◇幕間◇姉で、母で、侍女で。

 開け放ったバルコニーから小鳥の囀りが響き、朝の日差しが射し込む爽やかな室内で、対にならない二つの宝石がジッと鏡を睨み付けていた。イスクラ火花の名を体現した気性のわたしの主人は、まるでルビーのような赤と、ラピスラズリの青の瞳を持つ美しい淑女だ。


 通常のご令嬢よりも少し高い身長と、ほっそりとした身体つきを気になさっている。誰もが持つ類いの悩みと、誰もが持たない瞳の色に苦しむ方だった。幼い頃から乳母であった母の娘としてお世話係に抜擢され、その後順当に彼女の専属侍女へと就いてから早いもので十五年。


 不思議な瞳を持つせいで周囲から心ない言葉を浴びせられて育ち、そんな世間に我が子が潰されないようにとの親心からか、旦那様は幼いお嬢様に厳しすぎるほどの教育を施した。端から見れば虐待の一歩手前だ。あれを愛と呼ぶのなら、愛に“情”はいらないのだろう。


 お嬢様は常に凛とした姿を崩すことはなかったけれど、徐々に口数が減り、お屋敷に訪れるお客様や社交の場で会話をされる以外の表情も失われていった。奥様はそんな娘を心配したものの、お嬢様は優しくされることに恐怖を抱くようになられており、常に四歳下のグラフィナ様に奥様の目がいくように仕向けた。


 結果として素晴らしい才女に成長されたものの、ご自身にも他者にも厳しい性格は敬遠され、年頃になっても縁談はなかなか持ち込まれず、お嬢様が心配だったわたしも縁談を断り続ける羽目になる。元々あまり結婚に興味もないけど。


 イスクラ様に比べてグラフィナお嬢様は見た目も中身も、他者から愛情を注がれるために生まれてきたような方で。そんなグラフィナ様に甘えられるときだけは、お嬢様も不器用な微笑みを浮かべて可愛がられていたように思う。


 そして……あのクソガキ。アで始まる奴も、お嬢様の幼い頃を思い出せば嫌でも記憶に割り込んでくる。幼い頃はグラフィナ様と同じくらいお嬢様に散々甘え、まとわりついて勉強の邪魔をし、わたしを含むお屋敷で働く女性陣に蛇の脱け殻や虫を投げつけてきた悪魔め。


 カウフマン伯爵家の三男坊で、グラフィナお嬢様の婚約者として幼い頃からたびたびソロコフ家を訪ねてきた奴も、あの頃はまだ生意気だが可愛いところもある子供だったわね……。


 けれど、グラフィナお嬢様のデヴュタントで起こった出来事を切欠に、全ては砂で描いた絵のように崩れ去ってしまった。


 奴はもう、わたしの主人を害する危険人物でしかない。叔父に頼んで動向を見張ってもらいはしているものの、お嬢様に接触する素振りを見せれば、一時的にお嬢様を連れてこの国を離れるつもりだ。


 五年前に亡くなる直前の母に頼まれるまでもなく、わたしがたった一人の主と定めたこの子・・・の幸せのためならば。


 ――と。


「やっぱり目立つかしら……」


 そんな呟きに引き戻されて目の前に座るお嬢様を見下ろすと、ややつり目がちな双眸がしきりに気にしているのは、目の下にくっきりと浮かぶ努力のクマ。けれど連日の夜更かしが響いているのは明らかなのに、その瞳に翳りや疲れは見られない。


 祖国であるモスドベリから心ない仕打ちを受け、半ば追放されるようにしてこのリルケニアにやってきてから一ヶ月と三週間が経つ。初めてこの王都に入った馬車の中で悲壮な決心を打ち明けられたときは、こんな風に二十一歳らしく悩む姿を見られるとは思っていなかった。


 そんな可愛い姿をまだ見ていたかったけれど、そろそろ支度を始めなければ庭園に立ち寄ってから執務室に向かう時間がなくなってしまう。名残惜しいけれど癖のない赤みがかった金髪に触れ、櫛削りながら話を聞くことにした。


「さぁさぁ、お嬢様。クマはお化粧で目立たないようにできますから、早く支度を再開させて下さい。今日の髪型はどんな風に致しますか?」


「“目立たなく”ということは、消せはしないのね」


「ここまでしっかり住み着いてしまったクマは、毎日の充分な睡眠で退治するしかありませんわ。それにこうなる前にわたしはちゃんと注意しましたよ?」


「でも手紙を書かないといけないし、立体地図と地形図の形も指先で憶えないといけないわ。少しの時間も惜しい。前任者のサピエハ様に許可を頂いたのだから、暢気に眠っている場合ではないのよ」


「誰にだって睡眠時間は必要です。夜眠ることに暢気も惜しいもありません。それに必要なときに必要な働きが万全にできてこそ信頼に足るものです」


 可愛らしい悩みと、同じ年頃のご令嬢達の中でもなかなかない厳しい立場。それを両立させようとなさる姿はいつでも凛としていて美しく、けれど傍で見ているわたしからすればとても寂しげだった。


 でもいま鏡の中で「昨日フェリクス様から酷い顔だと言われたのよ」と言う表情は、ムスリとしてはいるものの可愛らしい。本人は真剣なのだろうけれど、笑いを誘われてしまったわたしは、喉の奥で小さく笑った。


「お嬢様、それはおそらく“酷い顔色”だと仰りたかったのだと思います」


「同じようなものよ」


「顔と顔色には天と地ほどの差がありますわ。陛下は言葉足らずなのですよ」


「それに最近少し体重が増えたかとも……もっと運動した方がいいとうことよね」


「健康的になってきたと仰りたいのでしょう。以前までのお嬢様は痩せすぎでした。フェリクス様の発言についてはユゼフ様にお話をつけておきますから、しっかり注意して頂きましょうね」


 ……とはいえ、あの乳兄弟の方も気遣いの点では望み薄か。それに城内で作った使用人仲間に聞いたところでは、彼は誰にでも物腰の柔らかな色男らしい。


 騎士にしては色気のある立ち居振舞いが多少気にはなるけれど、お嬢様の仕事仲間だ。仲良くしておくに越したことはないし、見た目は目の保養になるので観賞には向いている。


 陛下もどちらかといえば中性的な美しさのある冷たい顔立ちなのに、最近はお嬢様を見つめる目が少し優しい。お嬢様への言葉は女性に対して投げかける言葉ではないけれど、そのどの言葉にも不思議な温もりがあった。


 もしもお嬢様が心を開いて、頑なに閉ざしている目蓋を開けたなら――。


「今日はイリーナと同じ髪型が良いわ」


「ただの三つ編みになってしまいますよ?」


「良いの。私はイリーナが好きだから。たまには真似をしてお揃いにしたいわ」


 ふわりと細められた宝石の双眸に、いつかフェリクス陛下のお顔が写ってくれれば良いのだけれどと思いつつ、ゆったりと癖のない赤みがかった金髪に櫛を通し、何色のリボンで飾ろうかと思案する。


 少し悩んで手に取ったのは陛下が優しく触れたくなるように鮮やかな、ルビーの赤と、ラピスラズリの青いリボン。

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