*39* 夢は見ない主義なの。

 多くの犠牲を出した内乱の終結宣言がなされたのは、凄惨な王都襲撃戦から三日後のこと。何故その日のうちに宣言が出されなかったのかを聞かされたのは、その現場を目撃していたアンドレイからだった。


『フェリクス陛下のせいで、王とその近衛の見分けがつかなくなってたんだよ』


 頭に白い包帯を巻いて左手を吊った状態で大聖堂に現れたアンドレイに、私とイリーナは“成程”と頷きあったけれど、グラフィナはよく分からないというように小首を傾げていた。


 たぶんあの反応の方が正しい令嬢のすべきものだったのだろうけれど、リルケニアに滞在する間にだいぶそういうことに関して感覚が麻痺している気がする。


 そして今回の件で事前に簡単な打ち合わせをしているであろう、今後の新しい三国間同盟の関わりや国境線の取り決め、ポルタリカとリルケニアの両国に修道院へ支払う御礼金の話、この戦禍で被害を被った王都の住民などへの賠償などなど……国の中枢部分は久し振りの内政で大忙しのようだった。


 アンドレイはさらに病弱で表に出てこない第二王子と、新しい王として玉座につく第三王子の戴冠式は、来年にでも小規模なもので済ませるはずだとも教えてくれて、一度実家のカウフマン領に戻ると言って別れた。


 さらにその三日後には短い期間ではあったけれど、ソロコフ家の当主であった私に会って詫びたいという、第二王子と新国王の連名の書状も受け取った。ただ私はその呼び出しも書状の内容にもすでに興味がないため、短いけれど丁重にお断りの書状を返した。


 七日目にはファリド様の屋敷からグラフィナに迎えが寄越され、グラフィナは私とイリーナも一緒に行こうと誘ってくれたけれど、フェリクス様を待ちたいからと辞退した。


 そんな風にすぐにも無事な姿を見ることができると思い込み、らしくもなく無邪気に大聖堂でフェリクス様を待っていた私の耳に届いたのは、戦場で共に戦った修道騎士や反乱軍の人達のリルケニア騎士団の精強さと、勇猛果敢に戦う軍神のようだったという彼の姿で。


 日に日にその輝かしい功績の噂は大きくなり、彼等のことが誇らしくなる反面、終結宣言から十日もすると、自分の足許にできる影の濃さが増していくことにも気がついていた。


 もうその頃になると、無邪気に誰かが迎えに来てくれると信じられる純粋さは、心の中のどこを探しても見つけられなかった。唐突に夢を見る時間が終わったのだと。ぼんやりと見上げたステンドグラスに描かれたレリーフから、ふと【悪魔の子め】と声が降ってきたような気がして、目蓋を閉ざした。


 ――愚王を倒した英雄の隣に、化け物と呼ばれた令嬢などいらない。


 十一日目の早朝に、私は『まだ待ちましょう』と言うイリーナにその必要はないとやんわり告げて、乗り合い馬車で王都を出た。フェリクス様が迎えに来てくれることを疑ったわけではなく、清廉なあの人に嘘をついていることを知られることが、急に恐ろしくなったから。


 ――そうして、終結宣言から十八日目。


 私は一時的に元ソロコフ領にやって来ていた。その目的は……。


「お父様、お母様、ようやくこうして会いに来ることができましたわね」


 墓石の上に刻まれた両親の名をなぞり、うっすらと霜の降りた冷たいその上に色の少ない花を手向けた。これでようやっと心の支えが下りた気がして、思わず何て薄情な娘だろうかと苦笑してしまった。


 でもこれで私を縛るものはない。それどころかあんなに居場所が欲しかったこの国に、もう何の未練もないことに気付いて少し意外な気分だった。


「グラフィナの子供は順調ですって。来年の春頃に出産予定よ。初孫を抱けないのは辛いでしょうけど、ここに顔を見せにくるように手紙に書いておくわ」


 生きている頃は面と向かって話すことすら難しかった両親も、こうなってしまうと素直に話せる。温かいときに家族らしい団欒はなかったけれど、もうそれも時効だろう。神様からは祈りを捧げるなと怒られそうなので手は組まない。


 少しの間その場で黙祷を続けていたら、背後から「イスクラ、少し良いか?」と聞き馴染んだ声がかけられて。振り返ることもなく「勿論よアンドレイ」と答えて墓石の前を少し空けた。


 すると横からやっぱり色味の少ない花が手向けられ、アンドレイは手を組んで両親のために祈ってくれる。その横顔がまた精悍さを増した気がして、切なさよりも嬉しさが勝った。


 祈りを捧げ終わって顔を上げたアンドレイはこちらを振り向いて、記憶の中にある泣き出す少し前の笑みを浮かべるから、私は幼い頃のようにその頬を撫でた。昔は膝を曲げて撫でられた頬は、今では見上げる高さにある。


「カウフマン様と一番上のお兄様のことは……残念だったわ」


「いや……親父と兄貴はたぶん、ああなるしかなかった。むしろ罪人として処断されるよりもまだマシだ。親父は捕まってた地下牢で衰弱死、兄貴は今回の戦で戦死。家格も伯爵から子爵になったが取り潰しじゃない。下の兄貴は婿養子になっているから降格の沙汰はないだけで温情だった」


「そう。それで貴方はこれからどうするの。ソロコフ領は子爵が治められる領地の広さじゃないでしょう?」


「ああ。元々がオレには分不相応な領地だったから。ちゃんと新しい領主を迎えることになった。オレはその下で補佐につくことになってる」


「……今の貴方になら任せることができそうなのに、残念だわ」


 どうやら昔と違うのは背の高さだけではないようで、アンドレイは涙を零すことはなく、苦い微笑みを深くしただけだった。大人びたその微笑みに、そういえばアンドレイの誕生日がもう過ぎてしまっていたことに思い至る。


 だとしたらもう十八歳。いつの間にかすっかり弟扱いしていい歳ではなくなってしまっていたのだと苦笑する。


「オレのことはもう良いだろ。それよりイスクラこそどうするんだ。新しく玉座につかれた元第三王子に、またモスドベリで外交官の職に就いてくれって打診されたんだろう?」


「あら、その話って有名なの?」


「まぁ、たぶんそれなりに。王家も今さら都合が良すぎるとは思うけど……当然断ったんだろう?」


「ええ、丁重に。だって私はもうこの国の貴族でも何でもないもの」


 軽くあしらってはみたものの、私を見下ろすアンドレイの視線は何かを探るように揺れている。


 ただ探られたところで真実その通りでしかなく、もう最後の心残りだったアンドレイとの和解も終えた今、この国に未練はない。グラフィナの出産は心配ではあるけれど、私がここに残って見守る方がよくない気がするし、グラフィナが出産で苦しむ姿を見れば、まだ許せていないファリド様の罪状が増えそうだ。


 ――……と、


「そうか。まさかとは思うし、オレの言えた義理じゃないが……リルケニアの王妃になる話も断るつもりでいるのか」


 そんな風にいきなり核心を突かれて、一瞬息が止まる。とはいえここに私の足取りを追って来たのだとしたら、そう尋ねてきても何ら不思議はない。


 結局のところ私達は欠けたどこかがほんの少し似ているのだ。皮肉にも一番認めて欲しかった肉親に死に逃げされてしまったところも含めて。


「いやねアンドレイったら、いつの間にそんな女性が好みそうな話に興味を持つようになったの?」


「……誤魔化すなよ」


「ふふふ、からかってごめんなさい。でも今回のことであの方にはもっと相応しいご令嬢との縁談が舞い込むわ。それなのにむざむざ外れを引かされることはないでしょう?」


 成程。アンドレイは揺れていたのではなく、揺らそうとしていたようだ。けれどそれは無駄というもの。私の心はすでに決まっているのだから。


 右手首に揺れる腕輪もこの後ここへ埋めていく。旅先から婚約解消の意を記した手紙を出せばそれでおしまい。きっと多忙な今ならあっさりと受理される。金輪際二度と何者にも心を揺らされるのはごめんだ。


「だからそうやって誤魔化すなよ。昔からオレもグラフィナも、イスクラが本音を言ったところなんて見たことがない。本音のない人間なんていないだろ」


「きっと探せばいるわ。私はイリーナと一緒にポルタリカのさらに向こうの国に足を伸ばすの。彼女には今ちょっとこの領内の支店に話をつけてもらっているところなのよ。二人でピメノヴァ商会の女商人になるわ。そのうちまたこちらに戻ることがあったらよろしくね」


「オレが……馬鹿な八つ当たりでその瞳のことを悪く言ったからなのか?」


「アンドレイの言葉は関係ないわ。私がこの化け物みたいな瞳が嫌いなだけよ。分かるでしょう? 醜くて、昔からいっそ自分で潰したくなるくらい大っ嫌いなの。これだけは私の心からの本音よ」


 私を形作るものは嘘、嘘、嘘、嘘、嘘ばかり。本音なんてそんなもの、殺してしまった方がずっと楽だと知っている。期待して手に入らないものにそれでも手を伸ばすには、他の人々が言うように私はさかしくなりすぎた。


 ――フェリクス様は、


 どんな表情で笑うのかしら。

 どんな表情で怒るのかしら。

 どんな表情で困るのかしら。

 どんな表情で眠るのかしら。


 どんな表情で私のこの瞳を嘲るのかしら。

 どんな表情で私のこの嘘を罵るのかしら。


 違う、きっと彼はそんなことはしない。けれど物事は絶対にそうだと言い切れることはないから。


 欲しかったその表情を見るために目蓋を開いて失うものは、今更大きくなりすぎた。見つめた瞬間に終わる気持ちに名付けることなどできない。


 ならばせめて、一瞬だけでもリルケニアに利益をもたらした外交官として、彼の心に残りたかった。汚い承認欲求だと分かっている。分かっているけれどそんな価値でしか、私は私を認められない。


「心配しないで。私のことを誰も知らない土地で片眼だけ眼帯で隠していれば、ほんの少し訳ありな女性で通るわ。大丈夫よアンドレイ。私は本当に平気なの」


 一番馴染んだ外交官の微笑みを張り付けてそう言えば、アンドレイは苦し気に顔を歪めた。その額に残る傷痕と、未だに吊られた左腕に触れて「名誉の負傷ね、カウフマン子爵」とからかいつつ労いの言葉をかけ、幼いときのように頬に軽く唇を押しつける。


 アンドレイとの関係が修復できただけでもよしとしなければ。そう思ったのにアンドレイは私の背後を見て急に身体を強張らせ、何を思ったのか「これは不可抗力だろ」と、わけの分からないことを口にした。誰が来たのだろうと振り返ろうとしたそのとき身体が勝手に浮き上が――って、何故?


「彼女の居場所までの案内と情報提供、こちらの接近に気付かないよう注意を引きつけてくれたことには感謝する。――だが、それでも面白くないと感じるのは人の性だ。申し訳ないが納得してくれ」


 耳に落ちてきた平坦なビオラの声に、思わず嘘を重ねすぎたことへの罰が厳しすぎると、信じたこともない神を盛大に呪ったわ。

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