*15* 嘘つきは外交官の始まり。
「ですからサピエハ殿、それではこちらの持ち出し分が大きすぎる。いくら何でもその金額は飲めませんぞ」
「ほ、ほ、何を仰いますか、ポルタリカの外交官ともあろう方がこの程度の金額で尻込みなさるとは。それにこの話に乗りたいと言い出したのはそちらの方だ。我が国の新しい外交官であるイスクラ嬢が繋いだ縁に、よもやタダでぶら下がるおつもりかの?」
「サピエハ様もイオノヴァ様も、イリーナが淹れてくれた紅茶が冷めてしまいますわ。少し喉を潤してから話を再開してはどうでしょうか?」
老人と初老の外交官が揉め始める気配を感じてそう声をかけると、いがみ合っていたはずのお二人は「「そういうことなら、頂こうか」」と息もぴったりに応じる。こういうところは長年両国間で外交をしてきただけあって、仲がよろしいみたいだ。イリーナもそう思ったようで、隣でクスリと笑う気配がした。
最早“いつもの”と評せそうな外交部屋にて、三人の外交官が頭を突き合わせる午後。私がリルケニアにやってきてから早いものでもう四ヶ月。最近はポルタリカの外交官であるイオノヴァ様もご令嬢の話はそっちのけで、むしろ普通に外交をしに訪ねてくる。
今は八月の半ばだけれど、七月の日照時間が例年よりも一週間ほど少なかった。そこで国全体で秋口の収穫が減りそうだということで、この四ヶ月で伝手を作った他国から貿易を通じて食糧を少しだけ安く輸入させてもらい、今から備蓄を貯めておこうという話し合いの最中だ。
リルケニアよりも土壌に恵まれ、収穫高が多いポルタリカが何故この場にいるのかと問われれば、純粋に国民の分母が多いからであり、例年よりもやや少ない収穫高は充分に驚異だからである。
「……モスドベリも愚かなことだ。イスクラ嬢のような外交官を追放同然に他国に出すとは。どうせならリルケニアではなく、ポルタリカに追放してくれればよかったものを」
「またその話かイオノヴァ殿。モスドベリがわざわざポルタリカに人材を流すものか。わたしの後継者の引き抜きは諦めなされ」
二人の間でまたも始まったやり取りに苦笑しつつ、国ではいらなくなったと放り出された身としては胸の内側がほんのりと温まる。思わず「どちらも私ごとき若輩者には勿体ないお言葉ですわ」と答えれば、両者から「「いらぬ謙遜は舌を鈍らせる」」とのお叱りを受けて、またその場に笑いが生まれた。
ところでそのモスドベリの外交官に新しく就いたのは、何故こんな人材をと首を傾げたくなるような、畑違いの軍人寄りだそうだ。
しかし問題はそちらではなく、その補佐役。一週間前にイリーナの叔父が突き止めてくれた妹からの手紙を改竄した代筆屋と、それを頼んだ人物と同一人物だ。その名をアンドレイ・イーゴレヴィチ・ハマートヴァという。
イリーナから手紙の小細工をした犯人を聞いたときはやはりと思ったけれど、流石にイオノヴァ様から外交官補佐の名前として出されたときには二度聞きした。確かに幼い頃から妹の婚約者として私と一緒に勉強をさせられてはいたものの、あのアンドレイが……? と思った私は悪くないと思う。
彼が私の書類整理を手伝ったことなど、ただの一度もなかったのだから。だとすれば彼は真剣に外交官の座を狙っていて、そこに私との結婚だけが不要だったということだろう。重ね重ねこちらの心を抉ってくれる幼馴染みだ。
イオノヴァ様の評価としては『可もなく不可もない男だ』という、姉弟子としては苦笑してしまう評価だったけれど、外交官補佐ということはいずれこのリルケニアにやってくるかもしれない。そうなったところで彼が私に会いたいと言うことなどないだろうから、そこは別に構わない。
でも、もしも彼が口を滑らせて私の瞳の秘密を暴露してしまったら……?
そこまで考えた瞬間、真夏の最中に悪寒を感じて背筋が震えたものの、何とかその後もこちらが他国から輸入する金額と、ポルタリカがこの話に加わることで仲介金としてリルケニアに支払う金額を無事に着地させることができた。
この日はそれ以外に仕事もなく、ユゼフ様とフェリクス様の予定も別にあるとのことだったので、久々にイリーナとのんびりと過ごし、不安がりすぎるとよくないものを呼び寄せてしまうという彼女の言葉を信じて、アンドレイのことは極力考えないことにした。
――けれど、運命とやらはこちらが望みもしないときにやってきて、すべてを滅茶苦茶にしていってしまうものだったと思い出したのは、前回のリルケニアとポルタリカの二国間外交を行った日から十日後のこと。
執務室で、フェリクス様がふと「そういえば」と口を開いたことで、書類整理をしていた私達三人が手を止める。その姿を確認して、彼は話を続けた。
「今朝急にモスドベリから使者が来ると連絡があった。明日には到着するだろうということだったが、その際に先方がイスクラ嬢を指命している。ハマートヴァと名乗っていたが、家名に聞き覚えはあるか?」
その発言を聞いたときの私の心は不思議なほど穏やかで……あるはずがない。しかもこれほど急で不躾な先触があるだろうか。
恐らく私が逃げると踏んでのことだろうが、控え目に言って今の内心は恐慌状態だ。けれど外交官の娘として不測の事態が起これば起こるほど、私の表情筋は良い仕事をしてくれる。
幼い頃から教え込まれてきたとおり自然と持ち上がる口角に、どんどん冷えていく頭の芯が、本音を叫ぼうとする本能を殺して私の内側を乗っ取っていく。
「はい、私の幼馴染みですわ。もしかしたら妹の話を持ってきてくれたのかもしれません」
外交だけでなく、嘘をつく上で大切なのは本当のことを混ぜておくこと。このときに建前を上手く活用することも忘れてはならない。
「昔から弟のように思っていたのに、もう外交官補佐につけるだなんて……姉として誇らしいです」
もう一つ嘘を誠に近付けるために大切なのは、それを自分に言い聞かせて聞き分けさせること。
「明日が楽しみだわ」
――ねぇ、そうでしょう、私。
――ええ、勿論そうだわ、私。
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