*17* そういえばそんなことを。
「アンドレイ……どうして今更こんな真似を? モスドベリ王はソロコフ家の生き残りで、父の教えを引き継いだ私が政治に介入するのを疎み、婚約者であった貴方に私をリルケニアへ送り出すようにと言い渡した。そして貴方はそれを承諾し、私も反抗しなかった」
フェリクス様が外交官を殴り付けた慌ただしい現場から、逃げるように押し込められた馬車の中で、私は向かいに座る幼馴染みを見据える。
やるせない気分と怒りに声が尖ったけれど、気を緩めれば泣いてしまいそうな今はその方がありがたかった。
イリーナは先ほどからずっとお仕着せの太股部分――その下にあるナイフの鞘を弄っている。外交官は護衛に護られて別の馬車に乗り込んでいるので、この馬車には私達三人だけだ。この限られた空間内なら、イリーナの戦闘力はアンドレイを上回るだろう。
「私のことが憎いのならもう捨て置いて。それとも他国で生きていることすら許せないとでも言うのかしら。外交官の彼はフェリクス様に何を言ったの。あの方があそこまで激昂した声は初めて聞いたわ」
「……違うし、知らん」
「そう。どの道あんな騒ぎを起こしてしまっては、私はもうリルケニアにすら居場所はないでしょうから、それを聞いて少し安心したわ。でも私はモスドベリからの王妃候補としては使えない。貴方の役には立てないわ。それでも連れ帰るのは処刑でもするためかしら?」
「違う。いい加減に黙れ。オマエのそういう上から目線なところが昔から嫌いなんだ。今話をすることなんてない。これ以上余計な詮索はするな」
隣で身動いだイリーナが脚を組み替えたと思った瞬間、アンドレイの右頬に細く赤い線が走った。彼の顔の横にはビイィィィンと低い音を立ててしなる小型のナイフ。鋭い舌打ちの音が二人分重なる車内で、私は溜息をついて木霊するフェリクス様の声を思い出す。
『イスクラ!! 行くな!!』
――と。
仕事の不出来さを叱られる以外で、あんなに強く誰かに名を呼ばれた記憶はなくて。場違いな感想を抱いた直後に頬を伝ったものに気付かないふりをした。
***
私達を乗せた馬車は、そのままモスドベリとリルケニアの国境沿いの小さな村に到着し、そこで身柄の保護という名目で空き家を借り上げて軟禁された。
思い出されるのは馬車に乗せられる前のフェリクス様が私を呼ぶ声と、ユゼフ様が珍しく声を荒げてモスドベリの外交官と揉めていた気配。気配というのも、私はそのときでも目蓋を持ち上げることがなかったからだ。
ただ必死でこれ以上暴れたり殴ったりという行為を止めるように懇願した。何を彼等が言われて怒り狂ったのかも知らないまま、外交官に手を上げて立場を悪くしてはならないと、そればかりを切に。
あの日から四日が経つものの、外交官の姿もアンドレイの姿も初日にここへ押し込まれてからは一度も見ていない。それどころか私達をどうするのかも教えてはくれなかった。おまけにあの日の外交官の顔は元の顔の輪郭が分からないほど腫れていて、私がそのことに息を飲んでいると忌々しそうに睨まれた。
あれは私のせいでこんな顔になったという恨みがこもっていたのだろうけれど、それはこちらからしてみれば逆恨みというものだ。今更私の身柄を押さえたところで何に使うというのか分からない。
もしかすると機密を持ち出したことがバレてのことかとも思ったけれど、すぐにモスドベリに送還されて刑に処される素振りもないので、それも違うのだろうと思える。何にしても理由が分からないのであればお手上げだ。
対外戦争を吹っ掛けるにしても、まだ私は王妃にもなっていないどころか愛されてもいないのだから、そんなあやふやな状態の人物を連れ去ったところで時期尚早すぎる。ピメノヴァ商会からの手紙にもキナ臭い情報はなかった。
商人は戦争の臭いに敏い。それは【戦争】が一番短期間で潤うからに他ならないからだけれど、ピメノヴァ商会を除いた商会からもそんな情報は出回っていなかったはずだ。
利用価値がないのに捕まえるだけ捕まえに来たということなら、何て傍迷惑なことをしてくれたのだろうか。私というお荷物の廃棄場所に小国であるリルケニアを選び、それを彼等は受け入れてくれた。感謝こそすれ、今回のような横暴が許されるはずがないのに――。
「イリーナ、私ね、最近目蓋が思うように動かせないことがあるの」
こちらの唐突な告白に「それはどういう意味でしょうか、お嬢様?」とイリーナが小首を傾げた。当然の反応に頷き返し、私は先を続ける。
「そのままの意味よ。開かないの。フェリクス様や城の皆の笑う気配を以前より多く感じるようになってから、もうこのまま一生目蓋が開かない方が良いのではないかと。この瞳を見られるのが恐ろしくて、見られたあとに彼等がどんな目で私を見つめるのかと思ったら、馬車に押し込められたときも開けられなかった」
「気弱なことを仰っては駄目ですわ。それにそういうことでしたら、わたしには何となく思い当たる節もありますし……」
「そうなの? でも本当に目蓋が開かなくなってしまったら、私は書類に目を通すことも整理もできない。フェリクス様にとってまでお荷物になってしまうわ」
現状ではそれすらももうできなくなってしまったのに。これから先またできるとも限らないどころか、どれだけ目を反らしたところで【婚約解消】の現実と、リルケニアからの【国外追放】は免れなさそうだというのに。
モスドベリでは手放せたはずのものを、ここまで惜しむ気持ちがいつの間にか芽吹いてしまった。運良く戻れたとしても、もう必要ないと言われるだけの身でありながら嗤えてしまうわ。
「お荷物などではございません。お嬢様はご立派に外交のお仕事をこなしておられたではありませんか」
「あの方の苦手な外交を、仕事を、お父様の生きていらした頃のように、ずっと、ずっとこなしていたら――……私は今度こそ必要な人間になれるかと、そう思ってのことだったのよ」
虚ろな願望を垂れ流す私を「お嬢様……」と痛ましげに呼んで、優しく髪を撫でてくれる彼女の前で鍍金がハラハラと剥がれていく。嘘をつくと決めたあの日、二度とイリーナ以外の人前で目蓋を開かないと決めたのは自分なのだから。
「こんな瞳で見つめたりしたら……きっと、あの方の信頼も、記憶の中での居場所も失うわ」
視界の端に映る金色のペン先がキラキラと誘うように煌めいて、これを瞳に突き立てればあの日からつき続けるこの嘘を早く本当にできると、私に甘く囁いた気がした。
そんな私の視界にイリーナのやや浅黒い手が割り込んで、魅力的なペン先を隠してしまう。
「でしたら仕方ありません。ここは逃げましょう、お嬢様。このままでは貴女が壊れてしまいます」
「でもそんなことをしたらフェリクス様のご迷惑になるわ。それに私に逃げられたらアンドレイだって……」
「大丈夫ですよお嬢様。イリーナはいつでも貴女様のお傍におりますわ。この際人のことを心配するのは一度止めてみましょう。お嬢様に覚悟がおありでしたらわたしが逃げられるよう頑張りますわ。何でしたら商人の暮らしでも体験してみますか? 叔父から聞かされる話では意外と面白そうですわよ」
「イリーナ」
「はい」
「それはちょっと……楽しそうね」
「勿論とっても面白いですわ、きっと」
不謹慎な反応ではあるけれど、人間追い詰められすぎるとぷっつりきてしまうことがある。一度目は祖国を追放されて傷心で揺られた馬車の中。もう一度目が現在のこの軟禁生活だ。
そもそも今回はリルケニアからモスドベリの使者を招いたわけではない。モスドベリの方が一方的にリルケニアに乗り込んできたのだ。これで私達がここから逃げ出したりすれば、外交的に考えれば本来はモスドベリの責になる。
でも恐らくだけれど、モスドベリ王はそれを撥ね付けるはずだわ。小国の分際で我が国を脅すなどなんたる無礼……とか何とか言うに決まっている。
下手をすれば外交官を殴っただけのリルケニアに圧力をかけて、建前が死んでいるフェリクス様が撥ね付けた場合はそれを口実に攻めようとする可能性も……。そこまで考えて思った。私の母国はあと数年待つまでもなく詰んでいるのでは、と。
それならばここはいっそポルタリカのイオノヴァ様に頼り、この外交不安期を狙ってモスドベリに横槍を入れてもらえないだろうか――?
「商人達との接触を小まめにしてこられたお嬢様ですもの。顔見知りがいたらその荷馬車に隠れさせて頂きましょう。商人の幌馬車の中は乙女のドレスの中を覗くのと同じくらい難しいのですから」
「言い方の方はともかくとして、そうね」
「それに今回の一件で、あのクソガキもたまには良いことを言うと思っておりましたの」
「ええと……アンドレイが何かしら?」
イリーナの中でのアンドレイ評が急降下していくのは、もう私にも止められない。それに今回ばかりは庇ってやれる気もしていなかった。どうやら私は意外と腹が立っているようだわ。
「人の顔色を見て大人しくしているお嬢様を見ているのは、わたしも辛かったですから。たまには顔色を気にしないで我儘に振る舞うことも悪くはありませんわ。むしろもっとやってみるべきです。それにリルケニアに来る馬車の中で仰っていたではありませんか」
「私はイリーナに目が不自由なことにしましょう以外で、何かおかしなことを言ったかしら?」
「モスドベリでは見られなかったような美しいものをたくさん見たいと。せっかくですしこれ幸いです。探しに行きましょう。それに捕まらないように逃げ回ることで得られる答えもあるかもしれませんわ」
それが何なのかは分からないけれど、そんなものがあるのなら見てみたい。外交官という駒を軽んじたらどうなるかモスドベリ王に教えてみるのも、きっと楽しいだろうから。
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