*24* 呪文とはつまり、呪い文句。

 ポルタリカに潜伏し始めてから、一ヶ月と三週間。毎日手紙をしたためている間に、気付けば季節はもう十月になっていた。フェリクス様と一緒にいられた四ヶ月と少しの日々は、すでに夢の中の記憶になりつつある。

 

 イオノヴァ様のお屋敷に匿ってもらい、私の献策に彼の次女であるオレーシャ様まで巻き込んだ。オレーシャ様は繊細で儚げな方で、嘘つきな私のことを“先生”と素直に慕ってくれ、あまつさえ自ら協力を申し出て下さった。


 送り出すにあたってとても心配だったけれど、目が不自由だと偽って居座った私を温かく迎え入れてくれたあの地なら……始まりの形はどうあれ、きっと不幸せにはならない。


 九月の中旬頃からは兼ねてから心配していた通り、ポルタリカ国内の作物が例年よりも少なくなっているとイオノヴァ様が教えてくれた。


 ということは、リルケニアでも同じように数値として現れ始めた頃だろう。サピエハ様の指示の元、これから秋が深まっていく前に輸入での備蓄が間に合うであろうことに、もう関係が途切れてしまった立場でありながら安堵する。


 穀物争奪戦に乗り遅れるモスドベリのことは心配ではあるものの、それこそ本当にどうしようもないことだ。私達にまんまと逃げられたあの外交官が手を打つのか、それとも補佐官のアンドレイが手を打つのか……。


 そんなことを考えながら、ふと今さら何をと笑い、頭を振って目の前の書類整理に気持ちを切り替える。書類は主にモスドベリから到着した貴族達の名前と家族構成を確認し、記憶の中にある彼等、彼女等の情報と差異がないかを確認していく作業だ。住民票以外の書類作成は主に私の仕事として引き受けている。


 私と同じく祖国を出た彼等がお世話になる国にあまり迷惑はかけられない。そしてそれとは別に、自分の確認用として彼等の家名と元の仕事、縁戚関係、敵対していた貴族の家名を纏めたものを作成しておく。


 こうしておけば仮に誰かが裏切って逃げたたところで見つけやすいし、逃げ込む先を潰せ、やる気のある追っ手を差し向けやすくなる。だけどこれをいきなりイオノヴァ様に差し出したりするような真似はしない。


 不安要素がある人材を故意に招き入れさせたと思われては、せっかく呼び寄せた彼等もやり辛くなってしまうだろうから。父から外交官は親しくなろうとも、馴れ合わないものだと教わってきた。


 流石に数十人分ともなれば結構な手間であるので疲れるけれど、これが後々大切な布石になる。そう思えばこそ寝不足気味の目頭を押さえて書類をめくっていたら、部屋の入口から控え目なノック音がして、私が「どうぞ」と声をかけると街に情報収集に出ていたイリーナが入ってきた。


「お待たせ致しましたお嬢様、叔父から手紙が届きましたわ。明日の夜にはこちらに最後の十名が亡命して来るそうです」


「それは朗報だわ。これで全員無事に集結すれば、政治犯と思想犯扱いされた貴族とその家族、六十三名が揃うのね。到着したらイオノヴァ様に住民票を作って頂けるよう手配して頂いてあるから、明日はその方達がいらしたらすぐにご案内しなくてはね」


 待ちかねていた最終亡命組の話を聞いて喜ぶ私に、イリーナが「張り切っておられますわね、お嬢様」と苦笑する。顔に“寝食もそれくらい熱心なら”と書いてあるけれど、それは無視。


 代わりに「勿論よ。これでようやくフェリクス様への恩が返せるのだもの」と返せば、澄ました顔で「クソガキは甘えてばかりでしたものね」とピシャリと言われてしまう。その答えに今度はこちらが苦笑してしまった。


「ええと……そのアンドレイはどこにいるのか、情報はあるかしら」


「いいえ、まだ足取りが掴めていません。表向きは病で臥せっていると不在を隠しているようです。もしや逃げたのでしょうか?」


「まさか。あの子は昔から人一倍努力家なのよ。逃げ出すなんてあり得ないわ」


「情が深いのはお嬢様の美点ではありますが、未だにクソガキへの評価が高すぎるのも考えものですわね」


 言葉を重ねれば重ねるほど凄みが増す絶対零度の微笑みは、私の外交官の微笑みもたじろがせる。表情筋はいつもの穏やかな微笑みなのに、翡翠色の瞳の奥が笑っていない。


「ならフェリクス様のお兄様の情報はどうかしら? ほんの少しの期間だけこの街で目撃されていたというあの情報。新しいものはまだ増えていないの?」


「増えてはいるのですが、まだ確証がないのでお教えすることはできません。それに目撃情報をお教えした二週間前から、ほぼ毎日尋ねられているではないですか。話を逸らそうというおつもりでしたらイマイチな手ですわ」 


 イリーナの言う通りではあるものの、二週間前に知り合いの商人から聞いた噂は私の心を浮き立たせた。リルケニアにいた頃、フェリクス様のお話の中に度々登場した第一王子なる人物は、彼の中に眩しい記憶として残っているようだった。


 だからこそ、会うか会わないかはフェリクス様ご自身で決めて頂くことになろうとも、もしも居場所が突き止められたなら、イオノヴァ様の手を借りてフェリクス様に手紙を出して頂けるよう話をつけてある。


 彼のことだから、きっと会いはしても玉座に戻れとは言わない気がした。恐らくあの人は、お兄様が幸せかどうかを知りたいだけだろうと思うのだ。


 ――そんな彼に引き替え私ときたら……。


「グラフィナは不安がっているでしょうね。もうかなりお腹も大きくなってきただろうし……私があの日大人しくアンドレイについて領地に帰っていれば、もしもリルケニアと小競り合いが起きても王城から呼び戻せたのだけれど」


「お嬢様、ご自分を責めてはいけません。たまにはご自分を認めて差し上げて下さい。お嬢様はこれ以上ないほどの努力家ですわ。イリーナが保証致します。それにきっとここにおられれば、フェリクス陛下もそう仰ったと思いますわ」


 いつもは甘やかされてくるまれてしまう彼女の言葉が、そのときは何故か心にかぎ裂きのような痕を残した。誰に尋ねられてもイリーナに悪気なんて欠片もないと必ず言えるのに、私はそれを、それすらも……細いまち針で縫い止められる虫の気分で受け止めた。


「優しい言葉を無責任に代弁しては駄目よイリーナ。幼馴染みのアンドレイでも受け付けないのだから、きっとフェリクス様も気味が悪いと仰るわ。そもそも目が不自由だなんて嘘をついただけでも不敬なのに、建前のないあの方に何と責められるか……考えただけでもゾッとする」


 醜いと罵られることも、嘘つきと罵られることも、今の私には耐えられない。曇りのない鏡のように真っ直ぐな心のあの人の前では、嘘で塗り固めた悪魔憑きの魔女は壊れてしまう。


 だから私は、何か言いたげに顔を歪めたイリーナに【「明日が楽しみだわ」】と使い古した呪文を唱えた。


***


 ――そうして翌日の夜。


 あっという間にと片付けるには、一日分の書類仕事を終えてダルくなった手を揉みつつ、イリーナの後に続いて、ピメノヴァ商会が怪しい商品の引き渡しに使う裏通りにやってきていた。


 目的は勿論、もう何度目かになる亡命者達の受け入れのためだ。あまり無駄口を叩いてもいけないし、ピメノヴァ商会の縄張りである場所にそう多くの人間を連れてはこられない。


 ごく少数の信用できるピメノヴァ商会生え抜きの護衛と、イリーナ、そして考案者である私という人選でその場で待つこと十分ほど。石畳を叩く馬蹄と車輪の音が聞こえてきた。


 そこでイリーナと視線を交わして頷き合い、幌馬車に見えるようランプにかけていた被いを外してゆっくりと回す。すると幌馬車は次第に速度を落として私達の目の前で停車した。フードを目深に被った馭者が会釈するのを合図に私達も近付く。


 一人ずつ無言で降りてくる人達は皆疲れた様子で、私とイリーナは彼や彼女等に労いの言葉とこの後にまだ住民票の登録をしてもらうことを説明し、最後の十人目が降りたところで護衛の人達が武器の有無を確認して、イリーナが名簿に視線を走らせていた。


 私はまだ馭者席に座っていた人物にここまで運んでくれた礼を述べ、今夜の宿の場所を説明しようと近付いて――……いきなり伸びてきた馭者の腕で乱暴に馭者席まで引っ張りあげられた。


 そして短く悲鳴を上げた耳許で「やっと見つけたぞイスクラ」と。


 幼い頃に妹と三人でかくれんぼをして遊んだときとは違う、低く暗く囁いた馭者は、心配したけど会いたくなかった初恋の人の声をしていた。

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