★10★ 盲目の魔法使い殿。

 敵国と言っても差し支えない間柄で長年付き合ってきたモスドベリ。新しく王妃候補としてその地からイスクラ嬢が送り込まれてきてから、早いものでもう一ヶ月になろうとしている。


 彼女がユゼフとサピエハに提供した“信じるに足る証拠”とは、モスドベリのとる統治体制が近く内需拡大政策から、武力拡大路線へと変わると読めるメモの束。


 メモと言っても、その量と生々しい内容は真実味を持ち、何年後になるかはまだ分からないが、サピエハとユゼフの表情からそう遠くはない未来に、モスドベリが他国に侵略戦争を行うだろうということは分かった。


 彼女が言うには自分と同じく内政に従事した文官や、戦争に反対する武官の一部が国を出るかもしれない。そうなれば身柄の保護という名目で受け入れ、リルケニアに足りない人材の確保ができると進言した。


 それと同時に自身の妹が嫁いだ先は王族とはいえ傍流で、今の国王とも距離をとっている一族だから、もしも亡命してくることがあれば受け入れて欲しいと。ユゼフ達はそれには難色を示したものの、最終的な決定権は王にあると言うので、俺は彼女のその申し出を受け入れた。


 もう一方はリルケニアの輸出が故意に安く取引され、モスドベリからリルケニアに輸入する物の多くが二重に税を取られているという内容のメモの束だ。


 どちらも外交官の娘でなければ持ち出せない情報はしかし、彼女がそれを国から持ち出して他国で用いれば、帰る場所をなくしてしまう両刃の剣だった。


『それまでは急に使える人材を用意することはできませんので、手始めに手紙をばらまこうと思います。宛先は特にはありませんが、近隣だけを頼りに生きるのは限界があります。植物が種の存続のために鳥や風を使って種を飛ばすように、この三国の外に味方を作りましょう』


 兄の教育係だったサピエハに会わせた翌日、彼女はそう言って侍女殿に書かせた十通の手紙を持って執務室を訪れた。そして王家のサインを入れてもらうためにも中身を確認してくれと言う。


 ユゼフと二人言われるまま便箋を抜き出して読んでみれば、それは一部の定型文以外は微妙に異なる内容だったものの、どれも満ち足りない部分を持つ人間の心をくすぐる檄文だった。


『絶えず流れ込んでくる商人が望ましいですね。中でも狙い目は大きな幌を持った荷馬車で訪れる商人達です。大きな商家といえば、次男以降は家を継げずに燻っている才能も多いかと。そして大きな幌馬車を任されて入国してくる者の多くは、そんな次男以降の者達ですし、当人等が無理でも噂は流れます』


 普段自分から話し出すときの口数の少なさからは想像できない饒舌さに、諭すような穏やかな声音と優しげな微笑み。それだけではない何かを感じるにもかかわらず、彼女の表情からは読み取れなかった。ただ、何を考えているのか分からないというのとも少し違う。


 庭園に案内してからというものあの場所が気に入ったのは本当らしく、俺が騎士団でユゼフと共に部下達の鍛練を終えて執務室に戻ってくると、部屋の前には毎日新しいバラを一本だけ持った彼女と侍女のイリーナ殿が待っていた。


 渋るユゼフを宥めて彼女達を執務室に招き入れ、溜め込んでいた書類の山を切り崩す毎日。ユゼフが見せても問題がないと踏んだ書類をイリーナ殿に手渡し、彼女が必要箇所だけを的確に読み上げ、組み立てた解決案をイスクラ嬢が出す。


 それをユゼフが書き出して細かな部分について彼女と擦り合わせ、最終的に俺が承認印を捺していく。効率化を凝縮した流れ作業だ。


 彼女が嫁入り道具として持ってきたという、謎のトランクが二つ運び込まれたときは何事かと思ったが、開いてみるとそれは立体地図と近隣の地形図だった。流石は外交官家の持ち物だけあって驚くほど精緻な作りのそれは、ユゼフが土台に彫られている銘からその界隈では非常に有名な工房製で、かなり高価なものだと言っていた。


 そんな地図の上を時折なぞって思案するイスクラ嬢を横目に、ユゼフが冗談めかして『同室に才女が二人もいると、男としてはやる気も上がるし、効率もよくなる。良いことづくめだな?』と笑っていたが、案外そうかもしれない。


 たとえ彼女の持ち込んだそれらで応接テーブルが占拠されてしまったとしても、充分お釣りが出る。おかげで俺はその隣で自身の手に負える量の書類をこなし、それまで削っていた睡眠時間を確保することができた。


 そんなことを考えていると不意に昼を告げる教会の鐘の音が響き、隣から袖を引かれて視線を下げた先のフードの中から、癖のない赤みがかった金髪を一筋溢す婚約者の姿に現実へと引き戻される。


「フェリクス様、今の鐘で到着した行商隊の中に、大きな幌を持った荷馬車は何台ほどありますか?」


 見えない彼女から尋ねられて、代わりに昼の鐘に合わせて城門を潜ってきた荷馬車をよく見ようと目を眇める。小さな通常の商人達が使う馬車の中に明らかに大きなものが四台混ざっていた。


「ここから見る限りでは四台だな。街中に散られる前に近付くか?」


「ええと……はい、お願いします」


「分かった。では行こう」


 その答えを聞いて今日も彼女の手を握る。剣で肉刺のできた手で握るには心許ないイスクラ嬢の手を潰さないよう、許す限りソッと。はぐれない程度にギュッと握り混んだ。小国とはいえ仮にも王族。兄に代わって玉座を任される身になってからは城下を歩く機会は減った。


 ――だからだろうか。急に彼女と歩いてみたくなったのは。


 散々護衛をつけて別の者に手紙を持たせるべきだと反対した侍女殿と、同じく王のやることではないと苦言を呈するユゼフを無視して彼女と歩く街は、ただ大量の書類や日課の鍛練に励んで見る【国】とは違って見えた。


 人がいる。それも大勢の。彼等や彼女等は老若男女に至るまで、この国の民だ。絶え間ない喧騒と生活の音がする。俺が守るべきは【これ】なのだと、胸の内側から何かが訴える声がした。


 城門から流れてくる人波にぶつからないよう、先に俺が身体を割り込ませて作った隙間を彼女が恐る恐るついてくる。本当はこんな不確かな真似をせず、いつものように抱き上げて連れていってやりたいのだが、彼女がそれをよしとはしないので仕方がない。


 それでも危なげなときは爪先が若干地面から離れるくらい抱き上げ、目的の場所を目指す。門を潜って少し開けた場所で固まって情報交換をする商人の一団に近付く。急に近付いてきた俺達に一瞬だけ商人達が目配せを交わし合い、警戒の構えをとる。ここまでが一連の流れだ。


 商人達の前に彼女を傷一つなく送り届けるまでが俺の役目。そこからは彼女が目深に被っていたフードを脱いで微笑み、俺の分からない言葉を操って商人達の興味を誘う話題を興する。


 最初はこちらを探るようだった彼等の目が、段々と愉快そうな色を浮かべるのは、何度見てもお伽噺の魔法のようだった。最初にここへやってきたときに彼女へそう伝えれば『外交官私達の言葉やペン先は武器ですから』と。珍しくすぐに笑みだと分かる表情で教えてくれた。


 生き生きとした表情で商人達と話す彼女は楽しそうにみえるが、未だにユゼフは『女性はみんな女優だぞ』と言う。その意味はあまりよく分からないが、今日も無事商人達に手紙を渡せたのか、振り向いた彼女が俺を探す素振りを見せた。近付いて「ご苦労だった」と声をかけると、途端にパッとその頬に朱が差す。


 その手をとって、さっきまで身を隠していた場所へと向かう。人目がないことを確認してからその場で少し身を屈め、彼女の顔色を確かめるが……やや悪い。


「疲れただろう。帰りはまた裏通りに待たせてある馬車まで抱いていくから、少し休め。そうでないと先に馬車に戻っているイリーナ殿にまた俺が叱られる」


「フェリクス様もお疲れですのに申し訳ありません」


「こんなことで疲れるほど柔じゃない。それに貴方は俺の外交官だ。気遣うのに理由がいるのならそれで充分だろう。さあ……抱き上げるから楽にしてくれ」


 遠慮がちに伸ばされた細い腕を首に沿わせ、こちらも慣れた動作で膝裏と背中に手を添えて一気に横抱きに抱えあげる。耳許で小さく息を飲む彼女の気配に「安心しろ。俺は婚約者を落としたりしない」と告げれば彼女は一瞬息を詰め、やがて小さく頷いた。

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