*36* 戦場絵画。

「フェリクス様……?」


 流石にこの距離から個人を見分けることなんてできない。直感的なものだ。黒と銀の羽根飾りを持った一騎が高く槍を掲げると、その先端付近につけられている赤と黒の鳥が両翼を広げたリルケニア王家の紋章が翻り、どこからかまた角笛の音が聞こえた。


 出会い頭に弓の一斉掃射を受けた軽歩兵達は恐慌状態に陥り、大蛇はそんな獲物を平らげようと、伸ばしていた身体をユルリと折りたたんで鎌首を持ち上げる。


 哀れな歩兵達は二擊目の槍の突撃を避けきれずにあっという間もなく……溶けた。勿論その場から人間が物質的に消滅したのではない。ただまるで熱したバターナイフを当てられたバターのように無力だった。こうなると、もうここからでも前線の悲鳴や怒号、馬の嘶き、鉄同士がぶつかり合う甲高い音が風に乗って耳に届く。


 私の知らない戦場の音。


 彼には馴染んだ戦場の音。


 銀色の大蛇は歩兵達を平らげるとすぐに水に落とした油のように、一塊ずつ決まった大きさに分裂する。大蛇の形態からさらに密度を上げたリルケニアの兵達は、今度はさながら紋章の通り赤と黒の翼を持つ鳥のようだ。


 けれど一際大きな塊に仲間達が無惨に食い殺された姿を見ながらも、後列の歩兵達はさらに後列の兵達に押し出されて倒れた前列の味方を踏み越える。するとそれを見越してまたリルケニア騎兵が突撃をかけた。


 信じられないことにその先頭にいるのは、フェリクス様だとおぼしき黒と銀の羽根飾り。普通であれば指揮をする立場にありながら、彼は最前列に立っていた。そんなところも彼らしいけれど――。


「イリーナ、もっと戦場全体がよく見える場所に移動したいわ。この大聖堂からだとどこからが一番よく見えるかしら」


「そうですね……たぶんですが、大聖堂の入口にある二つの塔が一番よく見通せるかと思います。いつもなら入口付近に兵士がいますけど、この騒ぎなら持ち場を離れているかもしれません。行ってみましょうか」


「我儘を言ってごめんなさい」


「いいえ、この程度は我儘の範疇にも入りませんわ。それにフェリクス様が心配なお嬢様の気持ちも分かっておりますし、善は急げと申します。これはわたしの勘ですが、きっと誰にも呼び止められませんわ」


 そんな風に微笑んでくれるイリーナに手を引かれて、私達は部屋を飛び出した。スカートの裾を持ち上げて走るなんてはしたない真似をしたのは、生まれてこのかた初めてだ。別館を駆け抜けて一度外へ出て、表側の大聖堂へと向かう。

 

 外に出た途端に先ほどまでとは比べ物にならない地鳴りと振動に足がもつれ、倒れそうになる直前にイリーナが手を引き上げてくれたことで、無様に顔から転ばずに済んだ。ただ新市街へと駆け降りて行く王の重装騎馬兵達が上げる土煙が空気を濁らせ、息苦しさに思わず噎せた。


 何とか到着した大聖堂の扉口を建物の影から覗き混むと、見張りの騎士の姿がない。一時的なことだろうけれど、それでも充分。


 誰もが外の騒動に恐れをなして大聖堂の奥で身を寄せあっている間に、扉口付近の前室にある街の方角を向いた塔の扉を開けて、私とイリーナは一目散に塔の上部を目指して階段を登った。


 要所要所にある明かり取り用の窓から外の音が漏れ聞こえるものの、彼の姿が見えないのが怖くて。心臓と肺はすでに破れそうに痛むけれど、淑女の教えをかなぐり捨てて駆け登った。石造りの塔の内部は寒いほどだったのに、すぐに全身汗まみれになる。


 途中で靴を脱いで手に持ち直し、先を行くイリーナの背を目標に何とか最上階まで登りきると、先に到着していた彼女に支えられてグルリと全方位を見られる展望台に出た。


 呼吸を整える間もなく新市街の方角を見れば、人の姿も馬の姿も小さくなってしまったけれど、代わりに全体を見通せる。冷たい風が火照った頬を冷ます中で目を凝らせば、戦局はさらに新しい動きを見せていた。


 まず歩兵はそのほとんどが溶かされ、残って逃げ惑う歩兵達も味方の騎兵とリルケニア騎兵に踏み潰されていく。一瞬その場で起こっている被害に考えが及んで、胃の中から酸っぱいものが込み上げた。


 絵画でしか見たことのない地獄のような光景を生み出しているのは、一際大きな騎馬の一団。王城から伸びた王の重装騎馬兵の部隊は、すでに引きずられるように半分ほど新市街からさらに外側にまで及んでいる。


 そしてそんな状況を作る一端を担ったのは、私自身だ。ここで一人だけ吐く贅沢など許されない。えづきそうになるのを堪え、大きな鳥が羽虫を啄むような無邪気さでモスドベリ兵を殲滅していくリルケニア騎士団の動きを見つめた。


 黒一色の騎兵が突撃をかける瞬間に、羽根飾りをつけた騎兵が小石を避ける水の流れのように後ろに回り込み、その動きを利用して溜めのない突撃を背後からかける。前列と後列の突撃速度にややずれがあるのは、恐らく波状効果を狙ってのことだろう。 


 前面からの攻撃には恐ろしく強い重装騎兵は、そのぶん横や後方からの攻撃は全然駄目なのだと、昔アンドレイが得意顔で教えてくれた。その教えの通りに後方からの攻撃に内側に折れた重装騎兵の陣形を、立て直される前に今度は横から別のリルケニア騎兵が強襲する。


 弾き出されてバラバラの方向へ逃げ出す重装騎兵は、また他のリルケニア騎兵の攻撃を受けて倒れていく。騎手を失った馬は死に物狂いで走り出し、地上に落とされた兵士達を踏み潰していった。


 ここから見てもはっきりと分かるほどに地面がどんどん黒ずんでいく。あの染みの正体が人なのだと思うと、また胃の中がひっくり返りそうだった。


 リルケニア騎兵の見事な連携の前にモスドベリの重装騎兵は確実に数を減らしている。それでもなお、黒一色の装備が不気味に光る様は否応なく私の不安を誘う。戦闘力の違いではなく、純粋にその数の差にだ。


 少数精鋭のリルケニア騎士団は練度は高いがその一つずつの塊が小さく、モスドベリ騎士団は練度よりも突進力に重きを置く代わりに一つずつの塊が大きい。長時間の戦闘になればなるほど、リルケニア騎士団の方が不利になる。

 

「どうしてポルタリカと反乱軍の援軍は一緒にいないの? いくらリルケニアの騎士団が強くても、このままだと戦力差が埋まらないわ」


 勇敢に戦うリルケニア騎士団を遠巻きにして、疲弊している修道騎士団と反乱軍の生き残りが固まって動かない。一緒に進軍できるように日程を組んだはずのポルタリカ兵達の姿は、まだ戦場のどこにもなかった。


 重装騎馬兵の誇る一斉突撃を、嘲るように軽やかにかわすリルケニア騎兵に危ういところはない。けれどそれもいつまでも続けられるものではないはずだ。


「落ち着いて下さいお嬢様。きっと少し到着が遅れているだけですわ。それにご覧下さい。倒れている者達の中に、まだリルケニア騎兵は見当たりません。ここは彼等を信じましょう」


 その場に膝をつきかけた私をイリーナが横から支えてくれる。何とか彼女の言葉に頷いて身体を立て直そうとしたそのとき――。


「イリーナ……また向こうが光って見えるのは、私の願望が見せる幻かしら?」


 フェリクス様達が現れた方角から、見覚えのある輝きが続々と細い列を成してやってくるのが見える。数にしてモスドベリの残存部隊と同等か、それを僅かに上回る光の筋。イリーナが言ったように移動速度が遅いのだろう。


 なかなか太くならない光の筋は、けれど。


 こちらを目指して、向かってくる。


「いやですわお嬢様。わたしはたった今“少し到着が遅れているだけ”だと申し上げたではないですか」


 にんまりと自信あり気にイリーナが笑う。淑女らしくない商人の姪の笑顔に、私もつられてほんの少しだけ泣き笑いの表情を浮かべる。あの角笛の音がここに響くまで、どうか誰も倒れないでと祈りながら。

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