*16* やってしまった……。
翌日、少しも心待ちになどしていなかった新しい外交官と、その補佐官は昼を少し過ぎた頃にやってきた。流石に今日はフェリクス様に抱っこされての登場は丁重にお断りさせて頂いたけど。
外交官は最初に私へ上辺だけの挨拶を寄越し、隣に立つフェリクス様とユゼフ様に武官らしい慇懃な挨拶を述べた。アンドレイのチェロのように重い声もそれに続き、私はその場で言葉少なに応じて身体に染み付いたカーテシーをとる。
向こうの挨拶が終わると、こちらからも平坦なビオラの声と、艶のあるバイオリンの声が答えた。記憶に根付くアンドレイの懐かしい声と、四ヶ月前に聞いたフェリクス様のぶっきらぼうな自己紹介に少しだけ口角が持ち上がる。
私の斜め後ろに待機しているイリーナの方から恐ろしいほど圧を感じる。明確すぎる彼女の殺意にかえって冷静になれた。ただフェリクス様達の挨拶の間もずっとアンドレイからの視線を感じる気がして、俯きがちに微笑みを張り付ける。
「お久し振りね、アンドレイ。今日は私にお話があるとお聞きしましたわ」
アンドレイから余計なことを話しかけられる前にそう切り出せば、彼の方でもそれを感じ取ったのか「彼女をお借りしてもよろしいでしょうか?」と、少し緊張した声でフェリクス様に告げる。
考えてみればこの場にいるのは五十代前後だろうと思わせる新しい外交官と、三十代のイリーナとユゼフ様、そして二十代のフェリクス様と私なのだ。一人だけ十代のアンドレイが緊張するのも無理はないだろう。
フェリクス様もそう思ったのか、やや間をおいてから「この部屋の隣の部屋を使うと良い」と仰って下さる。けれどその言葉にお礼を述べてイリーナに隣の部屋への付き添いを頼もうとした私の肩を、フェリクス様が掴んだ。
何事かと思って小首を傾げれば耳許に温かい呼吸を感じた。たぶん身を屈めていらっしゃるのだろうフェリクス様が「何かあったら呼べ」と囁く。それは呼べば助けに来てくれるという当たり前のようでいて、当たり前ではない言葉だ。目が見えないと信じこんでいるにしても過保護な彼に思わず笑みが零れた。
モスドベリの外交官がどんな話をしに来たのか後ろ髪を引かれつつも、イリーナに手を借り、アンドレイを伴って隣の部屋へと移動する。隣室ではすでにお茶の用意が整えられていた。私とアンドレイが席について紅茶が二人の前に置かれたあと、メイドは静かに退室する。
イリーナは私のすぐ傍に立ち、もしもアンドレイがこちらを害そうとした場合に備えてくれているようだ。最早そんなことを考えなければならないほど、私と目の前に座る幼馴染みの距離は遠い。
三人だけになった室内にティーカップを置く音がやけに大きく響いた。
「……いつまでそうやって当てつけがましく目を瞑ってるつもりなんだ」
最初に口にする言葉がそれなのかと苦笑しつつ、隣で不穏な気配を放つイリーナを手で制する。
「そうは言っても、貴方は私が目を開けていると嫌がるでしょう? だったらわざわざ不快な思いをさせたくはないわ」
「まるで目蓋を閉じただけで不快にさせないみたいな言い方だな」
「ええ、そうね。私の存在自体が不快だから国から出したのだものね。でもだとしたら今日は上司まで連れていったい何の用があるの。立派になった姿を見せに来てくれたのかしら。それとも貴方が散々邪魔してくれているグラフィナの手紙を持ってきてくれたの?」
自分でも分かるほど棘のある物言いになってしまったのは、外交官にあるまじき失態だわ。けれどこうして向かい合って話をすることなど、もう随分と久し振りだった。花束は無言でも渡せるものね。
まさか私に言い返されるとは思ってもみなかったのか、乱暴にソーサーに置かれたティーカップがカシャンッと音を立てた。
「モスドベリではいつもビクビク人の顔色を窺ってばかりだったくせに。イスクラの秘密がバレてないのなんてすぐ分かった。目蓋を閉ざしたままで奴等を騙したんだろう? それを信じるなんてよほどの間抜けだけどな」
「彼等は間抜けではなく誠実なのよ」
「誠実? それなら何でさっき奴等の前で目を開けていなかったんだ。結局アンタは誰も信じてないんだろ。目蓋を開けたらきっとここでの居場所もなくなる」
ああ……本当に、嫌になる。彼の言うことの正しさに。自分の弱さに。何よりも、彼の言葉に未だに傷付くこの心に。イリーナが「いい加減になさいませ、このクソガキ」とかなりはっきりした殺意と共に明言したそのときだ。
隣の部屋から食器が割れる大きな音と怒声が聞こえて、アンドレイが「時間切れだ」と。昔カウフマン家から我が家に迎えの馬車が到着したときによく聞いた、どこか寂しげな声でそう言った。
ドカドカと荒い足音がこちらの部屋にやってくるのを耳にして、椅子から腰を浮かせる。私が立ち上がるのとほぼ同時に乱暴に開かれたドアから誰かが入室してきた瞬間、アンドレイが「他国からの外交官を殴るとは何をお考えですか!」と、予め用意しておいたような現実味のない台詞を叫んだ。
一拍ずれてその言葉が意味するところにスッと背筋が凍える。そして隣の部屋で外交摩擦が生じたことに戦慄を覚えた私の耳に、さらにとんでもない言葉が飛び込んできた。
「お相手がこんなに野蛮な方だったとは! イスクラ嬢の身柄はモスドベリに返して頂きますぞ!」
人生で一度聞かされれば充分な【婚約解消】の文字が、再び私の前に嘲笑うように現れたのだった。
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