★32★ 戦が孵化する時。
装備を一式整えて早く走らせろと嘶く馬に、兵士からは久々に本格的な訓練の成果を見せられる高揚感と熱気が発せられる。それに合わせるように身に付けた武具や防具がぶつかり甲高い音が場を満たす。
もしも【戦】が形のある生き物であるならば、人の欲望という卵から孵化したばかりの幼体は、こんな風に鳴くのかもしれないとふと思う。
軽騎兵が主であるリルケニアの有翼騎士団は、兜に飾られる赤と黒の長い羽根飾りが特徴ではあるが、それらが視界の至るところで揺れるせいで、より一層【戦】の幼体に見えるのだ。
いつかのようにズラリと並んだ鉄の胸甲が鈍く輝きを放ち、今日は手に長槍を、腰には湾曲刀を履き、股がった馬の鞍には短弓と矢筒で武装している。完全に機動力に重きを置いた姿は重装騎馬兵とは違い物々しさこそないが、その実、戦場でひとたび獲物を見つけたときの速度は重装騎馬兵には太刀打ちできない。
どんな重装備から繰り出される一撃も当たらなければ意味がなく、どんなに脆い装甲でも当たらなければ問題はなく一撃が重ければ敵は消える。
兵科には当然得手不得手があり、大抵それは表裏一体だったりするものだ。だからこそ重装騎馬兵が主流な中で、リルケニアの軽騎兵はその速さを恐れられる。
周囲を見渡せばおおよそ整列した馬の背に騎士が騎乗している状態だ。皆一様に闘志を漲らせ、出立の合図を待っている。
彼女が言っていた通り、二日前にポルタリカからすでに援軍が出立したと連絡を受けた。当初の予定よりもこちらから持ち出す兵数が少なくなったのも、彼女が施してくれた根回しの成果だ。共同戦に持ち込んでくれたことで、元の国力が弱いリルケニアの消耗を抑えてくれたのだろう。
おかげで何か留守中にことがおこっても対処できるように、近衛騎兵をすべて残して行くことができる。王都の守護を引き受ける近衛騎兵の指揮は、兄の師として心得のあるサピエハに頼んであった。
驚くことにサピエハが自身の補佐にと選んだのはオレーシャ嬢だ。
彼女はイスクラ嬢ほどではないものの補佐に向いた性分なのか、サピエハが『歳よりは言葉をくり返される方がありがたいのですよ』と言い、この騒動が終わればポルタリカに身柄を返すにしても、戻った先で元のように侮られたりしないよう仕事を教えている。
そんな二人の姿を思い出していたら、先程まで数頭だけ誰も乗せずにいた馬へ騎士が騎乗したことを確認した。それに伴い充分に兵士達の戦闘意欲が高まっているのを馬上から見渡して、そろそろ号令をかけようと口を開きかけたそのとき、こちらへ馬を並べてくる人物の姿があった。
「なぁ、フェリクス。本当にもう出立するのか? イスクラ嬢との約束の日までまだ一日あるぞ。軍備を見直すのにもう一日費やした方が良いのではないか?」
そう彼女達が出立した晩にはその案で決定したことを、今さら蒸し返してくるのは心配性のユゼフだ。どうにもこの乳兄弟には昔からこういうところがある。それが俺と違って頭を使うからだということは分かっていても苛立つ。
「ユゼフ……ここに至って今さら尻込みか? 一日早く出立するのはもう話がついていたはずだぞ。小競合いだろうが、戦だろうが戦況は変わりやすいものだ。約束の日を守ったとして、その間に彼女達が予期せぬ事態に巻き込まれていては本末転倒だろう」
自身で口にしながら不安になるのは、この六日間でよくよくあることだ。以前までは一度も感じたことのない感覚に戸惑い、より一層不安感が増すという悪循環。こんな感覚をこれ以上長く味わうくらいなら、いっそ単騎で駆け出したい気分にかられる。
出立前に第一と第二、それぞれの隊長が揉め出したことに気付いた周囲の部下達がこちらを窺っていた。その育ちの良さから冷静に出方を待っているのがユゼフ率いる第一騎士団で――。
「そーですよユゼフ様! これで間に合わなかったりしたら、またフェリクス様の奥さん候補を探すのが難しくなるじゃないですか!」
「あのな、縁起でもないこと言うなって。単純にフェリクス様だってイスクラ様に良いとこ見せたいんだよ。そうでないとあのアンドレイとかいうガキに持ってかれるかもだろ?」
「あいつイスクラ様の元婚約者か何だか知らんが、やけに馴れ馴れしかったもんな。それにまだ十代だ。どうせイスクラ様に子供扱いされて、つい喧嘩の延長で婚約破棄とかしたんぜ」
「だったらまだ諦めきれてなくて復縁、とかなってもおかしくないよなー」
「イスクラ様って変なとこ隙だらけだからうっかり許しそう」
騒がしく馬を並べてくる育ちの悪い連中は、説明する必要もなく俺が率いる第二騎士団だ。口々にろくでもない発言をする部下達を一瞬殴りたくなる衝動を抑え、殺気だっていた気持ちを落ち着ける。
第二の部下達が話に割り込んできたことで、話の腰を折られ気分も削がれたのか、ユゼフも苦笑を浮かべて「そうか……それもうだな」と浅く頷いた。その一言を聞いた部下達は――。
「それにあんま気を張ってると禿げますよ?」
「結婚相手が見つかる前に禿げると、婚活事情は厳しいんです」
「女性は自分の子供が将来困らないように必死だからよ。オレも母親には感謝してるぜ。親父の髪質が剛毛で母親が髪の量が多いからな」
「これぞ黄金比率ってやつかー?」
などと無遠慮にユゼフを囃し立て、一番近くにいた俺の部下は、ユゼフが手にしていた槍の柄で鐙にかけていた片足を払われ、残った足だけで辛うじて落馬を回避していた。今から戦場に発つにしては暢気なものだが、それがかえってらしいとも言える。
軽口を叩き合いながらばらけるように持ち場へと戻っていく部下達を見送れば、また隊長格の二人組になった。しかし視線を交わしたところで、もうさっきまでのような反対の色は見えない。
けれど自身の第一部隊に戻ろうと馬を翻しかけたユゼフは、不意に身を捩ってこちらを振り返り「おまえは兄のようにいなくなってくれるなよ? それがどんな形でもだ」と釘を刺さしてきた。
その言葉に答える代わりに出撃の報せを伝令に告げ、伝令から報せを受けた鼓笛兵が角笛を吹き鳴らす。けたたましい角笛の音を合図に【戦】の雛が現世に孵る。
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