*41* 許されるなら、貴方を見つめて良いですか。
隠れる場所も逃げる場所もない空間で、この瞳を一番見られたくない相手と二人きりとは……重ね重ね私の不信心が神に何の迷惑をかけたのかと問いたくなる。せめて両手で顔を隠そうとした私の両手は、あっという間もなくフェリクス様の片手で封じられてしまった。
仕方がないので目蓋を閉ざして絶対に開けないという抵抗の構えを見せれば、ほんのすぐ傍でフェリクス様が苦笑する。すると私の手を縫い止めていない方の手が、右手首の腕輪に触れて。そういえばこの秘密もあったのだと思い出して頬に血が上った。
「さっきは怖がらせてすまない。だが貴方に腹が立ったわけではなく、貴方をそうさせた周囲に腹が立つと言ったんだ。他に何か言葉を探しているうちにここまで連れてきてしまった」
壊れ物を抱くように優しく抱きすくめられた耳許にゆっくりと降ってきたのは、そんな耳を疑う言葉で。
「……イスクラ。外交官であろうがなかろうが、俺は貴方を何よりも優先する。だからどうか俺の目の届くところにいてくれ」
溜息と一緒に吹き込まれたビオラの声は、私を内側から壊そうと脆くなっている心を撫でた。
ただでさえすっかり気が動転しているところにそんな風に言葉をかけられれば、いくら何でも泣くなと言う方が無理な話なのに、すすり泣く私の耳に追い討ちをかけるように「貴方に泣かれると、どうすれば良いのか分からない」と囁かれる。
十数年分の涙が堰を失って後から後から止めどなく溢れて、声を殺そうと息を詰めていたのに胸が苦しくなってそれもできない。どうすれば良いのか分からないのはこちらの方だと思うのに、嫌だとは少しも感じられないことが怖かった。
嗚咽を漏らす私のこめかみや頬に何か柔らかいものが触れては離れ、目蓋の端に溜まった涙を啄まれ――え?
「~~~~っ!?」
涙を吸い取った柔らかいものが唇に触れた瞬間、それが何の感触なのか思い至り驚きに目蓋を持ち上げれば、目の前に腕輪の石と同じ色をしたフェリクス様の双眸が飛び込んできて、その双眸に映る自分の泣き顔にさらに驚いた。
彼の瞳が私の瞳を映す。
私の瞳が彼の瞳を映す。
この醜い秘密がついに暴かれてしまった絶望感に呆然としていたら、それまでの触れるものより一段深く唇を啄まれた。正気に戻ったというよりも反射的にその胸を押し返し、睫毛を重く濡らす涙を瞬きで払って顔を逸らす。
涙がひいた代わりに訪れたのは、心臓が壊れるのではないかという動悸だった。
「な、に、を……なさるのですか」
「口付けだが」
「誰が、そんなこと……していいと、言いました」
「気持ちを伝えさせて欲しいのに何を聞いても駄目だと答える人間に、これ以上どう窺いを立てろと言うんだ?」
「も、物事には、順序と言うものがございます」
「順序と言われても、俺は貴方の本音欲しさに他国のクーデターに手を貸すような愚か者だ。そんな男を前にして建前など使われても困る。それとも……今度は何を憂いている? 何を滅ぼせばいい? 貴方の本音が聞けるなら何でもしよう」
その言葉にチラリとどんな表情で言っているのかと様子を窺えば、右手首に揺れる腕輪と同じ……いいえ、それよりももっと抗いがたい深みのある青の輝きが私を射抜いた。強い輝きを放つその双眸から早く視線を逸らさなければと思うのに、何故かどうしようもなく惹き付けられてやまない。
馬車の車輪が路上の小石を踏んだのかゴトンと車体が大きく揺れた。そんな衝撃をもってしても、瞳が一瞬も逸らせない。
初めてこの目で見たフェリクス様の顔立ちは、追放同然にやって来た頃にイリーナに聞いた内容とさほど異なるところはない。多少の差があるとすれば銀灰色の髪は、当初より伸びたのかうなじが隠れる長さで束ねられていた。
瞳は深みのある冬の海の青で、背は座っている状態だから分からないもののアンドレイよりはやや細身。見た目はとても硬度の高い宝石めいているけれど、その雰囲気はどこか荒削りで鑑賞用には向かなさそうだ。
ドアは両手が塞がっていたら足で開けると聞いていたけれど、確かに冬の海の瞳の奥にはそんな荒々しい一面も潜んでいるようだった。
すると視線を逸らせないようにするためなのか、頬にフェリクス様の手が添えられて、お互いの鼻先が擦り合う距離で彼が「貴方の瞳は、朝の始まりと夜の始まりの色だな」と呟いて、驚きに目を見張る私に向かって微笑むとさらに「とても美しい」と言葉を重ねる。
ただ長年染みついた劣等感が「嘘だわ。見ないで下さい」という言葉となって、勝手に飛び出した。自己防衛本能の高さに我ながら呆れるけれど、こればかりは仕方がない。
それはフェリクス様も汲んでくれているのか、流れるような否定だったにもかかわらず気を悪くした様子もなく、私を膝に乗せたまま首を横に振った。
「本当だ。それに建前は分からないにしても美醜くらいは分かる」
「しっかり見ていないからそんなことが言えるのです。こんな瞳、悪魔憑きと気味悪がられるだけで……貴方にとっても後々枷になりますわ」
「枷になるかどうかなどどうでも良い。それよりそこまで言うのならしっかり見ても構わないだろうか?」
「ですから嫌です」
またもや始まった平行線のやり取りに膝の上で身を捩ったものの、フェリクス様は納得いかない様子で「今までの見る目のない輩共には見せたのにか?」と、視線を逸らそうとする私に向かって不満気にそう言う。
その表情が、ユゼフ様のお小言に対してどんな表情をしていたかの答えのようで、少しだけ刺々しくなっていた心が和んだ。とはいえそれはそれ、これはこれと物事には分別をつけるべきである。
「それは……所詮この世は多数決なのです。フェリクス様お一人だけで、世の中の総意をひっくり返したりできませんわ」
両親の墓前で再会してから続く精神的な疲労感から、かなりざっくりとした説明になってしまったのは否めないけれど、それでも彼からの「イスクラは外交官にしては視野が狭いな」との答えにムッとして、思わず「なんですって?」と聞き返してしまった。
自分でも意外なほどに冷めた声に内心驚いていると、フェリクス様はそんな私の反応を面白がるように眉を持ち上げる。たったそれだけの表情の一つ一つがどれだけ心を乱すのか、目の前のフェリクス様は知らないのだろう。
僅かな表情の変化も見逃さずにいたいのに、視線が合うのが怖くてつい俯きがちになった。
「別に怒らせるつもりはないがその通りだろう。貴方の口にする世の中は今のところリルケニアと、モスドベリと、ポルタリカだけだ。当たり前だが世界は三つの国では成り立たない。貴方の瞳を美しいと評する国も人も必ずいる。俺はそう思った。これでまず一人……いや、恐らくイリーナ殿と妹殿を入れて三人だ」
この人は一国の王であるのに堂々と何を言っているのだろう。そんなほぼ身内票で固めた投票結果に何の意味があるというのかと思うのに、一度はひいた涙が新たに浮かんで睫毛の先を重たくさせた。
「許されるなら、貴方を見つめて良いだろうか」
今生で耳にすることがあるはずがないと思っていた言葉の余韻を味わう前に、ふとその双眸が笑みの形に細められて、けれどすぐに何かを思い付いたのかその笑みが一層深くなる。
「いや待て……少し違うな。俺は貴方と見つめ合いたいのだが、良いだろうか」
涼しげな顔立ちと違い、頬に触れるごつごつとした
「私の方こそ許されるなら……貴方を見つめて良いですか?」
不安と期待で滲んだ視界がゆらりと溶けて、世界が
――美しい建前ばかり奏で続けた私の中で、下手くそな本当の音色が目を覚ます。
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