*7* 陛下、廊下を走ってはいけません。

 身を捩ってフェリクス様の腕から逃れようとするも、まったく意に介さない彼に抱き上げられたまま、城内を自分の意思とは関係のない速度でビュンビュンと風を切って辿り着いたのは、さっきまで会合をしていた部屋にも流れ込んでいた甘い香りのする場所だった。


 振り落とされないよう肩口にしがみついていた私の耳に、低く「下ろすぞ」と声がかけられ、こちらが頷くよりも先に爪先が柔らかな芝生に触れる。


 それとほぼ同時に後ろの方から『どちらですかお嬢様!』と、慌てた様子のイリーナの声が追いかけてきた。フェリクス様に悪気があってのことではないのだろうけれど、無意識に人の護衛を撒かないで欲しいものだわ……。


 彼女の声がした方角に身体を向けて「心配しないで、私はこっちよ」と声をあげれば、ほどなくして駆けつけたイリーナに「お嬢様!」と、まるで生き別れた人にでもするような熱烈な抱擁を受けた。


「陛下、お嬢様は目がご不自由だと申し上げたではありませんか。今までも何度か申し上げようと思っていたのですが、いきなり一言の断りもなく女性を抱き上げて拐うのは如何なものかと」


「俺はこの後も執務が残っているから、なるべく早く目的地に辿りつきたくてな。それに移動時間が惜しかったとはいえ、あれでもゆっくり歩いてきたつもりだったんだが」 


「そういう問題ではございません。目が見えないのに自分の思いもよらない速度で移動されれば、それだけでも充分に恐ろしいものなのですよ?」


 突然始まったイリーナのお説教もどこ吹く風。ビオラの声音は淡々と事実のみを語る。おまけに少し息が上がっているイリーナに比べ、私を抱えていたフェリクス様は息一つ乱していなかった。


 二人の間に挟まれている状態なので、お小言とそれに対する返事はすべて受けるものだから、多少納得がいかない。


 腕の中にいる私はそんなに振動を感じたりはしていなかったけれど、恐らくいくつかの階段を経由しているような感覚はあった。一般の女性より身長が高くて嵩張る私を抱いたまま上下の移動ができるとは驚きだわ。


「イスクラ嬢からはそういった苦情は聞いていないが。不快だったか?」


 不快ではなかった。ただイリーナが代弁してくれたように怖かっただけで。しかし素直にそう言うのは何となく自分の弱味を見せるようで言えない。そこで出した微妙に灰色な言葉が――。


「い、いえ、多少は驚きますが不快とまでは」


「そうか。なら次からは抱き上げる前に声をかけよう」


 ああ……やっぱり遠回しな物言いでは通じないのね。そんな気はしていたけれど。次はもっと踏み込んで言葉にしてみようと唇を開いた。


「それもありますが、フェリクス様。まず今回のように廊下を走るのをお止めになられた方がよろしいですわ。国の最高権力者が度々走っていては、城の者達が何事かと不安になります」


「それも分かった。最近仕事が多くて以前までほど暇がない。他に気になっていることがあるなら、今のうちに纏めて話してくれ。提案の内容にもよるが、俺個人で叶えられるものなら聞こう」


 ……一応話を振ってくれるだけマシだとは思うのだけれど、これは根本的なことを理解していない気がする。母国にいたときのように侮られてのことなら、こちらも相応に対処ができるのに……と、思いはしたけれど。


 こんな風に誰かに政治的な含みのない意見を求められたのは初めてで、新鮮さとうっすらとした感動を覚える。


「それでしたら、次回からこの庭園に勝手に立ち入ることをお許し願えますか?」


「うん? そんなことなら当然だ。貴方は虜囚ではない。城のどこへ出向くのも自由だ。ただ目のことがあるので危険な場所には立ち入らせるわけにはいかない。その点で言えばここも安全とは言い難いから、今日のところは俺も同席させてくれ」


「この庭園に罠でも?」


「いや、流石に庭園に罠はしかけていない。バラの棘の話だ。令嬢は香りが良いと近付いて触れようとするだろう。例えば……」


 そこで不自然に言葉が途切れ、傍に立っていた人の気配が遠退く。隣に感じるラベンダーの香りに手を伸ばせば、イリーナがその手を握り返して「目視できる場所におられますよ」と教えてくれた。


 時間がないのに何をされているのだろうかと訝しんだその時、不意にイリーナのいる方とは逆の方向から肩を掴まれ、驚いて振り向いた鼻先にふわりと甘く柔らかいものが香る。


「これは赤いバラだ。名前は知らんが、母が昔これを自分で摘もうとして指を刺したと兄から聞いたことがある。そういうことがないように、気に入った香りのものがあれば言ってくれ。もう棘は落としてあるから触れても平気だ」


 そう仰る声は相変わらず平坦で、気遣いは斜め上。つい今しがた声かけをするようにと注意したことを理解していない。普通に考えて非常識でありえない。


 でも恐る恐る受け取ったバラの花は、アンドレイが時々贈ってくれた儀礼的な花束よりも魅力的なものに感じる。これは正真正銘、私のために摘まれた花だ。


「他にも黄、白、ピンクと色々ある。欲しい色を言ってくれればどれでも摘もう。全種類でも構わない。俺は貴方の目だからな。決めかねれば目移りだってできる」


 大真面目にこんな不自然な嘘を信じて、真に受けて、付き合おうとしてくれる。おかしくて笑いたいはずなのに、ふっと熱いものが一筋頬を伝って落ちた。隣から「お嬢様……」と気遣わしげにイリーナが囁く。


 外交に感情を見せてはいけない。ずっと昔からそう教わってきた。妹は一度もそんな風に言われているところを見たことはないのに。


「……すまない、バラは嫌いだったか」


「いいえ、あまりに良い香りだったものですから感動したのですわ。それに私はこのバラのおかげで、一つフェリクス様にご提案したいことを思いつきました。聞いて頂けますでしょうか?」


「ああ。さっきも言ったとは思うが、俺個人で叶えられる程度のものであれば」


 その声音が少しだけ揺れを含んだように聞こえて、今度は涙ではなく苦笑が零れた。いったいこの人にはどこまで建前がないのだろうか。


「それでは……フェリクス様の外交に関する執務に、私も同席させて頂きたいのです。勿論正規の外交官殿には私からお話をさせて頂きます。表立っての外交には決して口を挟みません。この国の不利になることを私が行ったとフェリクス様が感じられた時には、如何様にでも罰して下さいませ」


 私の勝手な発言に隣のイリーナからは何の言葉もない。代わりにポンポンと背中をあやすように叩いてくれる優しい掌の温もりを感じた。フェリクス様が立ち去っていく気配はない。数分ほどの間を置いて、彼は口を開いた。


「……俺にそれを信じさせられるものはお持ちなのか?」


「勿論でございます。我が瞳の君」


「では了承しよう。俺の外交官殿」


 契約を交わした直後に指先からソッとバラの花が引き抜かれて、指先に触れる程度の口付けが落とされた。

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