*12* お願いします、建前を。
向かいに座る相手がティーカップをソーサーに戻す硬質な音と、自分の中から聞こえてくるトクトクという心臓の音。不躾に正面から突きつけられる敵意の混じった視線は気になるけれど、目蓋を閉ざした私を動揺させるには至らない。
うっすらと弧を描く唇には、殊更その形が分かりやすいように鮮やかな赤の口紅を引いた。この二ヶ月と二週間でさらに磨きをかけた優雅な仕草で、相手を焦らすように時間をかけてティーカップを口許に運ぶ。
いつかの空間、いつかの風景。
――ただ一つだけ、あの日と決定的に違うことがあるとすれば……。
「せっかく来訪してもらって申し訳ないが、王妃候補なら間に合っている。新しくそちらに用意してもらう必要はない」
何故か今日に限って同席されたフェリクス様のおかげで、話し合いが始まってからこのかたずっと平行線だ。私の隣の椅子に腰かけて紅茶を飲みながら、私が口を挟む前にばっさりと建前を無視して勝手に返答してしまう。
イリーナとユゼフ様ですら同席を許されず、彼を止めてくれる者が誰もいない。話は暗礁に乗り上げるどころか、大破沈没一歩手前だ。何でこんなことに?
「し、しかし、元はといえばモスドベリの横入りですぞ。当初は我がポスタリカから出すということで合意されていたはずではないですか。それにモスドベリの外交官殿も了承されておいでだ。そうだろう、君」
慌てた様子のポルタリカの外交官からそう声をかけられ、ティーカップに伸ばしかけていた手で溜息をつきそうになった口許を隠す。
「ええ、閣下。しかし私は閣下に“然るべきご令嬢が現れた場合には”と申し上げたはずですが?」
そう、確かにあの日そう約束はした。したのに、またおかしな令嬢の釣書を持ってきたのはどこの誰だと小一時間ほど問い詰めたい。
「それは……いや、だがこういうことは貴方には分からないだろうがだな、」
「私に分からないだけなのならともかく、良識を持つ第三者の目から見ても如何なものかと思われますわ。こちらが事前に情報を得ていなければ押し通すおつもりでしたね?」
王族に連なる公爵家出身、ここまでは注文通り申し分ない。が、その後のバツイチ子持ちは初婚に持ってきて良い案件ではないでしょう。おまけに離婚の理由が金銭感覚の破綻。
「……歳が近しく高位な令嬢となると、そうそう選べる人数がな。その辺りは貴方も分かるだろう」
そう思って今回のお相手に的を絞れていたことが項を奏したものの、本当にこちらの話を真面目に聞いていたのだろうかこの人は。前門の外交官、右隣の陛下。悩ましい現状をどう打開しようかと思っていると――。
「当初の話は兄に持ち込まれたもの。俺が結んだものではない。それとイスクラ嬢、この件については今後貴方も勝手に話を通さないでくれ。話が以上なら今日はここまでだな。外交官殿のお帰りだ。見送りの準備を」
その言葉が終わるかどうか、私の意思に反して椅子が引かれたと感じた瞬間には身体が浮き上がっていた。声かけはどうしたのとか以前の問題では? 犬猫を抱き上げるような感覚で外交官を扱わないでほしい。
「お待ち下さいソビエスキ様。話はまだ終わっておりませんぞ。せめて顔合わせの席を――、」
「どうせこのままでは平行線だ。こちらの言い分も変わらない。前回は見送らずに申し訳なかったが、今回はきちんと見送らせてもらおう」
それは確かにそうだろうけれど、そういうことではない。私は思わず眉間を押さえて天を仰いだ。
ちなみに結論から言えば、前回の庭園で見せたあれは建前でも何でもなく、私が先に目を覚ましてからもフェリクス様は隣でしっかり眠っていた。彼の建前は未だ覚醒してはくれない。
ポルタリカの外交官はフェリクス様の建前が一切ない性格に気付き、最後の最後で王妃候補の話は脇にやって、代わりに農産品の輸出入へと話の舵を切り直した。今回は手ぶらでは帰らないということか。そのおかげで私も再び椅子へと舞い戻ることができたからいいけれど……。
突然本格的な外交になってしまいそうな気配に慌て、サピエハ様に同席して頂こうと提案したら、すぐにフェリクス様とポルタリカの外交官から「「貴方の仕事だ」」と叱られた。その後、何とかお互いに数年で利益を折半できそうな分野の外交書類を交わし、やっと自由になれたのは夕方。
ぐったりとした私を抱き抱えたまま外交官の見送りに出たときは、もうどうにでもしてくれという気分だった。見送りを済ませた彼はその足で執務室へと向かい、ユゼフ様とイリーナがそれに続く。城内の至るところから小さく好意的な笑い声が聞こえるのが恥ずかしかった。
「フェリクス、おまえという奴は。せめて顔合わせくらいして、向こうの外交官の顔を立てるくらいはしないか」
「前回はお前に叱られたから今回は見送っただろう。改善はした」
「それは改善じゃない。王族としての責務でもなく一般的な常識だ」
執務室に到着してドアを閉めるなり私を抱えた状態で始まる反省会。疲れているのにこれ以上疲れそうな話題に巻き込まないで欲しい。腕の中でぐったりしている気配に気付いてくれたのか、今度こそ「降ろすぞ?」と声かけがされ、そうっとソファーに降ろされた。
「ユゼフ様、陛下の中断の仕方はともかくとしても、お嬢様が調査されていたお相手の釣書の内容を鑑みれば、お断りしてよろしかったのではありませんか?」
「それは……そうだが」
「そもそも俺は今の状態で問題ない。新しい婚約者など不要だというのにわざわざ顔合わせなど必要ないだろう」
乱れた髪を整えてくれながらイリーナが出した助け船にユゼフ様が唸り、フェリクス様が空気を読まない発言を添える。ああ……建前の装着を急がないと、この方の発言でユゼフ様の胃に穴が開いてしまう。
「フェリクス様、ポルタリカと国同士の繋がりを強めることは有益です。あちらから貴い血が入るのであればそれに越したことはありません」
「貴方の言い分は分かったが、それでは王妃候補として送り込まれてきた貴方は、その場合どうするつもりなのだ?」
「私は目が
半分以上本気な私の言葉に、ユゼフ様が「君は君で難儀な性格だな」と悩ましげな溜息をつくけれど、そこまでおかしなことを言っただろうか? 小首を傾げて失言箇所を探してみるも思い当たる節はない。
すると「お嬢様は聡明で理性的で謙虚なのですわ」とイリーナが姉の欲目をかき、私の頬に血の気が集中する。
そんな彼女の言葉に「君も君で難儀な性格だな」と、苦虫を大量に噛み潰していそうな悩ましげなユゼフ様に言いたい。この場で一番難儀な性格をしているのはそちらの主君だと。
けれど見えない状況でも勝手知ったる執務室での気安い語らいは、控え目なノック音に中断される。ユゼフ様が「僕が出よう」と次の間に対応に向かったものの、すぐに「イリーナ嬢、少しこちらへ」と呼ばれて彼女も私の傍から離れた。
二人きりになった執務室にほんの一瞬静けさが戻る。特に何か楽しい話題を興せるわけでもないので黙っていたら、不意にソファーの隣が沈み混んだ。
「フェリクス様?」
「ああ。ソファーにかけるのにも声かけが必要か?」
「ふふ、まさか。ただの確認ですわ。もしも違う方だったら怖いでしょう?」
「それなら貴方が恐ろしい目に遇わないようにしっかり護ろう」
他愛のないやりとりに小さく笑うと、隣から「その表情は良いな。何度もさせたくなる」という平坦な声がかけられて。全然そんなことを思ってもいなさそうなビオラの声音にさらに笑いが深くなってしまう。
――と、次の間から戻ってくる二人分の足音に気付いてフェリクス様から距離をとれば、彼もソファーから立ち上がる気配がした。二人分の体重で沈み混んでいたソファーがゆっくり元に戻る感覚に、何故か僅かな物寂しさを感じる。
「お嬢様がお仕事を頑張られている間に手紙が届いていたようですわ。一通はグラフィナお嬢様からで、もう一通はわたしの心配性な叔父からですわ。部屋に戻って読みましょう」
「イリーナ嬢を借りていってすまない。二ヶ月以上経ってから手紙がきたから、念のためにちょっと宛名の確認を頼みたくてね。今日は書類を片付けるのには遅いし、また明日にしよう」
そのユゼフ様の言葉でフェリクス様がまた声かけを忘れて私を抱き上げ、部屋まで送ってくれたのはまぁ……そう、ええと、想定内だわ。
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