*9* 仕事がはやーい(棒)
多少は信用してもらうために隠し持っていたメモを提供した翌日から、早速イリーナと庭園に向かうことを日課にすることにした。花の香りを楽しみつつ、庭園の世話をする庭師のハサミの音と、小鳥の囀りを聞く。
こんなに贅沢な時間の使い方をしたのは生まれて初めてだけれど、心の中は早くフェリクス様のお役に立ちたいという気持ちでいっぱいだった。
そわつく心を外交に焦りは禁物と言い聞かせて待つこと四日。庭園から戻ったばかりの私達の部屋にユゼフ様の従士が訪ねてきて、私達に四日前フェリクス様に連れていって頂いた執務室に来るようにと伝言を受けた。
従士が退出した後のイリーナは「お嬢様は目が不自由だと申しておりますのに」と怒ってくれたけれど、私はそれに「設定だもの。むしろまたフェリクス様に運ばれるよりは良いわ」と笑った。
けれど目蓋を閉ざしたまま、イリーナに手を貸してもらって廊下を歩いてみると、以外にもかなり距離が離れていることに気付く。フェリクス様に抱えられていたときはほんのすぐの距離だと思っていたのに。
そんなことにもクスクスと笑う私と、隣で「ユゼフ様は気が利かない人ですわ」とまだ怒っているイリーナに、すれ違う城の使用人達が励ましの言葉をかけてくれる。結局執務室の前に辿りついたのは、私の息が階段と廊下の長さに負けてすっかり上がった頃だった。
呼吸を整えてからドアをノックして来訪を告げると、室内から『入ってくれ』とフェリクス様の声が返ってくる。その言葉にイリーナがドアを開くと、不意に甘いバニラと苦い煙が合わさったような香りが鼻腔をくすぐった。この香りには覚えがある。たぶんだけれど、父が好きだったパイプの葉の銘柄と同じ香りだ。
昨日ここを訪れたときにはしなかった香りが、室内にフェリクス様とユゼフ様以外の人物がいることを示している。
一瞬カーテシーをするのも忘れて首を巡らせてしまった私の耳に「こっちだ」というフェリクス様の声がかかり、軽く手を引かれた……かと思うと、またしても抱き上げられた。嘘でしょう、ユゼフ様とまだ紹介されていない人物がいるのに?
おまけに「汗をかいているようだが大丈夫か? やはり次からは俺が直接部屋に迎えに行こう」と言う。本当にどうしてやろうかしらこの人。
一声かければいいという問題じゃないから、動く前に想像力を働かせて欲しいと内心羞恥で悲鳴を上げたものの、何とか叫ぶことはせずに身を固くしていたら、来客用ソファー(?)に座らされた。
後ろではイリーナがユゼフ様と小声で揉めているようだけど、それも大変気になるところではある。が、私は目の前にいるお相手に対しての礼を逸した登場方法に頭を抱えている。今すぐここから消えてなくなるか、フェリクス様に声をかけられる直前に戻ってやり直したい。
とはいえ、もうすでに済んでしまったことをなかったことにはできないので、早鐘を打つ心臓を叱咤して「お初にお目にかかります。私はイスクラ・ティモールヴナ・ソロコフと申します」と、今度こそ常識的な挨拶を述べた。今ほどこの目蓋を持ち上げて相手の姿を確認できないことを悔やんだことはない。
すると突然正面から「ほ、これはどうも。私はレオン・ネストル・サピエハ。レオン爺とでも呼んで下され」という、温厚そうな老人の声が返ってくる。その名にどこか聞き覚えがある気がするのにすぐには思い出せない。次になんと言葉を切り出そうかと考えていると、意外なことにフェリクス様から助け船が出された。
「俺も面識はあるがあまり言葉を交わしたことはない。元々彼は兄の教師をしていた人物だ。兄が出奔してからは体調を崩しがちで、今日は久々の登城になる。前回うちの外交官に会いたがっていただろう。彼がそうだ」
「あ、えっ、外交官……それも第一王子の……?」
「ほっほっ、驚かせてしまったかの。あのお騒がせな第一王子の教育係をしておりました老いぼれですわい。我が国の兄弟共々、お嬢さんにはご迷惑をおかけしてしまったようだの」
どうやらフェリクス様には建前だけではなく、報連相もお教えしなくてはならないようだ。四日前のお話を憶えていて下さったのはとても嬉しいけれど、いきなりそんな大物を呼んでこられても困る。物事には順序とそれに伴う準備がいるのだ。決してこんなくたびれた格好でお会いしていい相手ではない。
着飾ることは元来あまり得意ではないけれど、それでもこんな大物に会えるならもう少しくらいはどうにかしたのに……。私には建前があるのです、フェリクス様。
グルグルと考えを纏めようとしていた私の耳に「ちょっと、ユゼフ様をお借りさせて頂きますわ」というイリーナの声が。
抑揚に欠けた彼女の声は静かな怒りを湛え、ユゼフ様の「ここを離れるわけには」という抵抗は、フェリクス様の「別に同席しないでも構わない」というつれない言葉と共に、部屋の外へと消えた。
イリーナのその行いを私も諫める気はない。フェリクス様の行動に口を挟める立場にありながら、この監督不行き届き。外交の席での第一印象は、後々まで尾を引くとても大切なことなのだ。今回の報連相問題は絶対に許せない。
「いいえ、そんなに張りのあるお声のご老人はそうはおられませんわ。私の目が見えないからとからかわれては困ります。それに迷惑をおかけしているのはこちらの方ですわ、閣下」
「流石はソロコフ殿のお嬢さんだの。動揺されておっても舌がよく回る」
「まぁ……ふふ、お褒めの言葉として賜りますわ。ありがとうございます。サピエハ様は父をご存じなのですか」
「勿論、勿論。あの方は優秀な外交官でおられたのに……事故でお亡くなりになられたと聞いた。この老人よりも先にご自慢だったお嬢さんを残して逝くのは、さぞや無念だったろうなぁ」
そう本当に気の毒そうな声音で仰って下さるサピエハ様の声を聞いて、そう言えばいつか父がその名を書類に書き込んでいたのを思い出した。あのとき目にした名前だったのかと納得する一方で、ふと意外なことに気を取られる。
「あの父が仕事の最中にそのような世間話を?」
「そうとも。妻君によく似た美しい娘の話をよく聞かされた。きっとお嬢さんのことだろう」
一瞬だけ興味をそそられた話題はけれど、楽しげに懐かしむような言葉の前に、スッと胸の内側から沸き上がった冷たい感覚に紛れて消えた。
「ああ……でしたらそれはきっと妹のことでございますわ。妹は若い頃の母の姿絵に瓜二つなのです。父が仕事の席でお恥ずかしい話をお耳に入れてしまって申し訳ありません」
「ふむ? なんと、こんなに美しいお嬢さんがもう一人おられるとは羨ましい」
「お上手ですね。けれど私はともかく、妹は本当に美しい娘なのですよ。あの子の姉であることは私の唯一の自慢ですわ」
母によく似た美しい娘は、大抵妹に対しての褒め言葉だ。私はどちらかと言えば顔立ちの厳しい父に似ている。誰が見たって“美しい”は妹への言葉だ。
「それよりも閣下。本日こうして席を設けて頂いたということは、私から陛下へとお渡しした書類を閣下がご覧になられ、その上でお話を聞いて頂けるのだと思ってよろしいでしょうか?」
大物相手に長々と釣りを楽しめるほどの技量は、残念ながら今の私にはない。相手の言葉に惑わされないように釣り竿を握り直せば、サピエハ様の言葉が返ってくるよりも先に――、
「俺の部下には独身の者も多い。もしも貴方を鍛練場に連れて行けば、奴等には自慢だとやっかまれるだろうな」
という、恐ろしく心を乱す横槍が入る。直後、今度こそ思わず「フェリクス様も一度お部屋の外へ出て頂けますか?」と口にしてしまった。彼は相変わらず「そうか。では少し部屋を出ていよう」と、こちらの無礼な物言いに気を悪くする様子もなく退室して行った。
サピエハ様と私だけになった執務室にはあっさりと静寂が落ちた。けれどその代わりに私の心臓はバクバクと異常な脈を打ち、少しも冷静さを取り戻せない。
「ほ、ほ、ほ。あの第二王子は相変わらずのようだの。お嬢さんも大変だ」
「外交の席でみっともない姿をお見せして申し訳ありません」
「いやいや、それくらいの方がこちらも腹を割って話ができるものよ。この歳になってまで腹の探り合いは面倒だ。あの書類、確かに拝見させてもらった。よく調べてある。信用もできる。ただあの内容をこちらに漏らすということは、お嬢さんが二度と母国の土を踏めんようになる可能性が高い」
「それはこちらに向かう話を頂いたときより覚悟の上。私の身はすでにこのリルケニアのものです」
外交向きの微笑みを唇に乗せた私の言葉に、僅かな沈黙が降りる。今までの失点が祟ったかと思われたそのとき、向かいに座るサピエハ様の気配がグウッと大きくなった気がして、目蓋を閉ざしたままそちらへと意識を集中させた。
「ふむ……ではお嬢さんはこの登城も堪える老いぼれに、何の許しを乞いたいと言うのかの?」
先程までと変わらない好好爺の声音でありながら、こちらの内面を見透すような空気を纏う老練な外交官に「手紙を」と、微かに震える声で私は乞う。
「このリルケニアの地にて、私に手紙を介してフェリクス陛下の助けとなれる外交を行うことを、どうかお許し下さいませ閣下」
「……勿論だとも。第一王子の時代は潰えた。この老人のことなど気にせず、貴女は新しい王を支えてやって下され」
そう導く主を失くした老外交官のバニラが薫る溜息に、私は深く頭を下げた。
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