*30* あの可愛かった子が……。

 出会い頭の“いらない!!”発言がよほど効いたのか、呆然と私に抱きつくグラフィナの姿を視線で追うアンドレイ。昔から喧嘩するときのやり取りが一切変わっていないことを喜べばいいのか、もう少し大人にならないと駄目よと諭せばいいのか……判断に悩んでしまうわね。


 とはいえ、今は腕の中ではしゃぎながら頭をグリグリと擦り付けてくる妹の方を甘やかしてやりたい。


「グラフィナ……私も会いたかったわ。一人でこの国に置いていった貴方が変わらず元気そうで良かった。大変だったでしょう?」


「お姉様は相変わらず心配性なんだから。こんな大変な時期だけど、お腹の子もわたしもすごく元気よ。一度アンドレイがそっちに行ったでしょう? お姉様のリルケニアでの様子を聞こうと思ったら、何故かあのお姉様の後に外交官になった人と一緒に手ぶらで帰ってきたの。おまけにその後は今日まで行方不明」


 たぶん私達を軟禁してこちらに戻ってきていたのだろう。そしてその後あの村に戻って私達がいないことを知り、そのまま捜索の旅に出たということか。


 空白期間の足取りが分かって私とイリーナが視線を交わして頷き合っていると、グラフィナは話すうちにそのときのことを思い出したのか、項垂れるアンドレイを心底忌々しそうに睨んで「あんなお調子者の人にくっついていても、良いお仕事なんかできないわよ」と舌を出した。


 暢気で優しく時々苛立つほど鈍感だったグラフィナは、どうにもこんな時期に母親になってしまったことで、少々気性が荒くなってしまったらしい。妊婦が興奮しては身体に障りそうだ。


 その心配通り呼吸の早くなっているグラフィナの背中を優しく撫でながら、落ち着くように「ええ、そうね。グラフィナの言う通りだわ」と宥める。そこに意地の悪い微笑みを浮かべたイリーナが「お調子者にくっつき虫とは面白い取り合わせですわね」と、傷口に塩を塗り込んだ。


 女が三人揃えばなんとやら。アンドレイは一言も言い返せず一方的に言葉での攻撃を受けて、どんどん頭が深く項垂れていく。ついに馬車の荷台につきそうになったところでようやく気が済んだのか、グラフィナは私の瞳を真っ直ぐに見つめて口を開いた。


「あのねお姉様、反乱軍が動き始めたのは半月前からなの。アンドレイのお父様が捕まってから停滞してる。他の反乱軍に加わっている貴族達は、一旦近くの町や村に散らばっているわ。ただ何故かは分からないけれど、皆がお姉様はまだ戻らないのかと口々に言ってきて……正気じゃないみたいで怖いの」


 グラフィナは人からの好意に対して少し鈍感なところがあるけれど、人の悪意や善意といったものを嗅ぎ分けるのは得意だ。そんなこの子の発言から察するに、反乱軍に関わっている人間達が待っているのは私ではなく、私が外から持ち込んでくる戦力。


 それにグラフィナの発言に混じる違和感に項垂れたアンドレイを見やれば、視線を感じた彼は一瞬顔をあげてこちらを見て、気まずそうに唇を噛みながらまた俯いた。その姿にやはりそうかと溜息をつく。要するに両親が暗殺された事実を、グラフィナはまだ知らないのだ。


 教えて妹が傷付くのが怖かったのか、騙していたのかと憎まれるのが怖かったのか。どちらにしてもアンドレイにとって、私は汚いことに巻き込んでもよくて、グラフィナは不可侵の聖域にいるべきという扱いのようだ。


 確かに逆よりはずっといいけれど、それでも何かしら思うところはある。けれど今はそんなことを気にしているときでもないから、本来は先送りにするのは嫌いだけど諸々の言及は後回しにしようと思い直す。


「そう言えばこの馬車は今どの辺りに停車しているのかしら。それに旦那様はご一緒ではないの?」 


 冷静になれていなかったのは私も同じだったようで、ここにきて初めてこの場にグラフィナが一人だけでいる不自然さに気付いた。すると私の目が常よりつり上がったことに気付いたのか、グラフィナが苦笑する。


「ここはお姉様もわたしの結婚式で来たことがある教会の近くよ。このお腹だと王都の外に逃げるのも危険だからって、あの教会に身体が不自由な人や、身寄りのない子供や、身体を壊している色街の女性達と一緒に身を寄せているの。ファリド様は第二王子と第三王子の補佐があるから一緒ではないけど……護衛の心得がある侍女をつけてくれているわ」


 ファリド様は王族の末席に名を連ねる方であり、グラフィナの夫で王城に勤めている文官だ。


「わたしは妊娠中でも少しは運動した方がいいから、護衛の侍女達を連れてこの辺を散歩していたの。そうしたらそこに見覚えのある肌色の女性が馬車で走って来るでしょう? だから慌てて皆に止めてもらったの」


 明らかに業務以外で迷惑をかけていそうな妹に「そうなのね」と微笑み、あとでその侍女達にしっかりとお礼を言おう。ファリド様の歳は確かフェリクス様と同じ二十三歳。見た目はご令嬢達が見惚れるように涼やかな金髪碧眼、あと眼鏡。物腰は穏やかで紳士的。


 アンドレイは真逆だけど、初めてグラフィナを見初めたときからずっと妹にご執心で……私達の優しい関係を壊してくれた、はっきり言ってあまりいい思い出のない人だ。むしろ苦手と言っていい。


 結婚後は仲睦まじい妹にはとても言えないけれど、正直ここにいなくてホッとしている自分がいた。おまけに妹を一人にして国王側ではないにしても、王家のために働いているのも腹立たしい。


 我儘な感情だとは分かっているので、口から飛び出しそうになる自分の汚い本音に蓋をした……のに、素直なアンドレイは「はぁ? グラフィナが一番大変なときに何やってるんだあの男」と本音を爆発させた。


 アンドレイのこういうところが好きなのだ。今は好きの種類が変わってしまったから、妹に嫌われたくない私の代弁者として有効利用させてもらおう。澄ました顔で「そんな……あの方もお忙しいのよ」と理解のある姉の顔を演じる。そんな私の内心を的確に読めるイリーナだけが苦笑していた。


 結局その後は、グラフィナに頬を引っ張られるアンドレイという懐かしい姿を見て、嬉しそうに私に抱きついたまま「お姉様が教会にいらして下されば、皆もきっと落ち着くわ」と。


 残酷なくらい無邪気で可愛がらないのが難しいような妹の言葉に誘われて、私たち一行は避難所になっているらしい教会へと馬車の進路を変えた。

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