◆エピローグ◆

 雪の白が景色から消え去り、健気な新芽が芽吹いて地面を覆い、小さな蕾を天に向かって掲げ、色とりどりの花を咲かせ始める早春の頃。


 向かいに座る相手がティーカップをソーサーに戻す音に耳を傾けるのは、リルケニアに来てから何度目だろう。和やかな空気の中で次々に片付けられていく議題と、テーブルの上で互いの間を行き交う書類の束。


 書き込まれては斜線を引かれたり、追記を加えられてより良い内容へと変じていく様は魔法のようだ。


 ここにいるのは私と、イリーナ、イオノヴァ様に、サピエハ様。それから正式に私に弟子入りというか、外交官としての心得を学ぶために預けられることになったオレーシャ様の四人に加え――……非常に居心地が悪そうな表情で席についているアンドレイの姿がある。


 本来彼の座っている席にいるはずだったファリド様を、外交の顔合わせ一回目でフェリクス様が殴ったせいで、急遽アンドレイが代役に立てられたのだ。


 申し訳ないことに内心ほんの少し“ざまぁ……”と思ったものの、一応フェリクス様にはどうしてそんなことをしたのか尋ねたところ――。


 彼は真っ直ぐに私の目を見て『貴方を辛い目に合わせた元凶だ。奴には今後俺の視界に入るかぎり責任を取らせ続ける』という、実質生きている間にファリド様を認めない発言をされてしまい、仕方なくまだ情状酌量の余地があるアンドレイがその座についたのだ。


 けれど今のところアンドレイは家督を継いで早々の受難に耐えている。偉いわ。


「さてさて、それではこれが今回最後の案件だが……春小麦の取引額は、イスクラ嬢が纏めた書類の通りでよいかの?」


「うむ、ポルタリカはこの条件で構いませんぞ。ハマートヴァ子爵もそれでよろしいな?」


 やや圧力のあるイオノヴァ様の声に、話を振られたアンドレイが「え、あ、はい」と、緊張した面持ちで答える。あまりにも従順に頷くものだから、視線で“そんなに簡単に頷かないの”と諭せば“無茶を言うな”と返ってきた。


 隣に立つイリーナはそんなアンドレイを見て肩を震わせて笑っている。


「そもそも最近はイスクラ嬢の采配と、そちらのピメノヴァ商会のお嬢さんのおかげで我々の出番はめっきりありませんからな」


「まぁ……そのようなことは。まだまだ私は若輩の身。お二人のお話に学ぶところも多いですわ。それに閣下におきましては、オレーシャ様のように優秀なお嬢様までお預りさせて頂いておりますもの」


 一通りの目処が立ったところでイリーナの分も含めてそう言葉を挟めば、イオノヴァ様とサピエハ様は同時に「「謙遜は止しなさい」」といつものように声を揃えた。すると隣で丁寧な文字で議題内容を書き留めてくれているオレーシャ様が顔を上げて、年頃の娘さん特有の目で父親を睨む。


 可愛い娘に睨まれたイオノヴァ様は、それでも引っ込み思案だったオレーシャ様の変化が嬉しいのか、ニコニコしながら何度も頷いている。まるで家庭教師との授業中に様子を覗きにやってきた父親のようだ。


 私にはついぞなかった経験だけれど、そんな微笑ましい父娘のやり取りを眺めていたらオレーシャ様と目が合った。彼女は恥ずかしそうに頬を染めて、咳払いを一つ。私達の前に本日の案件をすべて細かく記した用紙を広げた。


「こ、この外交議題の内容は、こちらに、記載しております。あとで、気になる事項がご、ございましたら、お気軽にお声がけ、下さい。ハマートヴァ様以外」


 まだほんの少し辿々しさが残る言葉の最後はけれど、やけにハキハキとした拒絶の言葉で締めくくられた。その瞬間アンドレイの表情が苦々しくなる。何故優しいオレーシャ様がアンドレイを敵視しているかと言えば、原因は主にイリーナとフェリクス様のせいだ。


 私を先生と呼んで懐いてくれるオレーシャ様に、アンドレイと私の元の関係性を話してしまったせいで、彼は彼女の中で完全に敵認定を受けてしまったらしい。おまけに面白い発見としては、彼女は嫌いな人間にはむしろスラスラと滑らかに話せるようなのだ。


 嫌われたくない人物からどう見られているのかが怖いということなのかもしれない。だから裏を返せば嫌いな人間にはどう見られても平気ということだわ。


 その証拠に「どうしても閲覧したければ、先生の良いところを五個挙げて下さい。そうすれば見せて差し上げます」と難題を突きつけている。ちなみにあれは私が彼女に贈ったおまじないの方法をそのまま流用させたそうだ。


 毎回違う良さを挙げさせるという高難易度の問題に、今のところアンドレイはきちんと答えてくれているらしい。近くで聞いてみたいのだけど、最初の頃に彼が必死に抵抗したので止めてあげた。


 すっかり解散の流れになっている中、娘の新しい一面に大いに頷いているイオノヴァ様を横目にサピエハ様が近付いて来られる。


「イスクラ嬢はこの後は陛下のところへ行くのかの?」


「ええ、そうですわ。お義兄様と奥方様との顔合わせのことで少々打合せを。よろしければサピエハ様もご一緒に如何ですか?」


「いや、気を遣わんで下され。あの方も顔を合わせ辛いでしょうからな。ここは乳兄弟のユゼフ様にお任せするとしよう」


 挙式の約束をした一年は、当初の予定にはなかったことが色々あったせいで過ぎてしまったものの、フェリクス様からの提案でガーデニアの花が咲く頃に式を挙げることになっている。


 あの花の花言葉を武骨な彼が知っているとは思えないけれど、私が一人でロマンチックだと思う分には誰にも迷惑はかからない。


 何よりあの子が出産で苦しんでいる時には傍にいてあげられる。フェリクス様は何も言わないけれど、きっと私にとって最善の頃合いを選んでくれたのだと思う。


 そんな彼に報いるべく、こちらもイリーナと彼女の叔父であるミランの広い情報網を駆使してもらい、フェリクス様の兄である第一王子の居場所を突き止めることに成功した。今では手紙のやり取りをする間柄まで関係の修復ができている。


 ただそれでも式に出奔されたお義兄様達を招くのは難しいとのことで、式の前に食事の席を設けて報告しようと思っている。ユゼフ様は『一発くらいあの男を殴らないと気が済まないんだ』と笑っていらしたので、確かにご高齢のサピエハ様を無理にお連れしない方が良いだろうと考え直す。


「でしたらまだ顔合わせまで日がありますので、何かお言付けしたいことがございましたら仰って下さいね?」


「ほっ、ほっ、ならばお言葉に甘えて是非そうさせてもらおうかの」


 そう言ってにこりと微笑むサピエハ様に退出を告げ、イリーナと一緒に部屋を出て庭園の前を通りかかったところで、見覚えのある二つの人影に気づいて立ち止まった。男性二人は仲良く並んでしゃがみこみ、何かを探している風だ。


 隣のイリーナと目配せを交わし、私がフェリクス様の背中に、彼女はユゼフ様の背中に「「何をなさっているのですか?」」と尋ねる。


 すると振り返った二人はほぼ同時に「「これを探していたんだ」」と言って、白い鈴のような花をつけたスノードロップを私達へと差し出す。ユゼフ様からスノードロップを受け取ったイリーナは「綺麗ですわ」と微笑み、そんなイリーナを見てユゼフ様も「お気に召して頂けて光栄だ」と笑う。


 私はフェリクス様からスノードロップを受け取り、世話役の二人からほんのりと漂う雰囲気に、彼の冬の海の色をした瞳へそっと目配せをした。フェリクス様はそれだけで察して下さったのか、膝についた草を払って立ち上がり――。


 「抱き上げる」の言葉と同時か少し早い感覚で私を抱き上げた。いきなり爪先が地面から離れたことに驚いて彼の首に腕を回すと、フェリクス様はまるで悪戯が成功した少年のように微笑む。


 もう見慣れている二人は苦笑してくれるけれど、私は見えることがバレてからこうして抱き上げられる恥ずかしさに未だ慣れない。そんなわけで表情を取り繕うことが間に合わず頬に熱が集中する。


 彼は微笑みの形に目を細めつつ、イリーナとユゼフ様に「先にイスクラと執務室で打合せをしている」と言い、生暖かい視線を寄越して頷く二人に見送られてその場を立ち去った。


 後ろではすでに『わたしのお嬢様のあのお可愛らしいお顔、ご覧になりました?』『それを言うならフェリクスもあんな表情ができるように……』と、何だか思っていたのとは少し違う方面に話が盛り上がっているみたい。けれどそれも彼女達らしいので、今は見守ろう。

 

「毎回思うのだが、イスクラは軽すぎて抱き上げていると心配になる。何でも構わないからもう少ししっかり食べた方が良い」


「まぁ……こんなに縦に嵩張る私を抱き上げてそんなことを仰るのは、恐らくフェリクス様くらいですわ」


 去年の今頃、私は両親を亡くし、幼馴染みの婚約者に捨てられ、祖国が催す盤上遊戯の駒として情勢不安な隣国に差し出さた。哀れだけれど誰も声をあげてまで惜しむ人間もいない、呪われた瞳を持つ外交官の娘。それが私という存在だった。


 本当は今でもまだ私を知らない人達と視線を交わすのは怖い。だけど騎士団の人達や、サピエハ様やユゼフ様達を含む城の人達に温かく受け入れてもらえたことで、恐怖感も段々と落ち着いてきている。


 ――それに。


「貴方を抱き上げようとする男が俺の他にいるのなら、アンドレイのときのように少しその相手と話し合う・・・・必要が出てくるな」


 そんな冗談を言って眉根を寄せてくれるフェリクス様の頬に、スノードロップを持っていない右手を伸ばせば、彼の色をした腕輪がシャラリと揺れた。その音と存在に気付いたフェリクス様は冬の海の青で私を見つめる。


 まだ本音を口にするのは難しい私の唇の代わりに彼に囁きかけるのは、あれほど大嫌いだった不揃いな赤と青の瞳で。


「貴方の瞳は素直で困る」


 低く響くビオラの音色と口付けが落とされるようになった今では、この瞳も悪くないと思っていると本音を言えたら、貴方はどんな顔をしてくれるのかしら?


 ――どうか、あともう少しだけ待っていて。

 ――素直ではないこの唇が“愛しています”と言えるまで。

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◆建前を知らない陛下と、本音を言わない私◆ ナユタ @44332011

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