新たな国へ
35 プロローグ
ざあざあと音が聞こえる。灰色の空を見上げると、大きな水の粒がどこまでもこぼれていて、ぬかるんだ地面の中に、私はゆっくりと足を入れた。雨はいい。ぐずぐずした地面は歩き辛いけれど、怖いものがいない。赤い雨合羽は兄が選んでくれたものだ。もらったときは大きくてぶかぶかだったのに、今では足首が見えてしまっていて、本当は早く新しいものにしないといけない。
遠い、海を越えた先には大きな分厚い雲が空を覆っているくせに、雨が降らない国があるのだと言う。かんかんの、きらきらした太陽の日差しが暑くてたまらなかったり、反対に降り積もる雪で目の前が見えなくなる国も。
――どんな場所なのかな
言葉でしか聞いたことがないから、想像をしようにもうまくいかない。ぐしゃぐしゃと音をたてて森の中を歩いていく。ふと、小雨になっていることに気がついた。よくない、そう思うのに、もう少しだからと先に進んだ。それがいけなかった。
「GISHAaaAAaAaaa!!!!」
「……ひっ」
大蛇のようなモンスターが、ぱくりと大きな牙を見せて細く長い舌を伸ばしている。にゅるりと木々の間を通り抜けて、少しずつ近づいてくる。私はへたり込んだ。雨が上がっているのに、馬鹿なことをしたからだ。がたがたと視界が揺れていると思ったら、私自身が揺れていた。死んでしまう。
「う」
怖くて、目を瞑った。
「う、わあ、わあああ!!」
モンスターの鳴き声が、私の頭の上に響いている。両手を握って、悲鳴を出して体を硬くさせた。なのに、なんでだろう。何かがおかしかった。ゆっくりと瞳を開けたとき、黒髪の男の人が、大蛇を真っ二つに裂いていた。
ずるずる、するりとまるで初めからそうだったかのように、左右に分かたれた真ん中に男の人が立っていた。不思議なことに血の一滴もついていない。男の人は二つある鞘のうち、片方に剣を戻した。それからぐちゃぐちゃの地面にへたりこんでいた私をくるりと振り向いた。そのときだ。男の人の瞳が、左右の色が違う。なぜだかそう思った。でも、瞬いたときには、両方とも同じ黒紫の瞳をしていた。
村に若い男の人はいるけれど、私が知っている人たちよりもすらりと背が高い。若いけれど、二十歳は越えているだろう。振り向いた顔は怒っているように眉毛がつり上がっていて、少しだけ怖かった。でも、それを除いたとしても男前なことに違いはなかった。
「えっ……えっと、あの」
男の人と向き合って、なんとか言葉をすりだそうとした。でもうまく声がでない。一瞬だけやんでいた雨が、また静かに降り始めた。雨合羽のフードがずれて、私の赤毛をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
「あ、あの」
「ローーーーターーーーースッ!!!」
「うんぐッ」
ドスッ、と彼に何かが突き刺さった。金髪の女の子だった。男の人は表情が変わらないままであったけれど声をくぐもらせた。そのあと三回ドスドスとぶつかったように男の人は左右に揺れた。でも、何がぶつかったのか、よくわからなかった。
「ロータス、『じゃ、お先』、じゃないよ! 速すぎだし追いつけないし、慌ててイッチ達に乗ったもんだから、あと一歩でイッチ達がスライム反応を起こして分裂するところだったんだよ!?」
「おう、面目ねえ」
「それはまったく思っていない顔だね……!?」
ロータスさんは女の子にゆさゆさと揺らされながら、「ところでスライムが増えることをスライム反応っつうのか?」と眉をひそめながら我関せずに呟いている。そしてそれを気にすることなく、女の子は今度はぽかぽかロータスさんの腰を叩き始めた。胸だと背伸びをしないと手が届かないのだろう。
彼らの足元にはぱっかり半分に開かれたモンスターの死骸がある。ざあざあと降る雨の中で、なんともわけのわからない光景だった。金髪の、肩口よりも少し長いくらいの髪の女の子は、幾度叩いたところで反応のないロータスさんに諦めたのか、溜め息をついて周囲を見回した。そのとき、やっと私のことに気がついたらしい。彼女は大きな瞳をパチパチと瞬きを繰り返して、あっ、と驚いたように口元に手を当てた。
私と同じ年頃に見えるから、十歳を越えたくらいだろうか。「だから、ロータス……!」 彼と、私とを見比べて、すぐにぶるぶると首を振った。彼女はいつの間にかどしゃぶりとなってしまった雨の中も気にすることもなくぬかるみに足を泥だらけにさせて、私のもとまで駆けてきた。それから、「大丈夫?」と言いながらすっかり冷たくなってしまっていた手を握った。温かい手のひらだった。
「ごめんねびっくりさせて。私、エル。あっちはロータス。旅をしてるの。怪我とかない? あるなら背負うよ、ロータスが」
「すげえ普通に俺の名前を出してくるな。まあ別にいいけどな」
「がんばりたいけど、今の私じゃ難しいでしょ!?」
「そりゃそうだ」
いきなりテンポの良い会話を目の前で繰り広げられて、目をしろくろさせてしまった。その間にも、エルと名乗った女の子は不安げに私を見ていたから慌ててしまった。「あ、ぜんぜん、だいじょうぶ! びっくりしてへたり込んじゃっただけだから!」 立ち上がって、泥だらけのお尻が恥ずかしくて、そっと隠した。
「えっと、ロータス……さん、エルさん、ありがとう。私はエルマ。近くの村に住んでるんだけど」
「そう、エルマ! どういたしまして!」
ぴかっとお日様みたいに彼女は笑った。雨ばかりの国だから、ぴかぴかの太陽なんて数えるほどしか見たことがないけれど。ざあざあの雨降りの中で、彼女の金の髪みたいにきらきらした笑顔だった。それから、助けたのも私じゃなくて、ロータスなんだけどね、とちょっと恥ずかしそうに笑った。可愛い女の子だった。
――これが私とエル、そしてロータスさん。そして今は見えない彼らとの出会いだった。
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