32 願いごと

 


 ひどく、覚えのある感覚だった。ぞわぞわして、空気が重たくて、飲み込むことも難しい。やっとはらぺこ亭に辿り着いたと思ったとき、周囲の建物を鑑定して、震え上がった。はらぺこ亭だけではない、その隣も、隣の隣も、全て鑑定結果が弾かれる。この辺り一帯がそうなのだ。


 ぞっとしたとき、服の中に隠したネックレスに、迷わず手のひらが伸びていた。


「みんなごめんね」


 もしかしたら、もうはらぺこ亭には戻れないかもしれない。全部ただの私の空回りなのかもしれない。危ない何かがあったとしても、今のタイミングではなくて、ずっと先のことなのかも。それでも。

 ――――いいよ、大丈夫!

 イッチ達の返事が聞こえた瞬間、私の手足は今よりずっと長くなっていた。長い金の髪の毛がなびいて、瞳を隠すこともない。服は相変わらずのボディコンだけど、今はそんなことどうでもいい。


 イッチ達から飛び降りて、力の限り、息を吸い込んだ。「ちゅうもーーーーーく!!!」 自分で、こんなに大声が出るのかとびっくりした。多分顔が真っ赤になっている。道の真ん中で仁王立ちして、ぶるぶると拳を握った。


 最初、なんだありゃ、という視線を感じた。私の格好がよくなかった。好奇心が隠しきれない人や、不審に眉をひそめる人、不愉快そうな顔をする人や、純粋に首を傾げる人。色んな反応をしていたのに、彼らは一様にして、私の顔を見た瞬間、小さな悲鳴を上げた。そして距離を置いて逃げ出したり、へたり込んだりした。魔族だ、と口々に声が聞こえる。


 驚かせて申し訳ないという気持ちと、早くしなきゃと焦る気持ちがぶつかりあった。このままでは村から逃げ出したときと同じだ。そのうち驚いている気持ちが飛んで意識がはっきりしだすと、大人たちは私をどうにかしようとやってくる。その前に、動かなければいけない。


「私、悪い魔族だから! ここら辺一体に、怖いことするよ!!」


 困惑が伝わった。怖いことってなんだろう。私も思った。ええっと、と考えて、「爆発します!!!」 ちょっと言い過ぎたか。えっ、と言う反応のあとに、みんな互いに顔を見合わせた。そしてパニックのような悲鳴が響き渡る。しまった。でもここまで来たら仕方がない。


「お家の中にいる人にも言ってね! ここにいたらドーンッだから! めちゃくちゃドーンッするから!」


 焦っているからボキャブラリーがいつも以上にひどくなる。その間にも、どんどん空気が重たくなる。普通の人には気づかないかもしれない。でもこれは高濃度の魔力が、拡散している。私なんかじゃ足元にも及ばないくらいの恐ろしい魔力だ。


 ただの子どもである私が、危ないから逃げてと言ったところで、誰も耳をかさなかっただろう。だから、魔族の姿に変わった。これなら、みんなびっくりして逃げてくれる。恐怖を盾にするには申し訳なかったけれど、私にはこれくらいしか思いつかなかったのだ。


 街中からはどんどん人が姿を消していく。わあわあと我先にと逃げていく。頃合いだ。子どもの姿に戻って、はらぺこ亭の扉を力の限り叩いて、転がり込んだ。お店の中はまったくいつもと同じで、ひどく拍子抜けしてしまう。


「あれ、エル? どうしたの。外が騒がしいみたいだけど、なにかあった?」


 ほんやり顔でストラさんとヨザキさんが椅子に座ってご飯を食べていた。あまりの平和に一瞬意識がとんだけど、すぐさま持ち直した。「ストラさん、ヨザキさん、お願いです、今すぐ逃げて――――」 最後まで言い切ることができなかった。


 はらぺこ亭が、大きく揺れた。まるで大きな地震がやってきたみたいに、視界がぶれた。お店の照明がガタガタと上下して、悲鳴を上げるストラさんを、すぐさまヨザキさんがかばった。私は立っていることができなくて座り込んだ。お店が潰れてしまったのかと思った。揺れが収まったあとにこわごわと周囲を見回したけれど、なんともない。ただ、大きな音が響いていただけだ。一体、なんの声なのか。


「え、エル、なんなのこれ、今、めちゃくちゃ揺れたわよね……!?」

「お願いです逃げてください。危ないから! 街の人たちは、もうみんな逃げてます!」


 わけもわからず困惑する彼女よりも先に頷いたのはヨザキさんだ。「大型のモンスターが襲ってきたのかもしれない。騎士団に行った方がいい」 いつもよりも硬い口調の彼に、こくこくとストラさんが頷く。


 二人を無理やり店の外に出して、一緒に走った。そして、するすると速度を緩めた。「エル、なにしてんのよ!」 ストラさんが怒ったように振り向いた。私は彼らと一緒に行けない。


「さ、先に行ってください。あの、私、だめで」

「何いってんのよ、疲れちゃったの? ヨザキくんお願い、抱えてあげて」

「やめて、違うんです、違うから!」


 わかったと頷くヨザキさんの手を力強く叩いた。必死だった。向こうも同じだ。でも負けるわけにはいかなかった。


「わ、わたし、私に向かって、来るのかも。だから、一緒にいけなくてだめなので、行ってください!」


 うまく言葉を話すことができない自分が悔しくて、ひどく喉が熱かった。何いってんのよ、とストラさんは眉をひそめた。「行けないから、お願いだから、わかって! 行けないの! わかってよ!!!!」 すがるように、願った。「わかってよぉ……」 自分の言葉の足りなさを泣きじゃくって伝えた。ぼろぼろ溢れる涙が石畳に丸い縁を作った。ただ、彼らは困惑していた。


「……理由があるんだよね?」


 ヨザキさんは腰をかがめて、私に問いかけた。頷いた。私は魔族だから、一緒に行けない。そう言えばいいのに、この期に及んで彼女たちに伝えることで変わってしまうであろう彼らの瞳が恐ろしかった。村では、私が魔族だと分かると普通の子どものエルはどこにもいなくなって、ただの魔族として大人たちは私を見た。でもそんなこと言っていられない。

 今、大事なことは別にある。伝えようとした。吐き出す息を吸い込んで、声に変えようとしたときだ。


「ストラさんは僕が連れて行く。とにかく、僕たちは騎士団の元へ行く。君も、必ず来るんだよ」

「ヨザキさん……」 


 何言ってるの、とストラさんがキッと青年を睨んだ。そんな彼女を軽々とヨザキさんは抱えた。びっくりした。暴れるストラさんを米俵にして私と瞳を合わせた。よかったという気持ちと、あんまりにも無理やりな自分のやり方に、心底嫌気が差した。小さくなる二人の背中を見送ると、周囲には、もう誰もいない。よかった、と安堵して空を見上げた、そのときだ。


「あ……」


 言葉に、ならなかった。


 曇天の中に、大きな、大きな金の輪っかができている。建物一つ分、いや、それよりももっと大きい。その中から、僅かに小さな爪先が覗いた。それは金の輪を通り抜けるように亀裂を作り、醜悪な姿を少しずつ覗かせていく。ギチギチと鳴き声をあげていた。建物が揺れるほどの声はこいつに違いなかった。

 こんなもの、人の手に、負えるわけがない。全貌を見たわけでもないのに、そう思った。


「……行くから」


 かすれた声が、喉から漏れる。


「私なら、今すぐ行くから! どこにでも行く! だから、だから!」


 もういいじゃない。私がいくから。どうにでもしてくれたっていいから。

 だからどうかと喉が潰れるくらいに叫んだ。でも、あまりにも空が遠くて届かない。どんどん“それ”は無理やりに輪を通り抜け、近づいてくる。せめて、イッチ達も逃げてとお願いした。みんなは何も言わず、ただ空を見上げていた。


 みんなだって怖いはずだった。お腹の中の核がぶるぶると震えている。私も自分が立っていることが不思議だった。足の感覚なんてもうどこにもない。空が、破れる音がした。

 あの男は、私のことを迎えに来ると言っていた。でも、本当はどうでもいいんだろう。決まりきった言葉を吐いているように呟いていた銀の髪の男は、何もかも投げやりで静かにステンドグラスを見つめていた。バリバリとガラスのように砕けた空の欠片が頭の上に降り注いだ。


 周囲には、誰もいない。ただ大声で叫び続ける私が一人だけだ。


 だから、その魔物はぎょろりと大きな瞳を動かして、しっかりと私に狙いを定めた。逃げなきゃと思うのに、足が動かない。いや、動いたところで、すぐさまその鋭い爪に縫い留められるだろう。それくらいに速くて、瞬きすらもできない。なのに届くまでの時間がひどく長く感じて驚いた。


 死んでしまった。


 私は、魔物の爪に切り裂かれ死んでしまった。

 仕方がない。何もかも私が悪いのだ。考えが足りずに、人と一緒にいたいという理由だけで街にやってきた。寂しくてたまらなかった。だからはらぺこ亭にやってきて、女将さんやストラさん、ロータスとみんなでいることが嬉しかった。イッチ達がいてくれて、秘密を話す相手ができて楽しかった。


 だから死んでしまった。私のような間抜けにはお似合いの最期だった。吹き飛ばされて、真っ暗になってしまった視界の中で、不思議と痛みが少ないことに困惑した。ガラガラと瓦礫が崩れる音が聞こえる。それに重たい。ずっしりと何かがのしかかっている。覚えがある匂いだった。ゆっくりと腕を動かして、ぺとりと触ると、それは私よりも大きな、青年の体だった。彼の腹には大きな穴が開いていた。

 かはりと咳き込む度に、ロータスはたくさんの血を吐いた。


「あ……、あ」


 鈍く、青年の手は私の背中をなでた。小さな私には、大きな手だった。大丈夫と言うように、ゆっくりと、彼は言葉を伝えるように何度もなでた。吹き飛ばされた衝撃で崩れた建物からは、ひどく空がよく見える。

 ロータスは腰にさした二本の剣のうちの一本を抜き出し、支えるように立ち上がった。しかし鋭い爪は、彼の顔半分を引き裂いた。今度こそ、悲鳴を耐えきることができなかった。


 魔物の細い、幾本もある手足をぐるぐると動かす度に、辺りが崩れ落ちていく。その中に、私達は埋もれた。魔物は、ぎし、ぎし、と細い手足を動かした。少しずつ遠のいていく。いや、違う。丹念に壊している。建物を崩していく。

 魔物の悲鳴が聞こえる度に震えて、今にも落ちてしまいそうな壁を支えにして、ロータスを抱きしめた。「な、なんで……」 きかなくても、わかっている。私があそこに行ったから。ロータスのもとに向かったから。


 なんだろう、と彼は不思議に思ったかもしれない。そして、人々が逃げ惑う中を反対に走った。魔物の爪の前に飛び出したのは、そんな人だからだ。


 ロータスは、声を出すこともできなかった。ひゅうひゅうと彼の口元は言葉もない息が漏れ出た。もう瞳は半分だけだ。その瞳は、いつもは怒っているくせに、今は困っているみたいに細められていた。逃げなきゃ。こんなところ、いつ崩れてしまうかわからない。イッチ達が一生懸命壁を支えてくれているけど、時間の問題だ。ロータスの両腕を持ち上げて、ひっぱった。子どもの姿じゃだめだ。息を吸い込んだ。そして、大人に変わった。今度こそ、ちょっとは動いた。でもだめだ。彼は不思議そうに私を見上げていた。


「ロータス、もうちょっとがんばって、大丈夫、ロータスは死なないから、絶対に死なないから」


 だって、彼は三年後、結子の仲間になるんだから。だから死ぬわけがない。

 そう言っている口で、心の中は疑っていた。こんなに血を出して、人は生きることができるのだろうか。都合よく、回復のスキルを持つ人が通ってくれるわけがない。ロータスは、片腕を失う。そのはずなのに、彼の両腕はしっかりとあって、怪我をしているのはお腹だった。じゃあ、今から腕もなくなってしまうの? 無理だ。今にも死んでしまいそうなのに。


 そう、ロータスは死ぬ。

 少しずつ、彼のぬくもりが消えていく。


「わ、私がいたから……」


 私はヴェルベクトの街の時間を早めた。その代わりに、ロータスの時間を短くしてしまったのだろうか。本当なら、私をかばう必要なんてなかったのに。

 あんまりにも苦しかった。耐えることもできなくて、大声で泣きたかった。


 でも、今は建物を壊すことに夢中で、意識をそらしている魔物に見つかることが怖くて、必死に嗚咽を飲み込んだ。泣いてばかりの情けない涙の粒が、ロータスの顔にこぼれた。もう彼の口元は、何も言うこともできないけど、ゆっくりと、ゆっくりと片腕を伸ばした。そして、私の頬を無理やりこするように、涙をぬぐった。「死なないで」 呟くように祈った。「いなく、ならないで」 無理やりなお願いだった。


 私は何もできない。ぽんこつで、持っているのも変なスキルばかりで、役にも立たない。人に迷惑をかけてばかりなことが辛くて、死んでしまいたくなった。始めから、私なんていなかったらいいのに。ずっと森の中にいたらよかったのに。


「私なんて、どうなったっていいから」


 本当に大切なのはこの人だ。それを、よくよく理解した。

 だから、勝手に声が漏れていた。


「ロータスを助けて」


 こぼれた言葉はしんとして、どこぞへとしみこんだ。深く深く、地中に眠る根っこに向かって、ずんずんと進んでいく。崩れた建物の向こうには、僅かな光が差し込んでいた。「かみさま」 お願いをした。


 この国には神様がいる。どこにでもいて、聞いている。面白がってこちらを見つめている。

 小さな猫が座っていた。長い尻尾が、ゆらりと揺れた。

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