*29* 帰郷。
――ピメノヴァ商会の協力の下、再び商人に偽装するために商品を積んだ幌馬車に揺られて、秋の季節を肌で感じながら旅をすること五日目。
半年前に見たこの景色を、まさかもう一度見ることになろうとは思わなかった。それも元凶となった元婚約者と一緒にだなんて。開け放した幌の向こうに見えるのは、春先の空気には混じらなかった枯れ草の香りと高い空。
薄雲が陽射しを緩くくるんでしまうせいか、空はほんのりと
『必ず迎えに行く。それまで無茶なことはするな』
初めてモスドベリを出立する日には言われなかった言葉を、隣国のリルケニアで聞くことになるだなんて……不思議な気分だった。
おそらくあれは当時の私が芯から欲しかった言葉だろう。右手首の腕輪を撫でながら思い出せるのは、残念ながらあの方の後ろ姿だけだ。
隣国に嫁入りするようにと追放された国に、親の仇を討つために戻る。我ながら中々に波瀾万丈な人生だわ……と。
「どうかしたの、アンドレイ。さっきから私の顔を盗み見たりして」
「べ、別に見てない」
「あら、そうなの。てっきり“ごめんなさい”と言いたいのかと思ったのだけれど。何か言いたいことがあるのなら今のうちに言っておかないと、あちらに合流してしまえば持ち場が違うから、私も貴方も言ったり聞いたりできなくなるかもしれないわよ?」
脅しでも何でもない事実を口にすると、途端に悪戯の見つかった弟の目から、武人の目に変わる。かつては甘ったれた目から、鋭い目に変わる瞬間が好きだった。
「そんな滅多なことを言うなイスクラ。戦いの前にそういう湿っぽい言葉を吐くと悪い結果が寄ってくる」
「験担ぎということね。それも確かに大切だけれど、武は武に、知は知に。言い分はどちらにもあるの。貴方が何ものにぶつかっても越える強さがあるように、私はぶつからないように避ける道を探すわ」
私がそう言うと、こちらを見つめてくる金茶色の瞳に迷いが生じた。アンドレイはカウフマン伯爵家の中では珍しいけれど、武一辺倒ではない。そんな彼に反乱軍の話を聞かされてから、ずっと考えていたことがある。
そのことを聞き出すつもりもあってカマをかけてみたものの、やはり何も聞かされていないのであろう幼馴染みは、不安気に顔をしかめて「何が言いたいんだ?」と尋ねてきた。ということは、アンドレイはまず紛れもなく白だ。
「アンドレイ……この反乱は国に戻った頃には半分くらいは終わっていると思うのよ。準備期間が短すぎた。例え前王が病に臥してからだとしても、四年前。その後崩御されてから今の王に代わられてまだ三年にも満たない。国一つを塗り替えるのに六年は短すぎる。おそらくお父様はもう少しじっくりと時間をかけるつもりでいたはずだわ」
お父様の友人であり、アンドレイの父親であり、いつかわたしが義父と呼ぶはずだったカウフマン伯爵のことを私は結婚してから知ればいいと思っていた。けれどそんな日がくる未来は消え、私は彼を知る機会はなかったのだ。
こちらの含みを持たせた物言いにアンドレイの顔が歪んだそのとき、背中を向けていた馭者席の小窓が開いて馬を駆るイリーナが顔を覗かせた。
「面白そうなお話の途中で申し訳ありませんがお嬢様、王都が近づいて参りますので、幌の入口から見えないように隠しドアを閉めて下さい」
「分かったわイリーナ。だけどもしも兵士に停車するように言われたら逆らわないで。お金で解決できることなら、サピエハ様に今までのお給金として頂いたお金を使うから。無理ならそのときは大人しく捕まるか、アンドレイと貴方を頼りにしているわ」
「畏まりましたお嬢様。お優しいお言葉に是が非でも良いところをご覧に入れたくなりますわ。それからクソガキ、お嬢様におかしな真似を働いたら、治ったばかりのその口の中をまたぐちゃぐちゃにするわよ」
「バッ……変なことなんてするか! こんなときに何を言ってるんだ!」
「は? こんなときでなくてもするなっつってんだろうが、このクソ坊や。この騒動が終わったら色々覚悟なさいませ?」
イリーナは自分から煽っておきながらあわてふためくアンドレイに対し、それまでとガラリと声音と口調を変えて翡翠の目を見開いた。私ですら幼い頃からこれまでの付き合いで初めて見るその表情に、思わず血の気が引く。
アンドレイと二人して震えていたら、イリーナは「まぁ、お嬢様を叱ったのではございませんわ。そんなに怖がらないで下さいませ」と柔らかく微笑む。その表情の変化たるや、外交官としても見習いたくなる驚異の早業だわ……。
身体は大きくなっても、昔彼女から教育と言う名の折檻を受けたことがあるアンドレイが怯えた様子で隠しドアを閉め、イリーナも馭者用の小窓に仕切りを下ろした。けれどまだ王都までは二日ほどある。それなのに彼女がそんなことを言い出したのには、うっすらと予想がついていたのだけれど……。
案の定夜も近くなってきた頃から、馭者席に座った彼女が二言、三言小さく断り文句と謝罪の言葉を何度かくり返すようになってきた。
何か焦げ臭い空気が幌の隙間から潜り込み、隣でアンドレイが「なぁ、この臭い何かさ……」と呟き、直後に「いや、やっぱり何でもない」と言葉を濁す。ここで誤魔化したところで現状が好転したりすることはないだろうけど、私も敢えてそれに答えを出すことはしなかった。
――それから一日半後。
「お二人とも王都が見えて参りましたわ。そして流石はお嬢様、王都から煙が上がっています。どうやらすでに一部に火の手が回ったのでしょう」
その彼女の言葉の通り、しばらくすると幌の隙間から日を置いた暖炉のような香りが入り込んできた。街の一部はすでに戦火に巻かれた後なのか……。アンドレイが悔しげに唇を噛んで俯く。
祖国がこうなっていることは薄々分かっていたのに、それでもやるせない気分になるのは、それでもここが私の故郷だからだろう。
「街から逃げ出す民に紛れて、これから中心部を避けて城壁に沿って城に近づきます。しばらくは騒がしくなるでしょう。わたしもお二人に話しかけることが難しくなりますので、不安だとは思われますがそのままお静かに願いますわ」
その言葉を境にして幌の外が騒がしくなり、やがてそれも遠ざかって、終いには水を打ったかのように静かになった。そして走り続けていた馬車がようやく停まったかと思うと、馭者席のイリーナが誰かと話しながら幌の後ろ側に回り込んできて、私達を隠している小部屋のドアが控えめにノックされる。
こちらが了承するよりも早く、無遠慮に開かれたドアから飛び込んできた何かが私めがけて抱き付いてきたかと思うと――。
「ああ、会いたかったわお姉様!! でもアンドレイはいらない!!」
そう騒がしく膨らんだお腹を押し付けてきて笑ったのは、誰あろう、私が唯一心配していた可愛い妹……グラフィナその人だったのだわ。
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