★23★ 新しい候補者。
いきなり怪しげな商人に連れられて現れたオレーシャという少女の言葉に、思わず手近にあったワゴンからシュガーポットを掴み上げ、苛立ちのままに握り潰した。ぽってりとした銅製の洋梨型シュガーポットは歪に形を変え、容積が減った分押し出された砂糖が床に散らばる。
それを見ていた少女の瞳はみるみる潤み、隣に座る商人は「あーらら、聞きしに勝る腕っぷしだね」と笑った。その対照的な二人の反応に荒ぶっていた内心が少しだけ凪ぐ。
「フェリクス、気持ちは分かるが落ち着け。今このご令嬢に当たったところでどうにもならん。一度腰を下ろして話を聞こう。あと毎回のことだが、苛つくと手近にある硬そうなものを握り潰すその癖はどうにかしろ。余計な経費がかかる」
「……すまん」
「分かればいい。とにかく座れ。彼等の話を聞こう。それとそちらの商人殿も同席するつもりなら名乗ってくれるとありがたい」
ユゼフは俺の手からシュガーポットの残骸を取り上げ、涙目のまま震えるオレーシャ嬢と、この場で一人だけ面白そうに目を細める商人に向き直った。
普通に考えれば一介の商人であれば席を外すべきにもかかわらず、名乗れば同席してもいいと判断したらしい男は、にんまりと笑んで「私はミラン・ピメノヴァだ。何となく予想はつくだろうけど、イリーナは姪だよ」と名乗る。飄々とした姿はあの侍女殿とはあまり重ならないものの、色彩的な合致点は多い。
「さぁ、紅茶に入れる砂糖がなくなってしまったが香りは良い。それでも飲みながら何がどうしてそんな話になっているのか教えて欲しい、オレーシャ殿」
穏やかな語り口で促されたオレーシャ嬢は、ひとまず形式化した釣書をこちらに差し出してオドオドとした視線をこちらに向けたまま、ぽつぽつとことの経緯を話し始めた。
――が、結論から言えばその内容はやはりどこにも納得できる余地がなかった。
一つに彼女達が連れ去られた後に自力で脱走していたことと、祖国に帰らないのは分かるにしても、こちらに戻って来ることすらなくポルタリカへと向かって庇護を求めたこと。
二つに彼女の本音を聞く前に唐突に送りつけられた新しい王妃候補。これでは実質の婚約破棄だ。
三つにこちらに援軍を寄越すことを了承していたはずであるのに、こんな茶番を仕組んだイオノヴァ殿と、この件に噛んでいるらしいサピエハ。
そして四つに……本来ならばこの事実すら俺達に伝えないでくれと、オレーシャ嬢に口止めをした彼女の心理状態だ。
軟禁されていた場所から逃げおおせたなら、どうしてリルケニアに戻って来ないのか、俺にはまったく理解ができなかった。会話の最中にまた苛立ちがぶり返して何かに当たりたくなったが、目ぼしいものはすでにユゼフに遠ざけられた後だ。
仕方なくティースプーンを螺旋状に丸めたり伸ばしたりしていたら、それすらもユゼフに取り上げられた。おまけに「お前はいま冷静じゃない。彼女との話はこちらでするから、お前は質問点だけ言ってくれ」と釘を刺される。
「先に断っておくが僕は決して隣の主と違って気が短い方ではない。外交の場での分別も弁えているつもりだ。しかし今回のそちら側のやりようはあまりに常軌を逸している。それは分かっておいでだろうか?」
「は、はい。それは、勿論です。ですが、父は、これがイスクラ様の、ご意志だから、としか」
「そして貴女は現在もリルケニアに滞在中の彼女と親しくしていた。だが貴女の口からその彼女が何をしようとしているのかは言えない、と」
「い、言えません。約束、なのです。でも、あの、わたしは、イスクラ様の、味方です。父も、そのつもりで、わたしを、王妃候補に」
挙動不審にさ迷う視線、途切れがちな話し方、震える細い声。
銀灰色の不思議な髪色と胡桃色の瞳は父親譲りだろうが、顔立ちは父親に似ず幼さの残る丸みを残しているが、残念なことに振る舞いや弁舌の方は似なかったようだ。しきりに手に持ったクシャクシャの紙を覗き混んでいる。
段々とその紙を覗き混んでから視線を上げる瞳に焦りが滲み始め、何というか……居たたまれない状況になってきた。ユゼフもそう思っているのかやり辛そうにしている。女性に優しい性格だから言い出しにくいのだろう。
ピメノヴァ殿はどちらの肩も持つ気がないのか、ことの成り行きを観察しているだけだ。だったらすでに脅えられている俺が言うべきか――。
「オレーシャ嬢、何が書かれているのか知らないが、いちいちその手にした紙を覗き込んでいては目を見て話せない。一旦その紙はテーブルに置いてくれ」
いつもの声音といつもの表情でそう言っただけなのに、その瞬間彼女はヒュッと息を飲んで目に見えて震えを大きくした。苦し気に浅い呼吸を繰り返すその姿は、鍛練場でも見覚えがあった。
「すまない怖がらせた。俺のこの口調は元からで、別段怒っているわけじゃない。オレーシャ嬢は過呼吸にはよくなるのか?」
隣で席から立ち上がりかけているユゼフを手で制し、できるだけ刺激しないように、今度はさっきまでよりもゆっくりと話しかけると、痙攣のように小刻みに震えるオレーシャ嬢は頷いた。
その答えを聞いて彼女の隣に座っていたピメノヴァ殿が、懐から何かを取り出して彼女の掌に乗せながら「よしよし、これでもお食べ」と、背中を優しく叩くのを見て、便乗する形で「そのまま前のめりに座り直してくれ。落ち着いてゆっくり呼吸をするんだ」と助言する。
オレーシャ嬢は素直に掌に乗せられたものを口に運び、前のめりになったままゆっくりと呼吸をくり返した。十五分ほどそうしていたら落ち着いてきたのか、やっと「ご、ご迷惑を、おかけしました」とか細い声で謝罪されてしまう。
一度怖がらせてしまった手前どう声をかけようかと思っていたら、隣からユゼフが釣書に目を通して「オレーシャ殿はまだ十六歳とあるが、兄上と姉上がおられるのだね」と世間話を始め、彼女の方も「自慢の、兄と、姉です」と少し青白い顔で微笑んだ。
覗き混んだ釣書の中にある彼女の評価に“過度の人見知り”と見えたが、そんな彼女は「話すのは、苦手で」と苦笑し、それでもさっきからずっと覗き混んでいた紙をたたんでお守りのように抱きしめた。
だがこれでようやく騒ぎが収集したと胸を撫で下ろしかけたそのとき、不意にそれまで傍観者の立場であったはずのピメノヴァ殿が、テーブルの上に肘をつきつつ、けろりとした表情で口を挟んだ。
「このお嬢さんは色々約束と制限があるけど、私は口止めも行動制限もされてないんだよねー」
その言葉を聞いていたはずのオレーシャ嬢は明後日の方向を見ながら耳を塞ぎ、にんまりと笑う商人の前には一枚の契約書とペンとインク壺が並べられ、ごく当然のようにサインされるのを待っていた。
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