*20* 本日はお日柄もよろしく。
逃亡生活も十六日目。
毛足の長いフカフカのラグに行儀作法を無視して脚を伸ばし、時折弾む身体を支えるために背中に沿えた円筒形のクッションの位置を確認する。木箱が積み上げられた幌の入口の一角と御者席側の一角を区切るのは、可愛らしい花鳥柄のタペストリーのかかった衝立。
悪路の走行中に中身が飛び出さないようトランクを改造した小さな本棚には、伝奇や恋愛、学術に趣味の手習いものまで、様々な種類の本が雑多に詰められている。現在は比較的揺れが少ない道を進んでいるので、私も本棚から学術書を一冊拝借して読んでいた。
さっき停車中に香りの良い紅茶と軽食を頂いたところなので、お腹の方も満たされているし言うことなしである。ベージュの幌に覆われたこの荷台は、一見すればまるで住み心地の良い家の一室のようだ。一介の商人が持つ馬車がみんなこうだったら、私は明日からでも商人になりたい。
「可愛らしいお顔でキョロキョロなさってどうかしましたかお嬢様?」
「もう、イリーナったら……子供扱いしないで。ただ未だにここが馬車の中だなんて信じられなくて、つい見回してしまうのよ」
「ふふ、そうでしたか。普通商人のはここまでおかしな装備ではないんですけれど、これは少々特殊仕様の荷馬車なんですよ」
向い合わせで座っていたイリーナが、読んでいた本を閉じてそういうものだから、思わず興味をそそられて「特殊仕様って?」とにじりよると、突然馭者席に繋がる小窓が開いて「おっと、後ろの席のお嬢様方はこの素敵な叔父様をお呼びですかな?」と、おどけた男性の声がかけられた。
そこから身体を傾けて覗きこんできたのは、茶目っ気のある朝の森を思わせる深い緑の瞳。黒い髪と整えた顎髭にやや浅黒い肌は、私の大好きな侍女と同じ配色だ。くっきりとした二重目蓋の奥にあるイリーナよりも濃い瞳の色が、この初老に差しかかった男性を少年のように見せている。
彼の名はミラン・ピメノヴァ。
六十三歳にしてまだまだ探求心を失わない商人で、気になる噂や商品があれば、自ら他大陸まで買い付けに行くピメノヴァ商会の現当主。そしてイリーナの叔父であり、私の貴重な情報源でもある。今回もすでに沢山面白い情報を入手できた。
実際に顔を会わせるのはこれが初めてだけれど、そう感じないのは彼が纏う空気のせいかもしれない。
四日前に運良く戻ってきた仕入れに出かけていた馬車の馭者……というのではなく、途中で乗せてもらった知り合いの商人達から私達の現状を聞きつけて、本来こちらにやってくるはずだった従業員と代わってもらったそうだ。
私の瞳を見ても怯えもせずに『これは上等な宝石だ』と笑ってくれたときは、心底嬉しかった。
ちなみに三日前にリルケニアの国境を通過して、今はすでにポルタリカ国の領土内である。出会った当日にミランがイオノヴァ様と商談をしたことがあると分かり、鷹を飛ばして訪ねる旨を連絡してくれた。
実のところ行き当たりばったりでの行動だったので、きちんとイオノヴァ様に面会する手立てを考えているところだったから、渡りに船の申し出だったけど……考えてみれば根回しをしないで直接乗り込む外交は初めてだわ。
「そんなわけがないでしょう叔父様。御者席から乙女の話に聞き耳を立てないで」
「つれないねー、イリーナは。昔は私がお土産を持って遊びに行ったら、帰りしなには“まだ帰らないで!”って大泣きしてくれたのに」
「ちょっ……いつの話をしてるんですか叔父様! 違いますよお嬢様。そんなのはもう二十三年ほど前の話ですから」
いつもは歳の離れた姉のようなイリーナが頬を染めて焦るのがおかしくて、つい笑ってしまったら「まぁ、お嬢様が笑って下さるのでしたら安いものですわね」と苦笑されてしまう。そんな私達を横目に手綱を操るミランは楽しげに目を細める。
「これはねー、貴人のお忍び用に使う馬車だよお嬢様。私たちの商売はただ荷物を運ぶだけではなくてね。時々こうして可愛いお嬢様方を運ぶこともあれば、政権争いに負けたお貴族様の出国をお手伝いしたり、はたまた親の選んだ婚約者から逃げる恋人達を乗せて愛の逃避行に加担するのさ」
「要するに節操なく仕事をこなす何でも屋ですわ。お小遣い稼ぎをしつつ、相手の弱味を握るのも大切な繋ぎを作るお仕事ですからね」
「イリーナ、言い方をもっと飾って頂戴よ。叔父様傷ついちゃう」
「苦情は受け付けませんわ。それよりもきちんと前を向いて馬を走らせて下さい。脱輪してお嬢様が怪我をしたりすれば、二度と叔父様と口をきかないわ」
ポンポンと小気味良く飛び交う親戚同士の気安い軽口の応酬に、ついに声を立てて笑ってしまった私を見て、イリーナとミランが小窓越しに顔を見合わせる。
「もうあと二時間くらいでお嬢様方の目的地、ポルタリカの王都ベノムだ。どうせ降りたらすぐ働くんだろうから、到着まではゆっくり休んでなさいよー」
***
そのミランの言葉からぴったり二時間後、お忍び用の馬車はついにベノムに到着した。流石に王城に乗り付けることは憚られたので、ミランが落ち合う場所を予め指定してくれていた。
おかげですぐに待機してくれていたイオノヴァ様の屋敷の使用人から王城へ連絡が行き、あとはご本人との対面を待つだけ……だったのだけれど、残念なことに多忙なミランはすぐに次の仕事があるとのことでそこでお別れとなった。
「あの、ここまで送って頂いてありがとうございました。持ち合わせが少ないのですがお代を――、」
「ああ、お嬢様、それっぽっちの金額はいらんよ。お代は是非上手くやったときの出世払いで。それと賭博場で旅費を稼いでたお嬢様達を心配する必要があるとも思えんが、二人とも気をつけてね。可愛いイリーナ、イオノヴァ様にまた仕事があればよろしくと伝えておいて」
「はいはい、お嬢様のお耳に余計なことを吹き込まないで叔父様。ここまでの乗車代金はこの腕輪の代金で手を打って下さい。イオノヴァ様にはきちんと叔父様の伝言を伝えておきますから、ほら行って」
「ははは、その物言い、年々アセルに似てくるねー。ま、そういうことならお代は良いよ。二人ともまたね」
――と、それだけ言うとあっさり馬車で行ってしまった。商人との別れに余韻がないとは常々聞いていたけれど、本当に呆気ない。でもそれも彼等らしくて面白いのかもしれなかった。
それから指定した不自然なほどお客のいない古い喫茶店で、イリーナと談笑しながら待つこと一時間ほど。通りに面した窓から何の変哲もない馬車が通りすぎるのが見え、イリーナと頷き合う。
どれだけ考えたところで、半ば勢いで飛び出したこの身。アンドレイのところから逃げ出した私達が使えるカードはそう多くない。となれば交渉ごとに使えるものは何でも使おうと、ミランも含め道中三人で話し合ったのだ。
導き出した一手は粗削りながらも、商売の道では将軍の地位まで登り詰めている彼の及第点をもらった。
「それではお嬢様、博打を打つ準備はよろしいですね?」
「勿論よ。このところ緊張感を味わうのが癖になっているみたいなの」
「まぁ、わたしったらお嬢様に悪い遊びを教えすぎたかもしれませんわ」
昼間でも薄暗い店内で隣り合って座るイリーナが心にもないことを言って、楽しそうに笑う。
失敗したら最悪捕まってモスドベリに強制送還。上手くいっても妹とアンドレイには少し憎まれるかもしれない。
だけど私はあの人からもらったバラの香りを知っている。あの人と寝転んだ芝の感触も、胸一杯に吸い込んだガーデニアの香りも、握った掌の温かさも、ビオラの声も。だから大丈夫、平気だわ。
右手首に輝く鈍色の銀と、深い青。それをソッと一撫でし、眼帯を外して目許を隠していた前髪を耳にかける。浅い呼吸を繰り返していると、店の入口にかかっていたドアベルが“カロン”と鳴った。
そして一時間前に聞いた使用人の声に続いてイオノヴァ様の小さく囁く声が、私達以外に誰もいない店内に響く。使用人を帰らせたのか、一人分の足音が奥まった場所にある私達の席に近付いてきて立ち止まる。
「いや失礼、直前に急ぎの書類が手許にきてしまって。随分と待たせてしまったな、ソロコフ嬢」
かけられた馴染みの声にイリーナの手を離して立ち上がり、しっかりと向かい合った状態で、私は目蓋を持ち上げたまま「いいえ、無理を申したのはこちらですわ。お越し下さいましてありがとうございます、イオノヴァ様」と、精一杯の虚勢を張ったカーテシーをとった。
彼はそんな私の瞳を見て一瞬目を見開き、唾を飲み込んだのか二度ほど無言で喉を動かした。初めてお顔を見たけれど、耳にしていた声の感じよりも幾分重々しく見える。
イリーナの言っていたようにやや後退気味かしら? ほとんど銀色になった中に、僅かに灰色が混じる短髪を撫で付け、同色の口髭を蓄えた恰幅の良い紳士だ。緊張して震える身体を叱咤して微笑めば、イオノヴァ様は少しだけ緊張した面持ちを緩める。
無言の彼に椅子を勧めて、私達も再び席につく。赤い瞳と、青い瞳。この双眸で見つめることで相手が萎縮するか、激昂するか。それだってもう賭けのうちだ。
「本日はお願いというか、提案があって参りました、閣下」
「……提案とは、外交に関することかね」
胡桃色の瞳がジッとこちらの心を見定めようと思案した瞬間を見逃さず、テーブルの下でイリーナと固く手を握ったまま渇いた唇を開く。
「ええ、祖国の一部を切り売りしにきたのですわ。一口乗って頂けませんか?」
本日はお日柄もよろしく、祖国の端っこを勝手に切り売りすることにしました。
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