*40* これはどうしたことでしょう。
唐突に抱き上げられた腕の中で、逃げるためにもがくよりも先に咄嗟に両手で顔を隠した。今のフェリクス様の発言だと会話を聞かれていたのは間違いないだろう。どうしてもっと周囲に気を配っておかなかったのかと歯噛みしたところで、もう遅い。
「……裏切ったわねアンドレイ……」
「人聞きの悪いことを言うな。第一イスクラがいつまでも本音を言わないからこんなことになったんだ。恨むなら素直でない自分を恨めよ。せっかく……今度こそ幸せになれるんだ」
「いいえ、私にそんな予定はないの。それに軽々しく幸せになれるだなんて安請け合いは止めなさい」
頭の中は嵐のように乱れ、口から飛び出す言葉は外交官として恥ずべき攻撃的な響きを持っていた。
アンドレイが息を飲む気配がしたけれど、気遣う余裕なんてない。今はただ会わないままで別れるつもりが、何故こんなことになってしまったのかという悔しさと、迂闊な自分に対する情けなさで頭がいっぱいだった。
「フェリクス様も、お聞きだったのなら私の嘘もご存じでしょう。あと少ししたらイリーナが迎えに来ます。貴方を謀ったことは本当に申し訳ありませんでしたが、金輪際まみえることはないとお約束しますので、どうか降ろして下さい」
顔を覆ったままアンドレイが口添えしてくれるか、地面に爪先がつくことを期待したものの残念ながらそのどちらもおこらない。かくなる上は普通のご令嬢よりも縦に長い身体を利用して暴れてみようとしたら、抱き上げているフェリクス様の腕に力が込められた。
「随分堂々とした逃亡宣言もあったものだな。当然だが断る。むしろこの状況で降ろす男がいるなら見てみたいくらいだ」
「でしたら、少なくとも今降ろして下されば第一号になれますわ」
「だったら尚更お断りだ。そんな腰抜けの称号など必要ない。今の貴方は身体は冷えきっているようだが冷静ではないようだ。ご両親には申し訳ないが、後日挨拶させてもらおう」
「両親への挨拶は必要ありません。無理に私のような者を選ばなくとも、ポルタリカかモスドベリから、もっと相応しくて可愛気のあるご令嬢との縁談がきます。ですからもう――、」
「必要ない。貴方以外は」
こちらの言葉を遮ってきっぱりと言い切るビオラの声に、思わず都合の良い勘違いをしそうになる。優しいこの人はきっと、帰る場所のない私を憐れんで引き受けようとして下さっているのだ。
その気遣いと相変わらず建前がない言葉に振り回されるせいで、会話は呆れるほどに平行線。しかもそんなもどかしいやり取りをする私の耳に「イスクラ、もう諦めてあとは二人で話せよ」と、
慌ててアンドレイを引き留めようと声を挙げかければ、不意に抱き上げられていた腕が片方抜かれ、背中に膝を押し当てられる感触に声が引っ込んでしまう。
けれど不自然な体勢になっている今ならと思って身動ぐと、すぐに「無駄なことをする」と頭上から苦笑が落ちて。直後に可愛気の欠片もない言葉しか吐かない私の身体に何かが巻き付けられる。
何かと思って身体を強張らせる私の耳に、喉で笑うフェリクス様の気配が届く。手首近くまでぐるぐると巻き付けられたこれは――……外套だろうか?
しっかりと巻き付けられたそれからは、微かに嗅ぎ慣れた執務室のソファーの香りがした。厚かましくも懐かしいと感じる自分が許せない。
「私のことなどより、フェリクス様はご自分の身を大切になさって下さいませ。貴方はリルケニアの王なのですから」
「そんなことは貴方に言われるまでもなく分かっている。だがそうやって貴方が自分を優先しないなら、俺が貴方を優先するのは俺の勝手だ。それが嫌ならもっと我が身を顧みてくれ」
「嫌では……ありません。けれどたかが外交官相手に……それも家格を失くした相手にここまでして頂かなくとも――、」
無位無官になった私とは立場が違う。単刀直入にそう告げた直後に「何もかもに腹が立つな」と、それまでとは違い本気で苛立った声が降ってきた。まるでビオラの弦を力任せに弾いたときのような低く重いその声音に、本能的な恐怖を感じてビクリと身体が強張る。
何よりもこの優しい人を本気で怒らせてしまったのだという己の無能さに、今まで堪えていたものがせりあがって喉を震わせた。彼は今度こそこんな私に呆れてしまったのだろう。
無言でその場から歩き出したフェリクス様に言葉をかけることができず、両の瞳は覆い隠せても一番唾棄すべき弱さを隠すことができないまま、閉ざした目蓋の隙間から涙が零れた。せめて聞き苦しい泣き声は堪えなければと思うのに、そんな感情を嘲笑うように唇からは嗚咽が漏れた。
涙なんてみっともないものは何の役にも立たない。
嗚咽を漏らす暇があるなら謝罪の言葉を告げるべきだ。
今までずっとそうして生きてきたはずなのに、どうして。
幼い頃から褒められたくて死に物狂いで詰め込んだはずの
肩が震えるほどに感情を抑えきれないことも、自分で自分を宥め透かせないことも生まれて初めての経験で、ままならない感情の全てが怖くて堪らなかった。その間もフェリクス様は無言でどこかに向かって歩き続ける。次にこの腕の中から降ろされたら最後。そうなることを望んでいたはずなのに――……。
『「ちょっと、なに泣かせてるんですか隊長!」』
『「隊長がフラれて泣いて戻って来るならまだ分かりますけど、ここまで頑張ってくれたイスクラ様を泣かせるなんて鬼畜ですよ!?」』
…………?
『「あー、あー、やっぱりユゼフ様に任せてりゃ良かったじゃねぇか」』
『「女心が分からないからって泣くまで追い詰めるとか……引くわー」』
『「それともまさかあれですか、いつも凛としてる女を泣かせてみたいとか、好きな女は泣かせてみたいとかいう特殊な性癖が? イリーナさんに蹴られますよ。あ、でもむしろ蹴られるのもありかも」』
………………?
突然周囲から一斉にかけられた声はどれも聞き覚えがあるけれど、泣きすぎてぼんやりとくぐもっているせいで、幻聴なのか現実のものなのか分からない。
わんわんと頭の中で響き合うその声達に身動げば、頭上から『「泣かせるつもりはなかった。説明はこれからする。だから余計なことを言っていないで、早く開けてくれ」』と、もう聞けないのだと思っていた声が降ってきた。
もう一度声を聞けたことは嬉しいのに、内容の意味がよく理解できない。ともあれこうなってしまったからには、彼等にもお別れを言わなければならないだろう。
みっともない姿を晒すことに抵抗はあったけれど、顔を覆っていた両手をずらして別れの挨拶をしようとしたら急に頭を抱え込まれ、次いで身体が少し傾いだかと思うと、バタンと何かが閉ざされる音がした。
ほぼ同時に身体に巻き付けられていた外套が取り払われ、自分の足がどこか地面ではない場所に触れている感覚と、お尻の下にフェリクス様の膝と思われる感触がある。それで遅ればせながら膝の上に抱えられている体勢なのだと気づいた。
そして何よりも隔てられているものの、すぐ傍で発せられているらしい馬の嘶きと、地面を弾く鞭の鋭い音に合わせて勝手に動き出したこの
「嘘、やだ待って、止めて下さい! まだイリーナが町に……」
焦るあまり思わず顔を覆っていた両手を
おまけに『なので、まぁ、今はどうかリルケニアに着くまで、うちの言葉足らずな隊長の話を聞いてやって下さい』と、そんな無理難題まで課せられてしまう。その言葉に無理だと答えようとしたら急に肩を後ろに引かれて、逃れたはずの腕の中に再び囚われてしまった。
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