*35* 二つの角笛。
気弱になった心を叱咤していると、不意に窓の外に視線を投げていたイリーナが「んんっ?」と、若干強めに疑問符のついた声を漏らす。こんな鬱いだ現状で何にそんなに興味を引かれたのだろうと思い、つい私も再度窓辺に立つ。
――すると。
「新市街のもっと向こうに見えるキラキラした線……あれは何かしら?」
「はい、わたしもあれが気になりまして。横一列に見えているから蜃気楼か何かでしょうか?」
「でも夏場ならともかく今はもう蜃気楼が出るような気温じゃないわ。だけど何だか小魚の鱗が反射して光っているみたいで綺麗ねぇ」
「流石わたしのお嬢様はこんなときでも詩的な感性をお持ちですわ。わたしなど、神話に出てくる大蛇が横たわって這っているように見えました」
そんな現実逃避の延長線のような会話を交わす私達の視線の先には、横一列に延びた銀色の線。パラパラと一定ではなく明滅する様は美しく、馴染みのあるものの中から小魚の鱗と表したけれど、まだこの目で見たことはないものの、幼い頃に本で読んだ海の波打ち際はあんな風なのかもしれないとも思った。
二人で窓枠にもたれて揺らぐのを眺めていると、さっきまでの胸を塞ぐような不安が少しだけほどける。けれどそんな安寧を壊すように王城からの角笛の音が近くなり、それに伴い不気味な振動が足許から這い上がってきた。
私は隣に立つイリーナの肩に頭をもたれかけさせ、右手首にはめた腕輪を震える手で押さえて一度目蓋を強く閉ざす。新市街にはまだ戦っている修道騎士団の人々や、逃げずに残った少数の反乱軍の兵士達がいる。城から王の騎士団が放たれれば私が立てた策の犠牲者が出るのだ。
その事実に鳩尾が冷え、緊張と恐怖で強く閉ざした目蓋の裏に青と白の光が瞬く。私よりも少し背の低いイリーナは、それでもそんな私の頭を小さな子供にするように撫でながら――、
「大丈夫ですよお嬢様。むしろお嬢様は被害者で犠牲者です。貴女が悪だと言うのなら、この世に正義がどれほどの数あると言うのですか? もしものときはグラフィナ様とその護衛、お嬢様とわたしだけで逃げましょう。きっとここの人達は大司教様と神が護ってくれますわ」
そう少し、ほんの少しだけ含みというか、棘のようなものを感じさせるイリーナの言葉に苦笑したのも束の間。
――ドッ、
――ドッ、
――ドッ、
統制の取れた軍馬が踏み出すごとに一定の感覚で揺れる地面。
角笛の音がいよいよ大聖堂の傍を通りすぎ、新市街へと下っていくのに合わせて地響きが大きくなり、部屋の中にあった小物がテーブルの上で飛び跳ね、立てかけておいた本が棚からずれて落下した。
怖くともせめて両者がぶつかり合うところを見届けるのは、せめてもの私の責任だ。そう思い気遣ってくれるイリーナの手を借りて、窓から下の新市街を見ようと身を乗り出せば――。
「ねぇ、何だか変だわイリーナ。あのキラキラした線、さっきよりもこっちに近付いて太くなっているわ」
指差す先を見つめたイリーナも「本当ですね」と訝かしむ。けれどそれも眼下を黒一色で固めた軽歩兵と重装騎馬兵の一団が横切ると、意識は遠くに揺れる銀色の輝きよりもそちらを追ってしまう。
“個”のないその隊列に心臓が痛いくらいに脈打ち、俯きかけた途端に軽い眩暈を感じた。でもそんな私の耳にまたもや「んんんっ?」と、イリーナの若干強めに疑問符のついた声が聞こえる。
その声に引っ張られて顔を上げた私は、自分の目を疑った。
「……騎馬兵だわ」
まだしっかりとは姿が確認できないけれど、銀色の線は上下に揺れている。修道騎士団の援軍かとも思ったけれど、食い入るように見つめているうちに益々大きくなっていく銀色の線は、やがて銀色の粒になって、玉になって……人馬の区別がつく大きさになった。
「赤と黒の羽根飾り――……お嬢様、あれはリルケニアの軽騎兵です! フェリクス様達の部隊ですわ!」
興奮して私の身体を抱きしめるイリーナの言葉に実感が追い付かない。都合のいい夢は見たくない、見てはいけないと教わったから。それに“どうしてまだ到着するはずのない彼等がここにいるの?”という疑問が頭を過る。
だけど事実、王城からの角笛の音とは少し違う角笛の音が、風に乗って聞こえてくるのだ。
私達のいる部屋からは見えているこの光景も、地上の兵士達には見えない。ただ自分達の角笛と違う角笛の音に気付いたらしい王城からの軽歩兵達が、俄に動揺するのがここからでも分かった。
それはそうだろう。前日までは一方的に攻めて散らせていた相手が、不敵にも“前進”を告げる角笛を吹き鳴らしているのだから。先頭付近にいた伝令兵が馬を走らせ、その間にも長く延びた歩兵の前線の一部は、すでに新市街外に残っていた反乱軍と接敵している。
すると接敵していた反乱軍と修道騎士団の合同軍は、横一列に伸びていた陣形をあっさりと解き、左右に分かれて後退した。前線にいたモスドベリ兵は接敵の興奮をそのままに前進して追いすがる。イリーナとその動きを追っていた私は、その動きにつられるように視線をフェリクス様達の部隊へと向ける。
もう馬上での人の動きが朧気にだけど分かるような距離だ。
フェリクス様の率いる兵達は狭い間隔で馬を並べ、寸分のズレもなく馬上で胸を仰け反らせたように見えた。その動きに合わせて陽の光を浴びた胸甲が一斉にゾロリと輝く。まるでイリーナが言っていた通り大蛇が身動ぎしたように見えた。
一糸乱れぬ統率の取れた動きに見惚れた直後、弧を描くように銀色の筋が幾つも伸びて……視線で追う先でモスドベリ兵の前衛がバラバラと地面に倒れる。
美しい光の尾をひいたそれが弓の一斉掃射だと分かったのは、そのときが初めてで。美しい赤と黒の羽根を靡かせた中に、一人だけ黒と銀の羽根飾りをあしらった兵士が見えた。
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