*19* 順風満帆に逃走中。
八日前に逃亡を決めたら即実行と、その日の夕食を運んできた食事係をイリーナが関節を決めて絞め落とし、お財布を失敬して暗闇に乗じて逃げ出した。
ここでもすっかり舐められていたのだと分かったのは、見張りが二人しかいなかったことだ。アンドレイもあの外交官も、きっと私が逃亡するとは夢にも思っていなかったのだろう。そう思うと、何だか愉快な気持ちになって。笑い出したい気持ちを堪えて村を出た。
モスドベリと違って割と近距離に小さな村が点々とある土地柄はありがたい。途中の村にある雑貨屋で毛染めを購入してイリーナに焦げ茶色に染めてもらい、眼帯を買って目立つ方の赤い瞳を隠した。古着屋で適当なワンピースを買い、着ていた服はどこか町で売ろうということになった。
いくら地味なドレスとはいえ、布地はそれなりに高価なものを使用しているから、村で売っては買値にも困るしそもそも怪しまれるもの。そしてその後は町に着くたびに古着屋を探して洋服を買い換えて行動した。少しでも足がつきにくくなる細工はしておいて損はないだろう。
王都のオレニアから連れ去られてもう十二日目。相手は嫌な思いをさせられたのだから、そもそも追っ手がかかる心配がない。だとすればアンドレイ達に警戒していればいいだけだ。
彼等も私達もリルケニアの地理を地図で確認はしていても、実際にその土地に行ったことはないので土地勘が皆無なのは同じ。この六日間で追っ手に出くわしていないにしても、警戒はしなくちゃね。
その条件でいけば短慮な女二人、国境沿いにあったあの村から村へと人目の少ない道を使って一筆描きで移動すると考えるだろう。それなら逆張りをして堂々と町から町へ、大きな道を使って移動することにしたのだ。ただ唯一お金だけ不安はあったものの、それも最初の町に辿り着くまで。
町に入った瞬間イリーナが『金貸しから少しお金を借りて、それなりに品のありそうな賭場に行きましょう』と言い出したときは、本当に驚いたけれど――。
「今日の稼ぎはなかなかのものでしたわね。流石は
「ええ、そうね
彼女はサイコロ。私はカード。二人で挑む賭場での
「でもこれなら明日は乗り合い馬車で移動できるわ」
「わたし達はなかなかいい賭博師になれるかもしれませんわね。どうです、こんな形で才能が開花するのも悪くないでしょう?」
「確かに実益と実学を兼ねてて良いわね」
「そうでしょうとも。コツさえ掴めば路銀を稼ぐのに便利な手なんですよ。カーラは意外とこちらの道も向いているようで嬉しいですわ」
軽口を叩きあいながら見上げる空は抜けるように青く、その中に豆粒のような鳥が泳いでいた。視線を通りに戻して人の流れを見つめ、立ち並ぶ露店に気になるものがあれば自分で選び、安価であれば購入する。これは今まで色々な経験ができたリルケニアの中でも特に大きな経験だ。
稼ぎ方がどうであれ、自分で手にしたお金で自分のものを買うという貴重な体験。いつも紙の上で踊っていた数字の金額とは桁が全然違うけれど、これが経済を回すということなのかと感慨深いものがある。
でも時々ふっかけすぎな露店や、むしろ安すぎる露店も見受けられたので、これは紙の数字ばかりを相手にしていた私には新鮮だった。
「ああ、でも今回は乗り合い馬車の心配はいりませんわ。さっきこの町にピメノヴァ商会の紋章を見つけましたから。そこに出向いて
そう言って茶目っ気たっぷりにイリーナが首元から除かせたのは、金色の鎖についた円筒形の不思議なペンダント。あれにインクをつけて紙の上で転がせば、イリーナがピメノヴァ商会の重要人物の血縁者であることが分かるという寸法だ。
複雑な紋様は血縁者によって違うので、誰が訪ねて来たかすぐに判断できるらしい。商人、特にピメノヴァ商会専用の手形みたいなものだと理解している。方針が決まれば即断即決。早速イリーナにくっついて、ピメノヴァ商会の紋章を掲げていた店に入った。
カウンターで彼女が手続きをしている後ろで店の小物を眺めて楽しむ。細かな細工で貴人が求めそうな高価なものと、安価だけれどこの値段でこの作りなら大満足という商品の両立ぶりに感心してしまう。
「カーラ、何か気になるものはありましたか? 紋様確認が済むまで少し時間がありますし、ここなら気になるものがあれば割引価格で購入できますよ」
「ああ、リーナ。別にそういうわけではないのだけれど、色々なものがあるからつい見入ってしまって」
「それは嬉しいですわね。カーラのお眼鏡に敵うなら、ピメノヴァ商会の仕入れ担当者は優秀だということですもの……と、これなんてカーラに似合いそうだわ」
ニコニコと微笑みながらイリーナが手にしたのは、磨ききらない鈍色の細い銀製の土台に、深みのある青い石を三つはめ込んだだけの素朴な腕輪だった。銀製の土台は緩く捻ってあり、そこに青い石が波間に飲まれるように据えてある。
……記憶の中に、顔も知らないけれどこれと同じ色を持った人がいた。
不意打ちに「似合わないわよ」と笑ったけれど、イリーナはその腕輪を私の手首にサッと装着してしまった。すると思ったよりも軽くて肌に柔らかく沿う腕輪に、ここにはいない誰かの温もりを感じた気がして呼吸が詰まる。
「やっぱり似合うわ。馬車代の心配もないのだし、購入しちゃいましょう」
耳許でイリーナがそう囁き、私も心が揺れて腕輪をジッと見つめていたら、紋様確認が済んだのか、カウンターの方から慌ただしく店員が飛び出してきて「そちらがお気に召されたのでしたら、是非そのままお持ち下さい」と言った。
慌てて「いえ、とても気に入ったのでちゃんと購入しますわ」と口に出してしまう。すると店員はイリーナの方を窺い、彼女は店員に向かって頷いた。手首に沿うのは、初めて見つめた優しく無愛想な彼の色だった。
その後は運が良いことに、翌日ポルタリカへと向かう馬車がこの店に来るというので、店の部屋に泊まらせてもらえることになった。部屋の主である仕入れ担当者は現在他国に出ているそうだ。
「この調子だと明日の馬車で一気にポルタリカ国まで行けますわね」
「ピメノヴァ商会とイリーナのおかげで本当に助かるわ。早くポルタリカに入国してフェリクス様にご迷惑をかけた分、しっかり働かないと」
ベッドに潜って灯りを消そうとナイトテーブルのランプに手を伸ばし、横に置いた腕輪をチラリと視界に入れる。ランプの火を絞って揺らぐ闇夜の中で、彼は今頃何をしているのだろうかとの思いがフッと過って、闇に飲まれた。
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