*34* 先読みできない。
窓際に椅子を寄せてぼんやりと外を見ていると、部屋のドアが二度軽く叩かれる。こちらを驚かせたり思案しているところを妨げたりしない絶妙なノック音に、窓の外へと向けていた視線をそちらに向けて「どうぞ」と返事をした。
その直後にドアが開き、男性の格好をしたイリーナが滑り込むように入ってくる。この大聖堂の修道士見習いの道着は、彼女の女性的な身体の形をしっかりと隠しており、中性的な感じがして新鮮だ。
「ちょっと外の様子を見てきましたが、予想よりかなり不味い状況ですわ。ピメノヴァ商会の支店は旧市街にあるので焼失は免れましたが、案の定物取りが入っていましたし、新市街の方は目抜通りにあった若手の職人や商人の木造の仮店舗は全滅です。騎馬で駆け抜けられる道幅の確保のためにしても思い切りがよすぎですわ」
新市街の偵察から戻ってきて開口一番、イリーナがそう悩ましげに溜息をついた。視線を戻した部屋の窓からは、彼女の言葉通りまだ黒い煙が新市街の方から立ち上っている。
「まぁ……あの新市街の商店通りを? あそこは若手が揃うだけあって意欲的な商品を扱う店も多かったから、他国からきた商人が外貨を落としてくれる場所だったのに。それにピメノヴァ商会の店舗の損害も心配だわ」
「本当に愚かな王です。けれど通りの店を一掃されてしまったのは惜しいですが、あそこの人間は商人の卵だけあって危険の察知能力には長けておりますわ。恐らくお嬢様達と一緒にこの国にくる前にすれ違った馬車の一団がそうでしょう。ピメノヴァ商会の支店も、中に残してあった商品は安価なものだけです」
最初は軽く憤りを、次いで他者への労り、最後にちょっとした自慢で締めくくるイリーナらしい語り口に思わず笑ってしまう。それに気付いた彼女は「お嬢様は物憂げな表情も素敵ですが、笑ったお顔が可愛らしいですわ」と微笑む。
――国の最高権力者が自らの領地……それも王都に火を放つという凶行に出てから三日目。
王命を受けた騎士達は、火を放った翌日には燃える新市街地の一角を抜けて周辺の村や町に散らばった、反王派の貴族達が率いる私兵達で構成された反乱軍の討伐に向かった。
おまけに昨日からは、ついに救援を要請していた修道騎士団の第一陣が到着し、その直後に王城の胸甲騎兵と歩兵で構成された部隊との戦闘に入ったせいで、王家と神の代理戦争と化した様相は混迷を極めている。
その間にも、他の町に親戚のいない人々が新市街から焼き出されて逃げ込んでくるため、大聖堂の中は連日大騒ぎだ。イリーナは主戦として、私は猫の手程度の補助としてかり出されている。
他の貴族の令嬢や奥方は血を怖がって部屋から出てこず、グラフィナは手伝いたがるものの、精神的な疲れの影響か、今まであまりなかった悪阻がでてきた。ただでさえ唯一の肉親となった大切な妹なのに、身重の身体で無理をさせるわけにはいかない。
ファリド様からグラフィナのことを頼まれている侍女達に、必要以上に部屋から出さないようにと言付け、日課の散歩も取り止めさせた。大聖堂の別館にあたるこの建物の長い廊下を数往復するだけの運動に、当初は唇を尖らせていたグラフィナも、体調の悪さから大人しく従うようになっているけれど……。
自分でも気付かないうちに噛んでいた唇が切れ、口の中に鉄の味が広がった。
「ただ……やはり妊婦の世話をできるような専門のお医者様は、もう街のどこにも残っておられないかと。一通り病院を探してはみたのですが、どこも医療品を必要とする民衆に荒らされていて、包帯の一巻もろくに残っていない有り様でした。お役に立てず申し訳ありません」
苛立ちと共に滲んだ血を指で拭っていたところへ、今までの柔らかな微笑みを一転させ表情を曇らせたイリーナがそう言った。
「そんなことないわ。イリーナには感謝してもし足りないくらいよ。むしろ謝るべきは私の方だわ。貴方ほど優秀な人材を雇うのに大したお給金も払えていない状態だもの。頼りなくてごめんなさい」
「水臭いですわお嬢様。わたしとお嬢様の関係にお給金の話など引き合いに出さないで下さいませ。わたしは旦那様が亡くなられる前に頂いたお給金で、叔父の商会に投資もしておりますし、蓄えの心配など無用です。それよりも今はグラフィナお嬢様のことですわ。妊娠もそろそろ七ヶ月ですから」
「ええ……それにこのところ夜は冷えてきた。おまけにグラフィナは初産なのに、私も貴方も護衛の侍女達もその手の話はまるで分からないもの。もしも精神的な疲れが影響してここで早産になったりしたら……」
一瞬最悪の事態を想像して背筋が粟立つ。医療物資もろくにないうえ、医者のいない場所でのお産。周囲にいる侍女達以外に心の許せる人間はおらず、出産の手助けになるような知識もない。最悪の事態を考えるなという方が無理だ。
短い秋の穏やかな気候はすでに爪先に引っかかる程度にしか残っていない。あと一週間ほどで季節は冬の入口である十一月に手が届く。ここに来た日は懸命な判断だと思えたファリド様の采配は、いつの間にか殺意にすり代わりかけている。
それにアンドレイもアンドレイだ。合流したならさっさと反乱軍を焚き付けて駆けつけるべきなのに、何をモタモタしているのだろう。蒼白い顔で『お姉様は心配性なんだから』と笑うグラフィナの姿が脳裏を過り、一度は噛みしめることを止めた唇に新たな血が滲んだ。
イリーナが歩み寄り「お嬢様、傷が残っては大変です」と言って、唇に自らのハンカチをあててくれる。
ぬいぐるみ。絵本、木製の馬の玩具。シルクの産着と、手袋と靴下、柔らかい生地でできたよだれかけを二十枚、汗疹ができたときに塗る塗り薬。
リルケニアで買い求めたそれらはすべて、まだ性別が分からない赤ん坊用にどれも淡い暖色で無難に揃えた。悩んでいる時間も楽しかったのは、妹の幸せな笑顔を見る日を考えてのことだったのに。
胸に沸き上がる【
ピリッとした微かな空気の振動を肌に感じ、気のせいかと思いつつイリーナのを見れば、彼女も異変を感じた様子で翡翠色の瞳を窓の方へと向ける。しかし窓の外の景色は旧市街地を囲む壁の向こうに上がる黒い煙の筋だけで、特別目新しい変化はない。
やはり気のせいだったのかと窓の外から視線を戻しかけたそのとき、開け放した窓の外……感覚としては大聖堂のさらに上の土地に建つ王城から、今度はさっきよりも幾分はっきりと怪鳥が鳴くような音が聞こえてきたのだ。
あまり馴染みのないその音に私が何の音だろうかと口を開くより早く、表情を硬くしたイリーナが窓辺に近寄り、一度唇の前に人差し指を当ててこちらを向いてから再び窓に向き直って目蓋を閉ざし、耳を澄ませる。
「――……これは進軍の合図に使われる角笛ですね。今まで新市街に火を放っていたみみっちい放火班や華奢な騎兵とは違って、ついに愚かな陛下ご自慢の本命、重装騎馬兵が出るようですわ」
こんな場所に身を寄せながらも神にすがる気持ちなど更々湧かないのに、右手首に淡く輝く腕輪を見ていると、記憶の中に閃くあの背中へすがりつきたくなるのは、私が以前よりも弱くなったからだろうか。
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