*25* 似た者同士。

「どういうつもりか知りたくもないですが、お嬢様を離しなさいクソガキ。この人数差でわたし達が貴男を逃がすとでも思っているのかしら?」


「……できなくは、ない」


 そう言ったアンドレイが私の首筋に鞘のついたままのナイフを当てる。中程で割れる作りをした鞘だ。抵抗すればすぐにもアンドレイは鞘を外すだろう。


 咄嗟に色めき立ったイリーナ達を手で制し、亡命してきたばかりの人達が突然始まったやり取りに後退った。


 当然だけれど彼等の反応から察するに、元の馭者はアンドレイではないようだ。恐らくどこかの時点で相手を襲って入れ替わったに違いない。


 不安に身を寄せ合うその中には眠る子供を抱いた若い女性の姿もある。彼女の姿にグラフィナを重ねてしまった私は、心臓が痛いくらいに脈打つのを抑え込んでアンドレイを見つめた。


「――アンドレイ、この姿勢のままでいいから聞きなさい。私はイリーナ達に助けを乞わないし、大人しくするわ。だから貴方がどうしたいのか教えて頂戴」


 気のせいでなければ、抱きとめる腕が随分痩せている。本当なら穏やかではないはずの心も、長年培った外交官の娘としての矜持が凪がせていく。ナイフの鞘が少しだけ下がったのを期に「歳上と話すのにフードを被ったままでは無礼よ。取りなさい」と注意をすると、アンドレイはそれにも素直に応じる。


 フードを外した彼の頬はランプから離れた薄明かりの中でも痩けていて、幼い頃の記憶にある闊達かったつな子の面影と、婚約してから私を蔑みの目で見ていた彼とも違っていた。ただ暗く澱んだものを宿す金茶の瞳に、かつてのどこか傷付きやすそうな一面を見る。


 ああ……本当にこの瞳だけは変わらない。刹那的で立ち止まらない、愚かで素直で苛立つほどに綺麗な瞳。迷いがあっても止まらない姿には畏怖の念すら抱いたこともある。だとすれば、変わったのは私の方だ。もうこの瞳で見つめられても胸が高鳴ることはない。


 けれど憔悴した瞳に沸き上がる“慰めないと”という気持ちだけは、変わらないままだったようだ。痩けた頬に手を添えれば、アンドレイはそれまでの仏頂面を崩してくしゃりと眉根を寄せる。


 呼吸をそっと整えて目蓋を一度静かに閉ざす。周囲に人の目があることを肌で感じながら、私は自分に“外交官”という鎧を着せる。これは人目がある限り解けることのない魔法だと言い聞かせ、再び目蓋を持ち上げた。


「未婚者の淑女がクソガキにそのように触れては……情をかけてはなりませんお嬢様。それはすでに貴女が情をかけるに値する人間では――、」


「大丈夫よイリーナ。だけど少しだけ話をさせて」


「ですがお嬢様……」


「これは“お嬢様”ではなく“外交官”としての言葉です。私達の会話に口を挟んでは駄目。それよりも気の張り詰める旅をされていらしたそちらの方達を、早くイオノヴァ様の元へ案内してさしあげて」


 馭者席から身を捩ってそう告げると、ピメノヴァ商会の護衛達が小さく頷き返してくれた。彼等はこちらを気にしながらも個々で判断ができ、故に優先順位を見謝らない。この場合最初に護るべきは入荷した商品である“亡命貴族”だ。


 彼等や彼女等が受けてきた一級品の教育は、商人達が崇めるお金に勝るとも劣らない価値がある。商売に直接かかわることのない護衛にもその価値観教育ができているところは流石だ。


 剣呑な気配を纏って睨み合うイリーナとアンドレイの間で、どうしたものかと他人事のように自身の身の振り方を考える。


 ――と。


「オレが用があるのはイスクラだけだ。他の人間が亡命しようが本国に報告したりしない。国を捨てたいなら捨てればいい」


 あまりに傲慢な言い種に、思わず「できれば私も捨てたいのだけれど」と溜息混じりに言ったところ、すぐに「それは駄目だ」と即答されてしまった。幼い頃なら額を物差しでピシリとやっているところだけど、今は無理かしらね……。


 聞き分けのない弟分は、可愛いと呼ぶにはもう手に負えない青年になってしまった。身体の成長と心の距離に目を細めて彼の顔を眺め、口を開く。


「そう、困ったわね。でもアンドレイ、貴方は一度私を追放同然に放り出したわ。お望み通り嫌われ者の私はリルケニアに嫁ぐ気でいたし、それなりに上手くやっていた。その私をまた邪魔をしたのは誰? 理由を聞いても答えずに、貴方はいったい何がしたいの?」


「オレと一緒に、モスドベリに戻ってくれ」


「だからその理由は何かと、私はさっきから聞いているの」


「それは……今ここでは言えない」


 アンドレイにその気はなくとも無駄に会話が長引いている。おまけに引き出せる情報は一切増えない。であれば、これ以上の引き延ばしは無駄だ。


 書類上の外交において時間と手間はそれなりにかけても良い。けれど対面での交渉ごとで意味もなく無駄に時間を取るのは下策。言葉とは生き物であり、情報もまた鮮度が命だ。時間をかけては腐ってしまう。


「だろうと思ったわ。でも、そうね……この場で迷惑をかけた彼等に向かって、貴方が頭を下げて謝罪するのなら戻ってあげる。そして国に戻ったら、ここに亡命してきた人達のことは絶対に誰にも話しては駄目よ」


「……そんなことで良いのか?」


「ええ。自尊心の高い貴方にはそれなりに屈辱的でしょう。それに私はもう叶えたかった我儘の半分くらいは済んだもの。なら、アンドレイとグラフィナばかりがお留守番をして我慢するのは不公平だものね」


 実際に交換条件として出しておきながら、私は内心驚いていた。昔なら『武人は簡単にはあやまらないんだ!』と言っていたところなのに、アンドレイは馭者席から降りこそしなかったものの「すまなかった」と頭を下げたのだ。


 他の護衛達は舌打ちしたけれど、イリーナだけは私と同じことを感じていたのか、ランプの光に照らし出された表情は僅かに怒り以外の揺らぎが見えた。


 彼女も私と同意見なら、交渉の余地はモスドベリに帰るまでの道中にまだあるかもしれない。そんな思案を巡らせていた耳許で「ごめん」と、私にしか聞こえないような小さな声がして。謝られることが少なくなっていたとはいえ、久々に耳にした“すまん”ではない幼い謝罪に、場違いな苦笑が零れた。


 護衛達はこちらの様子を窺うも、こちらが頷いて見せればすぐに亡命してきた貴族達を連れて、闇の中をランプの明かりで切り開きながらイオノヴァ様の元へと移動を始める。


 ただ一人その場に残るイリーナが「もう夜も遅いですから、出立は明日の早朝にしましょう」と提案してきた。アンドレイ嫌いの彼女の中では最大限の譲歩であるし、その方が常識的なことも分かっている。


 けれどアンドレイから感じる焦燥感の切実さから嫌な予感がしてならない今、ここで一晩休んでいくのは得策ではない気がした。かといってここで宿を取ってアンドレイを一晩泊まらせれば、朝には宿の周りをイオノヴァ様が手配したポルタリカ兵に囲まれてしまう心配もある。


 “――さぁ、鮮度が落ちないうちに決断を”と。頭の中で私を急かす外交官わたしの声が、確かに聞こえた。


***


 真夜中の月明かりとランプの明かりの他に頼れる光源のない中を、ほんの一時間前に街に入ったばかりの幌馬車が走る。真面目な二頭の馬達は不満の一つもみせず、時々車輪が地面の凹凸を拾って身体が弾んだ。


 幌馬車の馭者席に並んで腰かける私とアンドレイの間には、心の中に横たわる距離と同じくらいの隙間がある。だいたい成人男性の拳二つ分くらいだろうか。決して遠くはないが、埋めようと思わなければ永遠に埋まることのない幅だ。


「……イリーナを連れてこないで本当に良かったのか」


「くどいわアンドレイ。イリーナには残してきた書類の処分と、これからのことを言付けてある。だから連れてはいけないの。それに私のことよりも貴方のことよ。今さら何故私を連れ戻しに来たの」


「…………」


「まだ言えないは、もう通じない。街からも結構離れたもの。そろそろ話してくれても良いでしょう? 私に何をさせたいの」


 心持ちささくれ立った物言いになったことに気付き、右手首の腕輪をなぞる。そうすればここにはいないビオラの声が聞こえる気がして心が落ち着く。


 隣に座るアンドレイはそんな私の様子を見ているようだったけれど、私はその視線に気がつかないふりをした。馭者が少々よそ見をしても、幌馬車は素直に真っ直ぐ走る。


 ガラガラと木製の車輪が立てる音と、蹄が大きい重種馬の立てるドッドッという重々しい馬蹄。時折ブルルッと小さく鼻を鳴らす馬のたてがみが、風に煽られている様を見つめていたそのときだ。


「親父が……投獄された。処刑されるのも近いかもしれない」


 アンドレイの突然の言葉に一瞬耳を疑った。動揺を隠して隣を見るもアンドレイは正面を向いていて、横顔からでは彼がどんな表情をしているのかはっきりとは分からないが、今の一番の疑問はアンドレイの表情ではない。


「……政治的な立場から批判していた私の父ならともかく、カウフマン様は生粋の武官で対外戦争に賛同している王政派でしょう。それが何故投獄されたというの」


「そこからすでに違うと言ったら、信じるか」


 どこか虚ろなアンドレイの声と不釣合な秋の夜風に、得体の知れない震えが体内を駆けた。自分の内からこの先を聞いてはいけないという声がする。この先を聞かねばならないという声もする。


 どちらも自分の声ならば、私は幸せな無知のままではいたくない。込み上げる唾を飲み込んで「聞かせてもらってから判断するわ」と強がれば、アンドレイは金茶の瞳をこちらに向けて、微かに悲しげに笑った。


「オレの親父とソロコフ伯は、同じ罪を背負っていた。親父は疑いの目を掻い潜れる武官側から。ソロコフ伯は矢面に立って注意を引き付ける文官側から。今の王への反逆を企てた。イスクラとグラフィナの両親を事故に見せかけて殺したのは、現モスドベリ王だ」


 ――私は、本当は心のどこかで薄々分かっていた。


 不穏な内容の書類の数々と、私が憶える端から処分されていったあれらの使い道を。私の使われ方を・・・・・・・。最悪の事態が起きたときにどうなるのかも、本当は、心のどこかで知っていた。


 ――私達は、ただの駒。どこまでも似ているただの駒だ。


「イスクラを追放するように親父が進言して、泳がせて、多方面に働きかけさせて、オレが拐って持ち帰れば、三国の均衡が崩れる。【反乱】だ、イスクラ。祖国が弱体化しても正常な国に生まれ変わらせることができる。オレたちはそれができて、初めて存在を認められるんだ」


 ――どこまでも、どこまでも、愚かな夢を見た。

 ――馬鹿で哀れな、ただのコドモだ。

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