★18★ 手を伸ばして。

 戦場で死神の色と言われる赤と黒の長い羽飾りが、鍛練に励む兵達の動きに合わせて兜の上でゆらりと揺れた。


 ズラリと並んだ鉄の胸甲が鈍く輝きを放ち、これが戦の際には手に長槍を、腰には湾曲刀を履き、股がった馬の鞍には短弓と矢筒で武装する。常ならば緊張感のない無駄口が飛び交う鍛練場は、異様な熱気に満ちていた。


 小国家リルケニアが今日まで生き残った理由である有翼騎士団。完全に装備を整えた姿を見るのは年に一度の近衛、第一、第二で行う大訓練以外では久々だ。


『本日は手違いでこちらに送ってしまったソロコフ嬢を迎えに参りました。代わりの令嬢をすぐにやりますので、彼女の身柄は引き取らせて頂きたい』


 八日前に聞いたモスドベリの……名前を忘れたが、髭面で筋骨粒々の外交官の、どこかこちらを嘲るような声が甦り、手甲をつけた右手に無意識に力がこもる。


 あのときは確か椅子から腰を浮かせかけた際に、隣に控えていたユゼフが肩を掴んだから一度は座り直し、外交官からの突然な申し出に『断る』と答えた。


 尤もユゼフはもう少し言葉を手直しして『ソロコフ嬢も、新しく用意される令嬢も物ではない。それにこちらとしては彼女にはこのまま我が国にいて欲しい』と伝えたのだが――モスドベリの外交官は明らかに面倒そうに顔をしかめた。


 リルケニアのような小国が楯突くとは思っていなかったのだろう。そういう考え方が一般的なことは理解していたから、その反応はまだ流せた。


 ――しかし。


『ああ、どうやら言い方が回りくどかったですな。本当なら本人達を同席させずに口にするのは憚られたのですが……実は彼女はすでに純潔ではない。さっきの外交官補佐が元々の婚約者だった。それでまぁ、彼と、な。つまらん口喧嘩が婚約解消に発展したということで、こちらはそのことを知らずに縁談を持ち込んでしまったということです。我々は云わば彼女達の被害者ですな』


 下卑た笑みを浮かべる顔面を殴り倒したいと思った。だがユゼフの指が肩に食い込み上から押さえつけてくるので、仕方なく殴り倒すのを我慢して『ならば尚更、彼女をそちらへ引き渡すことはできない』と伝えた。


 ――――しかし。


『まぁ、使用済みが良いという方もおりますが、そちらは初婚だ。次は真新しくて歳の若い令嬢を――、』


 ユゼフの手からフッと力が抜けたこともある。ただそれはほんの一瞬のことであっただろう。けれど気がつけば俺は椅子から立ち上がり、茶器の載ったテーブルの上に膝をついて相手の顔面を殴り付けていた。


 あれが本当に普通の外交官であったなら、手甲を装着していない手で殴っていても恐らく死んでいただろう。それぐらい生々しい肉の感触を何度も拳に感じた。むしろ何なら隣室にいる補佐官も殴ろうと思った。


 初めて庭園に連れていってバラを渡したときも、ガーデニアの香るときに芝生に寝転んだときも。彼女の中に住み着いて悲しませたのは、恐らくその婚約者だろうと俺にでも分かったのだ。こちらに嫁げと言われたときの彼女の絶望感は、どれほどのものだったのか――。


 あの日、会わせなければよかった。彼女に伝えずにこちらで話を聞いて、始末して知らぬ存ぜぬで通せばよかった。そうであれば彼女は今も城の庭園で穏やかに微笑んでいられたはずだ。


『フェリクス様、お止めください! 彼等に手を出してはリルケニアが不利益を被ることになります!!』


 けれど今も耳にこびりついているのは穏やかに微笑む彼女ではなく、馬車に押し込められる直前までこちらを案じて叫んだ苦しげな表情と言葉で。愚かな俺はあのとき初めて兄が国を棄てた本当の理由を悟った。


 小国であれ、王である以上その手を取れない女性ひとがいる。


 その存在を得て、失って、空洞を埋めるものが【これ】しかないのだ。


 いつの間にか握り締めた拳から赤いものが滴って足許を汚していた。それを誤魔化すために靴底で踏みにじっていると、不意に背後から「拳が治ったばかりで次は掌か?」と呆れたような声がかけられる。


 姿を見るまでもなく分かる声の主に向き直れば、そこには険しい表情をしたユゼフが立っていた。


「サピエハ殿は――、」


「その前に小言くらい言わせろ。苛つくのは分かるがこれ以上傷を増やすな」


「善処する。それでサピエハ殿はなんと?」


「それは絶対に善処しないやつだろう……って、まぁいい。サピエハ殿は本当にやるつもりならポルタリカのイオノヴァ殿に連絡を取ると言っておられた。彼もモスドベリのやり方にはお怒りだ。イスクラ嬢のためならば尽力は惜しまないと」


 ユゼフからの答えを聞いて、ようやく少し握り締めていた拳から力が抜ける。第一王子側の筆頭であったあの老人も、彼女のためならば第二王子であった俺に力を貸してくれるらしい。


 これまでいがみ合ってきたつもりはないが、歩み寄った記憶もないような関係性だっただけに、彼女の存在が特別であったのだという思いが深くなる。


「この八日で騎馬の数は大体揃った。あとは調整が少し必要だが、第二騎士団兵の士気も高い。向こうの外交官を殴ったのは悪手だったかもしれんが、そもそも無茶苦茶なことを言い出したのはあちらだ。こちらも戦争を望んでいるわけではない」


「あー……まぁ、それはそうなんだろうが、これだけ血気盛んな連中を見て向こうがどう思うかな」


「どう思われても構うものか。ハマートヴァ領を急襲して、モスドベリ王が兵を寄越す前にイスクラ嬢を取り戻せば良い。もしも返さないというのであれば――……ポルタリカに一つ大きな貸しを作ってでも、リルケニアの有翼騎士を敵に回したことを後悔させるまでだ」


 手を出すつもりを失うくらいに局地戦で無惨に殺し尽くせば良い。


 無論、近衛や第一騎士団はポルタリカを警戒して置いていく。その場合の指揮権はユゼフに一任するつもりだが、本当は私欲のために直轄の第二騎士団を動かすつもりはなかった。


 けれど部下達は彼女等が連れ拐われたと知るや、一斉に『『『オレ達の癒しを奪うとは許せん!!』』』と、私怨に燃えたのだ。そこに彼女が呼び込んだ文官見習いの元商人達まで加わって、情報収集を担ってくれている。


 たった五ヶ月程度しかこの城にいなかった彼女達の支持者は、俺の支持者よりも多いのかもしれない。


 すぐにもハマートヴァ領に攻め入りたいが、少なく見積もってもあと一ヶ月は必要だろう。一度執務室に戻って日程を組むべきかと考えていたら、不意にユゼフが「フェリクス」と硬い声で名を呼んだ。


「以前僕はおまえに、彼女の目が見えないのは演技かもしれないと言ったな。それに対して嘘でも本当でもどちらでもいいと、おまえは言った。それに彼女は自分のためには笑わないとも」


「ああ、そうだ」


「あんな顔をさせるくらいなら、おまえの言うようにどちらでも良かった」


「……今度は何が言いたいんだ?」


「そう警戒してくれるな。彼女が戻ってきたなら、今度はちゃんと本音を聞き出せるように協力する。本当だ」


 そう言ってつき出されたユゼフの手甲をしていない拳に、無言で手甲をつけた拳をぶつける。建前で武装した彼女の口から本音を聞きたい。それこそが建前のない俺の本音だ。

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