*27* 何が何だか……。
秋の夕日にとっぷりと浸された宿屋の一室で、アンドレイの腫れ上がった顔に冷たい水で濡らした布を絞ってはあてがう。当ててもすぐに温んでしまう布に、彼の頬の持つ熱がかなりなものだと分かった。
あてがうたびに「いっ、」と上がる声にびくつかなければならないけれど、それでもまだあの場所に気絶したアンドレイだけ放置されることを考えれば、だいぶマシだと言える。
「ちっとも大丈夫じゃないとは思うけど……大丈夫?」
「じゃない――……頬の腫れとか痛みよりは、ざっくり切れた口の中が痛い。そのせいで飯も食えないし、ずっと血の味がしてるのは気分が悪いな」
「そうは言っても口の中の傷は下手に触れないのよ。自然治癒に任せるしかないから我慢しなさい」
私はフェリクス様の手前、久し振りに目蓋を閉ざしたまま動いている。普通に生活している時間が長かったから慣れるまで苦労するかと思ったのに、意外と身体の方はリルケニアでの四ヶ月を憶えていて、割と苦もなく動けていた。
――むしろそれよりも……。
「あまりうるさくして彼女を困らせるようなら、また文句を言えないようにするが。そもそも直前に歯を食い縛っていれば口の中を切ったりしない。受け身も取らずに無様なことだ」
「……うるさいな。咄嗟にできるわけがないだろ」
「そうか。だが俺はできる。決めつけるようなその言い分は正しくない。相手の殺気を読めないと死ぬぞ」
「それを殺す気で殴った奴が言うのか? しかもイスクラを膝に抱えたまま。何なんだよ、オマエ」
「殺す気で殴れば頭蓋が飛び出す可能性があるが、試す気になれば言ってくれ。それとこの体勢だがリルケニアではよくあることだ。気にするな」
「それ聞いて試す気になる奴がいるか。あと変な嘘ついてんじゃ……痛っ」
「フェリクス様、あの、もうそれくらいに。アンドレイもあまり興奮しないで。これはフェリクス様なりの冗談……ですわね? それに王族の方に対して何て口のきき方をするの。不敬だわ」
ついに私を挟んで交わされる会話の応酬に居たたまれなくなり、思わず口を挟むついでに無礼な口をきいたことへの罰として、アンドレイの頬に当てる布を持つ手に少し力が入ってしまった。
しかしそんなアンドレイの言葉通り、何故か私はフェリクス様の膝の上に乗せられたまま、後ろ手に縛られて座らされている彼の手当てをしている。それを他でもない幼馴染みで、初恋の人で、今は弟のような存在に戻った彼に見られて指摘されるのは恥ずかしい。いったい何の苦行なのかと思う。
この部屋には現在、一度は婚約放棄をしておきながら再び現れた元婚約者と、追放された先で王妃候補兼外交官として受け入れてくれた陛下と、捨てられて拐われて拾われてをくり返す私という……何とも奇妙な人物構成になっている。
――こんな謎の状況に陥ってから、今日でかれこれもう二日目だ。
二日前に私とアンドレイは商人の姉弟と身元を偽り、ポルタリカから幌馬車でモスドベリに向けて出立して三日目の帰路を急いでいた。
けれどそれまで好調に走っていた馬車の前輪からおかしな音がして、不自然によれた頃から歯車が狂い出した。
それから少しは走ったのだけれど、ついに前輪の方から無視できない音がしたので道の端で馬車を停めて、状態の確認をしようと前輪を覗き込んでいたら、急に驚いたアンドレイに手を引かれたのだ。
直後に彼が『ソビエスキか!』と叫んでくれたおかげで、眼帯を取って目蓋を閉ざし、右手首の腕輪を隠すことはできた。本音は声だけで悟られるものではない。
けれどそんなアンドレイの気配が、いきなり私の前から生々しい音と共に
だけど、その後にあった後片付けのことを思うとそうも言っておれず――。
それというのも幌馬車はピメノヴァ商会からの借り物で、中には国境での目眩まし用に商品が積まれていたし、二頭の重種馬も返さなければならなかったのだ。なのに馬車の前輪が壊れて動かせないし次の町まではまだ距離がある。
おまけに私には馬車も馬も御せないのに肝心のアンドレイはたぶん気絶中。そして絶対に追いかけてくることがないと思っていたフェリクス様の登場で、私の頭の中は大恐慌状態だった。
結局はフェリクス様に頼んで街道を通りかかる商人達を連れてきてもらい、幌馬車の状態を説明して、その場で数人の商人達と車座になって商談をする羽目に。一対一での商談を避けたのは、私は目が見えない
数人いれば真っ当な商人も、真っ当でない商人もいる。車座のまま一斉に価格を口にしてもらって、中間の価格を出せたところでそれを目安に商談に入った。売れる商品は売り切り、持ち運ぶにも馬車の容量をとる大物だけは多少足許を見られて安く買い取られたけれど仕方がない。
何より私の背後でおもむろに剣の手入れをしていたフェリクス様のおかげで、そこまで市場価格より下がることもなかった。壊れた馬車は一旦その場に放棄して私はフェリクス様の乗ってきた馬に相乗りし、気絶したままのアンドレイは重種馬の背にくくりつけてこの宿屋のある町へとやってきたのだ。
その後も色々とお世話にはなったけれど、そろそろ本当にはっきりとさせておかねばならない。私はアンドレイに向けていた身体を捩り、フェリクス様の方へと目蓋を閉ざした顔を向ける。今は婚約者ですらない高位の男性の膝に座っているということを冷静に考えては駄目。
「えぇと……フェリクス様、この二日間本当にお世話になりました。ですが、私達はこれからモスドベリに戻らねばなりません。急な帰国の理由は身内事ですから申せませんが、ここで今度こそお別れですわ。どうかオレーシャ様と――、」
いつも通り外交官の微笑みを浮かべて“末長くお幸せに”と締めくくろうとしたら、突然フェリクス様に口を塞がれた。自身の口を塞いだものに触れてみれば、骨ばった男性の手だ。抵抗を試みるも当然だけれど少しも引き剥がせない。
今までの人生でこんな風に強引に話を中断されたことがあっただろうか? 答えなど考えなくとも否である。けれど――。
「
耳から入る情報の内容よりも、名前に敬称をつけずに呼ばれたことに内心ひどく動揺してしまう。
口を塞がれて名を呼ばれたことに焦る私の代わりに「はあ!?」と気色ばんだアンドレイが、その直後に沈黙したのは……さっきの会話中にあった物騒な発言と関係があるのかしらと思いつつ。
耳許で「顔が赤い。疲れで熱が出たのか?」と訝る建前のないビオラの声音に、外交官でいられなくなっている自分の声なき本音が恥ずかしかった。
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