあえず跳ねちゃうよ~~~!! とイッチ達がぼよぼよ幹の周囲を回っている。休憩になってないぞ。


「気配はなくなった」

「……やっぱり、見られてたの?」

「ああ。あそこにいる間中な。悪意はねえ、と思う」


 ロータスは幹にもたれた。もともとしている難しい顔が、さらに難しくなっている。悪意はない、といいつつも向こうにいる間中、ずっと気を張っていてくれた。悪いことをした。「弓を射ってくれた人って、やっぱり……?」 ロータスは静かに頷いた。ずっと、私達を見ていた人。そして、モンスターにとどめを刺してくれた人は。


「エルマのお兄さん、だよね」

「だろうな」


 別れのとき、エルマを見ていると、新しくスキルを取得した音が聞こえた。ロータスの怪我をなんとか治そうとしたとき、もともと持っていたスキルの大半が消えてしまったのだ。聞き耳スキルもそうだったけど、再取得できたらしい。彼女の声は普通に聞くと雨にかき消されてしまっていたけど、スキルのおかけで、よく聞こえた。だから、エルマの事情を改めて知った。


 私は少しだけやめておこうか、と思ったけれど、このことをロータスに告げた。エルマはロータスにも感謝の声を告げていたから。


「……この雨がやむと、モンスターが活発化するんだろ? この国に生まれて、俺たちよりもそこら辺の危機感はあるだろうに、雨がやみかけているのに村に戻ろうとしないってのはおかしな話だ。多分、俺たちと出会ったときも待ち合わせでもしてたんじゃねぇか」

「……お兄さんと?」

「ああ。ちょいちょい会ってはいるんだろうな。家の修繕をしたときに、エルマ一人じゃなんともできねぇもんも、最近修理されたあともあった」


 エルマは村の人とうまくいってはいないようだったから、誰かの力を借りることも難しいだろう。

 魔族になったお兄さんを逃したエルマは、今もときどき、お兄さんと会っている。そのことを誰にも告げることもできず、苦しんでいたのかもしれない。魔族は人にとって悪なのだから。


「裏切り者、ではなくて、橋渡しをしていると思ってくれたらいいのになあ……」


『魔族の妹。裏切り者の少女 : エルマ』


 初めに彼女を鑑定すると、そう表示されていた。

 私とロータスは旅をしているけれど、それは逃げるための旅でもある。私を迎えに来たという原作通りに物語を進めようとする銀髪の魔族。彼の行動は予測もつかない。私の知識はこれから先の未来しか知らないから、過去である現在は穴だらけなのだ。だから、街に行くことはあっても、どこかに長く滞在することはなかった。誰かが巻き込まれるのは私も、ロータスも望んではいないことだからだ。


 でも、エルマの頭の上に表示されるその文字を見て、どうしても放っておくことができなかった。彼女には、エルマがエルマだから一緒にいたといったけど、そんなの嘘だ。両親がいなくて、私とよく似た名前で、何か事情がありそうなちょっと年上の年頃の女の子。自分と重ねてしまって、気になって仕方がなくても、本来なら何かあってはいけないと距離を置いていたに違いない。


 エルマが、魔族の妹だから。

 だから、友達になりたかった。私はいくらでも忖度するし、必要なら嘘もつく。明るい声が聞きたかった。結局、なんの力にもなれなかったと思うけど、幼い体で私をかばおうとした勇気のある女の子の、手のひらを握ることぐらいのことはしたかった。


「お兄さんって、どんな人なんだろ。もうちょっと聞いとけばよかったな」

「さあな」

「普通の人かなー。自分以外の魔族って、あんまり会ったことないからなー」

「まあ、今のとこ俺たち、やべぇ魔族しか関わってねえしなあ」

「個人差、だとは思いたいけどねぇ。お兄さんは助けてくれたみたいだし。エルマのついでかもしんないけど。悪意のぶつかり合いはよろしくないよ。私も魔族だけど。……そして口先だけだけどね! 嫌いな人には思いっきりぶつけちゃうかも!」


 視界の端では、どぉーん! どぉーん! ぶるぶるぶるっ! と震えながら互いにぶつかり合うスライム達が見える。そういう意味ではないし万一分裂されたらたまらないので、おやめください。


 ゲームの大団円ルートでは、魔族と人は手を結ぶ。けれど、培った人々の価値観はすぐに変えられるものではないだろうし、私達には深すぎる溝がある。


「いやあ、しかし! お兄さんの手助けがあったとは言え、私も中々最恐魔女に近づいて来たかな!?」


 本編では幻術スキルしか使用しなかったエルドラドだ。ATK方面ではからっきし、かつボディコンスタイルであることも合わせて防御する気はございますかねと疑問に感じる存在だった知力特化だったので、苦手が得意になれば万々歳だ。座りつつ、シュッシュシュッシュと拳を突き出してみた。すばらしや。原作より知力が低下していないかというツッコミは聞こえない。


「まねっこスキル、中々いいね! 火事場の馬鹿力でLv.2になったよ! あと、今回初めて知ったけど、スキル名を叫んだ方が威力もあがるみたい! ……でも、『スキル、釣り!』とか、『スキル、聞き耳!』とか叫ぶのはなんだかしょっぱいよね。できれば叫ぶのは最終手段で、普段はスキルレベルを上げるほうがやりやすいな……ロータスは技名とかってある?」

「ねぇよ」


 なんだか微妙な気まずさをごまかすために、早口でぺらぺら話すと、想像よりも短い返答が帰ってきた。しゅんとする。しかしおかしいな、ゲーム画面ではロータスにはかっこいい技名があって、バトル画面では選択できたと思うのだけど。心の中で叫んでいるのだろうか。


 頭の上では、大きな葉っぱが雨粒を弾いてわさわさと音を立てた。「冷たい」 ぴちょん、とほっぺに水が当たった。


「……悪かったな」


 木にもたれかかったまま、ぽつりと呟かれた言葉に瞬いて、びっくりしつつ彼を見上げた。眉間には深いシワを作っていて、腕を組みながら難しい顔をしている。ロータスとの付き合いも、もう二年になる。細かい表情の変化を見分けるなどお手の物だ。しかし。「……えっ、な、なんで謝るの?」 今回一方的にワガママをいって、エルマの元に居座ったのは私だし、ロータスはただただ労働していた。申し訳ないのはこっちである。彼は続けた。


「すぐに、助けに行けなかった。すまねぇ」

「…………えっ、モンスターのこと? いやいや、あれは私が悪いよね、むしろ怒られると思ってたよ!? そして悪いと言われたところで自分からぶつかりに行ったわけじゃないから、どう言い訳したらいいものかと考えてたくらいなんだけども!?」


 ふざけんなよと過去にガチめに怒られたことがある女である。ロータスの気苦労は耐えない。「というか、もしかして、さっきから気まずかったのってそれ?」 無言で抱えられ、無言で進まれ、なんでなんだとずっとツッコミを我慢してたのに。最後は我慢しきれなかったけど。


「て、てっきり私は、ロータスのトラウマを刺激しちゃったものかと……!!」


 無遠慮だったと反省して、どうしたらいいものか考えていたのに。ロータスはきょとんと片目だけの黒紫の瞳を瞬かせた。反対は真っ赤な瞳だ。初めは違和感があったけど、今はとてもきれいな色だと思っている。でも人目があるところでは、両方を幻術スキルでごまかしているから、一週間ぶりで思わずじっと見たくなる。


「……ヴェジャのことか? そりゃ、後悔しかないが、それで時間が戻るわけじゃねぇだろ。生きていてくれたら、とは思うが」

「いや、その人の名前については今初めて知ったよ……違ったのか! そうか、そうだったの、わかんないよーーー!! あとそんなの気にしないでいいんだよもうすきーーーー!」


 二年も一緒にいればロータスのことなどお手の物と考えたあとでこれはちょっと恥ずかしい。まさか彼が私とエルマが一緒にモンスターの前でピンチになったことに、一人反省をしていたとはそんな馬鹿な。混乱して告白しといた。「ロータス、好き……!」 ダメ押しで地面を拳で叩きながらもう一回叫んだ。これはいつものことなので、彼はおう、と返事をするだけであった。


「私、もっと強くなるから! ロータスが放し飼いにしても心配も不安もしないくらいにムキムキになるように頑張るから!」

「期待しとく」

「あとキスしてもいいかな!? そろそろ一回くらいしといてもいいんじゃないかな!?」

「しねえよアホ」

「どれくらい、どれくらい待ったらいい? 身長が伸びたら? だいたいでいいから教えてくれたらとっても嬉しい!」

「いやどれくらいって……そりゃ」


 立ち上がってロータスの服を掴みながら懇願すると、んん? とロータスは眉根を寄せて考えた。そして片手を私の頭の上につけて、「これくらい……か?」と首を傾げながらちょっとずつ手のひらを上らせていく、かと思うと、「いやいや、具体的に狭めようとするな!」 突っ込んだ。勢いづいた主張で通るかと思ったら不発だった。でも駄目とは言わないところが好き。


「ロータス……頑張って育つけど。やっぱり一回くらいは駄目かな? そしたらすごく頑張れるんだけど」

「しねえよ。ガキに手を出す趣味はねえんだよ」

「わ、私ロータスのこと好きだよ……!」

「はいはい俺もだよ」

「ならば一回!」


 ここで大人の姿にならないのは、私なりの良心である。というかすでにした後で首根っこをひっつかまれるだけの結果であったので、ロータスに色仕掛けはきかないことは理解済みだ。いや実年齢を知らなければいけたような気がするけど、意外な常識人の壁を突き崩すのは中々難しい。「ね、お願い……」 なのでしおらしくしてみた。押してだめなら引き気味で押してみろ。結局押すしか無いイノシシタイプである自分が憎い。


 意外なことに、これがロータスにはきいたらしい。ぐっ……と眉間のシワを深くして、困っていた。瞳をつむった。そして周囲を見回した。「おいこら。イッチ。ニィ、サンもだ。なぜ隠れた。空気を読もうとした。しねえよ。しねえから。えっ、しないの? じゃねえよ」 ロータスはあくまでもロータスだった。


 そうかあ、エルがんばってぇ。応援してるぞい、と何様口調のイッチ達に慰められつつ、今度は自分の足で歩くと告げた。なんと言っても久しぶりの雨だ。ロータスにとっては初めてだけど、曇ばかりな国で育ったから、新鮮なことこの上ない。


「気をつけろよ、滑って転んでも優しくひっぱるのは無理かもしれねえぞ」

「ひっぱる前提なところがなんというか……」


 それから幾日かすると、雨があがった。モンスターが活性化する前に、水場を探さなければいけない。本当なら、ぼんやりしている暇なんてないんだけど、わあ、と頭の上を見上げて、ロータスも驚いたように小さく息を飲み込んだ。遠くの空に、うっすらと虹がかかっていた。それはほんの一瞬だけど、まるで子供のようにイッチたちと一緒に虹に向かって駆けていた。そして転ける前にと引っ張られ、ロータスに抱えられた。米俵。


 ロータスと出会って、まだまだ二年。私は十歳、ロータスはやっと二十歳になった。少しずつだけれど、成長していく。

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