*11* ガーデニアの香る庭園で。

 初夏の気配が近付いてきたある昼下がり。今日はユゼフ様が騎士団の訓練に当たられ、イリーナには庭園で城下町での情報収集を頼んだこともあり、珍しくフェリクス様と二人だけで書類仕事に従事していた。


 リルケニアにやってきてから一ヶ月と三週間。よくよく考えてみればこうして二人きりで書類仕事に当たるのは初めてのことだ。とはいえ、昨夜のうちにもうすっかり“書類”の体裁に整えてあるものを確認してもらい、それに承認印を捺してもらうだけだから二人で充分というだけのことである。


 室内にはフェリクス様が書類をめくる音だけが響き、私はそれを耳にしながら応接テーブルの上に広げた立体地図と地形図に指を這わせ、頭の中で次の行商隊がやってくる日付と経路を確認していく。


 手紙の手応えは緩やかながら見られ、中規模の商家から三男や四男、時には次女や三女が書類審査の対象に上がっている。すぐに文官として採用するには難しくとも一般人よりは格段に素地のある人材を呼び寄せたことに、先日少ない城の文官達からお礼を言われたのには、少々驚いたけれど……。


 彼等の多くは第一王子派だったために、第二王子のフェリクス様が玉座に座られることになって不安があったそうだ。主にそう、建前がないという一点にして最大の欠点が。


 そこにモスドベリから面倒ごとの匂いしかしない私が現れたのだから、彼等の心労はかなりなものだったのだろう。想像に難くないので、こちらもかなり同調して立ち話に花を咲かせてしまったわ……。


 外交官の座を半分譲って下さったサピエハ様からは、懇意にされていた他国の知人を紹介して頂けた。最初はこちらへ胡乱気な気配を送っていたユゼフ様も、最近は簡単な書類であれば部屋に持ち帰らせてくれる。


 ここまでは、上手くいっている。


 ここからが、問題なのだけれど。


 馴染んだインクの香りと執務室のソファーは、モスドベリで使用していた父の椅子よりも馴染み、柔らかく私の身体を受け止めてくれ、相変わらずパラパラと紙をめくる音が不規則に響く。


 庭園のバラはもう見頃を終え、代わりにガーデニアの花と芝の緑が香り始めた。不規則にめくられる書類の音に段々と耳が慣れ、連日の短い睡眠時間がたたっているのか急激に眠気が襲ってくる。


 おまけに目蓋を閉ざしているせいで、視界に別のものを映して覚醒することもできない。非常にまずい状況だ。今すぐに打開策をと考えたけれど、眠気が限界に達しているせいか何も思い付かない。


 結局立体地図に這わせていた手の甲を思いきりつねるという、稚拙な行動に出たものの――。


「そんなに強くつねると跡が残る。止めた方がいい」


 そう耳許でビオラの声が聞こえた直後、眠気覚ましに手の甲をつねっていた方の手を、がっちりと大きな手に掴まれた。悲鳴の代わりにヒュッと喉が鳴る。どういう体勢になっているのだろうという疑問は、肩口に触れた心音で何となくだが察せられた。


 眠気は飛んだ。けれど心臓が不整脈をおこしかけている。この距離になるまで全然気配を感じなかった。目蓋を開けなかった私を誰か――……以下略。


 どうにか「フェリクス様、あの、声をかける順番が逆です」と口にしてみるも、掴まれた手が離される気配はない。思えば婚約者だとはいえ、まだ遠目にすらその姿を目にしたことのない男性が相手なのに、こうしていても怖くないのは不思議な気分だ。


「ああそうか、また間違えたな。すまなかった。それにあれだけ丁寧に纏めてもらっていた簡単な書類の確認だったのに、だいぶ待たせてしまったようだ。貴方は退屈だっただろう」


「いえ、退屈はしていませんが……少しぼんやりとはしていたかもしれません」


「ぼんやりすると、貴方は手を痛め付けるのか」


 するりと手の甲をかさついた指先が傷がついていないか調べるようになぞる。思わずくすぐったさに身を捩れば、すぐ傍で「跡は残っていないようだ」という声が聞こえた。


 平坦な中にどことなく労るような響きが声音に混じっていると感じるのは、きっと大切にされている気分を味わってみたい気持ちからくるのだろう。いや、実際にフェリクス様は私を外交官として大切にすると言ってくれていたから、それはすでに叶っているのか。


 詮のないことを考えながら黙り混んでいると、不意に髪を掬われる感覚がして。何かと思ったら「ガーデニアの香りがするな」とビオラの声が囁いた。


「申し訳ありません。香りが強いので摘んでは来なかったのですが、イリーナと少し近くで香りを楽しんだので。移り香でしょう」


「成程、そういえばあれは見目の割に香りが強い。貴方に似ているな」


 それはいったいどういう意味なのか。建前のないフェリクス様の言葉は、穿ったものの見方をする私には捉えにくい。困ったもののひとまず「仕事の邪魔になるので香水はつけておりませんわ」とだけ言っておく。


 可愛げのない私の答えにフェリクス様の身体が離れた。しかしホッとしたのも束の間で、いきなり何の脈絡もなく「抱き上げるぞ」と声をかけられたかと思うと、返事を待たずに身体がソファーから浮いた。もうこれくらいでは驚かない。


 そうしてこれは癖なのだろう。いつものようにビュンビュンと風を切って足早に連れて行かれたのは、ガーデニアと芝の香る庭園だった。


 到着すると共に「降ろすぞ」と声をかけられ、爪先が地面に触れたかと思うと「少しそのまま待っていてくれ」と言われる。フェリクス様の気配が若干遠退いたものの、傍にいる感じはするので直立して待っていると、また「抱き上げる」と声をかけられ、幼子のようにそれに従った。


 けれど思っていたのと違ったのは、彼がそのまま座り込んだことだ。膝に抱えられた形になっているだろう体勢に凍りついていると、ゆっくりと身体が横にずらされて、お尻が地面につく感触が伝わってくる。


「……直に芝の上に座ったのは子供のとき以来ですわ」


「これも次からは申告しよう」


「ふふ、これくらいの驚きは構いません。それに久しぶりにこうして座ると、緑と土の気配が感じられて気持ちが良いです」


「そうか。俺のお勧めはこのまま仰向けになることだが……令嬢には難しいか?」


 隣から珍しく挑戦的なフェリクス様の声を聞き付けた私は、何だかひどく愉快な気分になってしまう。冷静な部分がイリーナが見たら悲鳴を上げるかもしれないと囁いたけれど、聞こえなかったふりをしてパタンと仰向けに倒れてみた。


「普通のご令嬢には難しいでしょうけれど、私は貴方の外交官ですもの。これくらい何でもありませんわ。それに昔は――、」


 ――――そこで不意に言葉に詰まる。


 昔は、妹とアンドレイと三人で、厳しい大人達の目を盗んでこうして寝転んだこともあった。どちらが私の隣に寝転ぶかで大喧嘩する二人を宥め、私が真ん中に寝転ぶことで折衷案を取った。


 国に棄ててきたと思った遠い幸せな日々の欠片が刺さったように、目蓋の裏がジクリと熱を持つ。


 突然言葉を切ったことで不信感を持たれる前に何か言わなくては。そう思うのに喉の奥からは続ける言葉の一つも零れず、代わりに閉ざした目蓋の奥から違うものが零れそうになった。


 ――と、身体の横に投げ出していた右手がギュッと握られる。


 アンドレイと同じ剣ダコのある掌は、記憶の中で最後に握った十二歳の彼の掌よりもずっと大きな大人の男性の手だった。


「昔は兄とよくこうして寝転んだ。兄は帝王学の授業から、俺は剣術の鍛練から逃げ出してな。将来のことなんて考えもしないで、ただ毎日が不満で不安で。何故自分達は王子になど生まれたのかと、よく二人で嘆いてはユゼフに見つかって大人に引き渡された。そうか……あいつだけは昔から変わらないな」


 唐突な昔話を始めたビオラの声音は、しっかり現在に続くまでの過程をなぞっているようだ。不器用な慰め方に思わず肩の力も抜けて「ユゼフ様も大変ですね」と苦笑してしまった。


 そしてそのまま話題はフェリクス様と兄である第一王子の昔話へと移ろい、私の記憶はまた靄の中に紛れて消える。時折サワサワと緑を揺らす風が、ガーデニアの香りを一層強く引き立たせた。


 ビオラの声音と、温かい掌と、甘い甘いガーデニアの香り。それに土と芝と空の匂いが加われば段々と忘れかけていた眠気が呼び起こされる。けれど相手が話している最中に眠るなんてありえないと思っていたら……。


「すまないイスクラ嬢。そろそろ話題が尽きそうだ。それに眠い。もう貴方を抱えての移動は無理だ。限界に眠い。どうせだから少し昼寝をしていこう」


 これはもしやフェリクス様なりの気遣いだろうかと訝しんだものの、すでに限界だった眠気の前にあっという間に意識が遠退く。次に起きたら聞いてみようかしら。さっきのあれは“建前”ですかと。

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