◐幕間◑悪夢。

 ――真っ暗だ。

 ――何も見えない。


 さっきまで何をしていたのかは忘れたが、いつの間に夜になったのだろうと訝しんでいたら、不意に視界が明るく開けた。


『はじめましてアンドレイ。わたしグラフィナよ。おおきくなったら、あなたの奥さんになるのだって。よろしくね!』


 そう言って波打つ明るい金髪と、上質なサファイアのような青い瞳を持った幼い少女が笑う。そこで瞬時にこれが夢の中であると気付く。


『初めまして、アンドレイ。私はグラフィナの姉のイスクラよ。妹は他のご令嬢達よりもちょっと元気が良すぎるけど、仲良くしてあげてね?』


 そう先の少女よりも歳上らしい、癖のない赤みがかった金髪と、ルビーの赤とラピスラズリの青の瞳を持った少女が笑った。


 ――これは初めて親父に連れられてソロコフ家に縁談を申し込みに行ったときの、五歳のグラフィナと、九歳のイスクラだ。 


 前者の垂れ目な少女とは対照的に後者はつり目。前者は正直、後者は嘘つき。前者は感情豊かで、後者は人形のようにいつも美しく微笑むばかり。かつては『アンドレイは凄いわね』と優しく頭を撫でてくれる、赤と青の双眸を持つ少女を姉のように慕った。


『ごめんなさい、アンドレイ。わたしがデヴュタントにはしゃいで目立ってしまったせいで、こんな――……ごめんなさい』


『泣かないでグラフィナ。アンドレイも。私たちは臣下の子だもの。王の采配に楯突けばどうなるか……ああ、でも……あんまりだわ』


 ――これはデヴュタントの直後。十五歳のグラフィナと、十九歳のイスクラ。


 幼い頃から将来を誓っていた波打つ金髪を持った婚約者を、デヴュタントの直後に横から奪われた。仲が良い幼馴染みから仲の良い夫婦になって、自分の家族の誰より近しい存在の優しい義姉を得て、両家の架け橋となって一緒に生きようと誓ったはずの未来が潰えたとき。


 信じられないことに元婚約者だった幼馴染みの父で、彼女と結婚したのちは義父と呼ぶはずだった人と、うちの親父は何故かそれを喜んだ。それだけでも怒りが沸き上がったのに、さらに親父達は今度はイスクラを新たな婚約者に据えた。


 ――イスクラは、それを拒まなかった。

 ――グラフィナは、それを『姉様となら』と納得した。

 ――オレだけが、納得できずに、ここから全てがずれていった。


 姉と慕ったイスクラは、両家があっさりと王族に連なる家に婚約者をやった代わりにと差し出されたくせに、こちらが義務感から屋敷を訪ねるたびに『ごめんね、アンドレイ』と謝る。その卑屈さが日に日に我慢できなくなっていった。


 どうせなら謝るのではなく、一緒にこの不自由さと理不尽な仕打ちに怒って欲しかった。そのうちに段々とまともな接し方も忘れ、どうしようもない破壊衝動だけが身体を支配するようになる。


 愛していたわけではない。けれど傷付けて痛めつけたいわけでもなかったわけでもない。だが日に日に深くなっていく仄暗い感情は止めようがなく、顔を合わせれば皮肉を言う自分が嫌で距離をとった。


 どうせオレが学園を卒業したらすぐに式を挙げ、毎日嫌でも顔を合わせる日が続くのだからと。


 ――しかし十七歳の頃、またオレは婚約者を失うことになる。


 彼女達の両親が死んだのだ。不審な点が多々あるものであったにも関わらず、不慮の事故として片付けられた。


 流石に慌てて彼女の元へ向かおうとしたものの、屋敷を飛び出す間際に親父に呼び止められ『イスクラ嬢はリルケニアに嫁がせる』と、わけの分からないことを言われ、足許にぽっかりと穴が開いたような気分になった。


 ここにきて初めて彼女も所詮はただの使い勝手の良い駒だったのだと知り、これまで自分が彼女に理不尽にぶつけてきた悪意と憎悪が揺らいだ。


『ソロコフ殿が王政派の手にかかったが……これで期は熟した。愚王に反旗を翻すときだ。イスクラ嬢はソロコフ殿の遺言通りリルケニアへ向かわせる。表向きは王に逆らった者への見せしめだ。彼女は聡い。王族に嫁いだ妹を案じて、きっとこの国の歪さに気付き外からその隙を突き崩そうとするだろう』


 馬鹿なオレは、十五歳の頃からただの一度も気付かなかった。楽天家なグラフィナはともかく、才女と名高くても自己評価の低いイスクラも、恐らくこんな事態は想定していなかったに違いない。


 何も見ようともせずに傲慢に八つ当たりし続けた挙げ句がこれか、と。


『長年外交官として働いたソロコフ伯爵を慕うものは多い。それにあの瞳だ。リルケニアに嫁いだところで数年は手をつけられないだろう』


 いつも“美しい瞳だ”と褒める裏側で、そんなことを考えていたのか?


『その間に腐った現国王を引きずり降ろす。身体の弱い第二王子にはすでに聞き分けて頂いた。次の玉座には第三王子に就いて頂くぞ。彼女は悲劇を乗り越えた女性として再び国に戻り、王位継承戦争の象徴となってもらわねば』


 ――現国王は確かに狂っている。

 ――だが親父やソロコフ伯爵も大義に酔って狂っている。

 ――それなのに……。

 

『喜べアンドレイ。何もかも兄達に劣った半端なお前の存在が、初めて我がカウフマン家の役に立つ』


 その言葉に『分かり、ました……父上』と、僅かな親子の情にすがって答えたあの日の自分を殺せたら。そしてきっと、十五歳のオレがこの言葉の意味を味わうよりも先にこの苦味を知ったのは、会うたびに謝っていた四歳上のイスクラだ。


◆◆◆


「――また、あの夢か」


 目蓋を持ち上げた安宿の硬いベッドに横たえた身体から嫌な汗が噴き出す。


 いつも控え目で大人しく、幼い頃から三人で遊んでいても淑女の構えを崩さなかった四歳上のイスクラ。彼女はどんなときも選択を誤らない。そういうところが腹立たしくて、同時にいつも強く憧れた。


 傍にいればどれだけ傷付く言葉を他者からかけられても、それを上回る肯定の言葉を浴びせてくれる。例えそこに本音はなくても。


 今度こそ昔の暴言の数々を謝ろうと思ったはずなのに、イスクラはやっぱり選択肢を誤らず、瞳を隠す道を選んでリルケニア王の信頼を得ていた。代わりにモスドベリから現れたオレたちには、目蓋と一緒に心も閉ざしていた。


 その結果としてまたイスクラに八つ当たりをし、彼女はオレの天敵であるイリーナと逃げる道を選んだ。どこまでも正しい幼馴染み。二週間前に姿を消したイスクラ達の足取りはまだ掴めない。


 逃げてくれ。

 逃げないでくれ。

 相反する思いが胸中に渦巻く。

 イスクラの瞳は綺麗だと、誰か、彼女に伝えて。

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