◆幕間◆友で、兄で、臣下で。
第二王子のフェリクスが王になることが決まったときから、兄であったはずの第一王子の名はリルケニアの歴史から消えた。長年臥せっていた前国王が最後の力を振り絞った王位継承。
その儀が済んで半月もしない間に前国王は崩御し、その直後にあいつは国を去った。自業自得だったとはいえ、あれだけの努力をして苦しんだ男が、一夜にしてあっさりといなくなったのだ。
今頃残された人間のことなど考えず、初めて自分のために生きているのだろうか。そんなことをふと思い、苦いものが口の中に広がる。
そもそも旅一座の踊り子と駆け落ちってなんだ。そんな歌劇の一幕みたいなのは、弟のフェリクスみたいな優男がやるから良いのであって、前国王とよく似た濃い揉み上げが暑苦しかった奴がすることじゃないだろう。
真面目に長年市井の見回りをしていた結果がこれかと言いたくなるが、それに気付いていながら、身分差くらい分かっているだろうと髙をくくった自分が今でも赦せない。
賢王と呼ばれるに相応しい男だった。それがただの男になるなど……俄には信じられなかった。幼い頃から理解してやれているつもりだったし、乳兄弟で一番年長者だったこともあり、弟分二人のことは分け隔てなく気にかけているつもりでいた。
実際は第一王子であった兄の方に肩入れしていたことに気付いたのは、情けないことにあいつが消えてからだ。第一王子派閥にいた自分を、第二王子であったフェリクスは頼らなかった。
何よりも幼い頃から将来的に衝突する危険性を軽減させるために、まったく異なる教育を授けるのは小国では普通のことだ。それ故に第二王子派閥には三男や四男の騎士階級者が多く、帝王学に通じる政治学を納める文官階級者はほとんどいなかった。
どちらも中途半端に齧っている中間調整役の自分とフェリクスの間には、気付かないうちに無視できない溝ができていた。ただ、だからといって向こうがこちらを邪険に扱うことはなく、けれど敵から心を隠す術を持つこともないフェリクスは、正直に言って手に余る人物になっていた。
戴冠式で王のいない玉座にするわけにもいかず、急拵えで座らせた第二王子はその実ただの【騎士】でしかない。
兄のように投げ出す素振りはないが、座れと言われたから座ったようにしか見えない怜悧な美貌のフェリクスに、文官達は戸惑った。
おまけにポルタリカから第一王子の王妃候補として送り込まれていた令嬢は、彼女を厭ったフェリクスの手によって送還され、代わりにその隙をついてモスドベリから新しい令嬢が送り込まれてきた。
それが、元モスドベリ外交官を父に持つイスクラ・ティモールヴナ・ソロコフ伯爵令嬢。物腰の穏やかな美しい娘ではあるが、二十一歳のやや嫁き遅れであった彼女も一筋縄ではいかない令嬢だった。おまけに彼女の連れてきた侍女もまた、油断ができない身のこなしをする女性だ。
外交官の娘とあって我儘で美しいだけのご令嬢とは違う。淑女のマナーは当然ある。ただ目が見えないという記載のなかった釣書の謎も、一種異様な仕事へののめり込みぶりも、性別の問題ではない危うさを感じさせた。
しかも同じことを感じているはずだろう侍女はそれを窘めるどころか、一緒になって働きづめだ。
おかげでたったこの三ヶ月間の間に兼ねてからの人材不足であった文官に、少しばかり補欠要員が入った。それは本当に助かっている。
彼女は王妃候補……いや、もう実際のところあと九ヶ月の婚約期間を無事に乗りきれば、結婚するだけの間柄なのだが、自分はどうにも彼女等に対して引っかかる節があり、素直に賛同できない。
二週間ほど前に彼女宛に届いた手紙に妹に子供ができたとはしゃぎ、街に出て祝いの品を買いたいというから付き合った。そのときにさらに引っかかりは大きくなり、このままでは足許を掬われるのではないかという不信感はさらに膨らんだ。
だから建前のない馬鹿にも分かるように「彼女は本当に目が見えていないと思うか?」と、二人だけになった執務室で切り出してみたのだが……。
チラリと書類から視線を上げたフェリクスは、案の定「本人がそう言っている。疑うものでもないだろう」と平坦な声で答えた。こいつがここで引き下がると同じ話題は二度と聞かないのは、長年の付き合いで知っている。
「……ちゃんと聞け。あれもこちらの油断を誘うためかもしれんぞ?」
「だとしても、無理に暴くことでもない。目が見えないと偽ることの何が悪い」
「悪いに決まっているだろう。書類の中には機密性の高いものもある。何を考えているんだおまえは」
「国のことだ。ユゼフ達が言ったのだろう。国のことを考えろと。今の今まで【王を護る騎士として強くあれ】と言われ続けた俺に」
元から平坦な声だが、いつもよりさらに感情の起伏が読みにくい声でフェリクスはそう言った。まるで責められているように感じるのは、勝手なこちらの思い込みだと分かっている。昔からこの弟は兄と違ってすぐに手が出た。
言葉を聞く気が端からない人間には、躊躇いなく拳が出る。文官達からは見た目との落差が恐ろしいと。直情的で建前のない弟を玉座につけることに反感の声は強かったが、この男しかいないのだ。
――いつの間にか、自分は周りの文官達と同じ目でこいつを見るようになっていたのかと愕然とする。
「彼女は祖国に対して不利な政策をとっている。こちらには有益でしかない政策だ。向こうに知れて殺されるのは彼女だ。俺からすれば彼女は何もかもがどうでもよくて、自分をまったく価値のない人間だと思っている風にすら見える」
「あまり滅多なことを言うものではない……と、言いたいところだが。何故そう思うんだ?」
「彼女は自分のためには笑わない」
「それも演技かもしれないだろう。女性はみな生まれながらに女優だ。そう教えたはずだぞ」
「なら言い方を変える。彼女は笑えない。あれで笑っているのなら、兄の表情もそうだったのだろうな」
何を言っているのかと眉をひそめるが、フェリクスは持論を曲げる気はないようだった。同時にそれは自分が見ないように蓋をしたことであるとも気付いていた。余程の無能でもない限り、王の第一子が次の王だと。
そんな分かりきった当然のことを、あいつが飲み込んで笑っている姿から目を逸らし続けた。いつの頃からか、あいつが“親友”と自分を呼ばなくなったことに気付いていたのに。
「最近ごく稀に笑う。常の美しいものではなくひどく歪だが。俺とリルケニアは彼女とその侍女殿に助けられている。そんな彼女等を護らないのは、リルケニアの騎士道精神に反する」
ああ、またこれか。この兄弟が珍しい反応を示すときは、いつだってこちらの胃に穴が開きそうなことを考えているときだ。正直この先を聞きたくはない。
――……だというのに。
「彼女の本音はどこにあるのか。聞けるものなら、聞いてみたい」
どいつもこいつも、手に負えない。しかしこいつがここまで特定の人間に興味を持ったこともない。
彼女は目のことを理由に逃れるつもりでいるのかもしれないが――残念ながら諦めてくれと、今から教えてやった方がいいのだろうか?
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