*6* 初めての外交は自己答弁。
向かいに座る相手がティーカップをソーサーに戻す硬質な音と、自分の中から聞こえてくるトクトクという心臓の音。不躾に正面から突きつけられる敵意の混じった視線は気になるけれど、目蓋を閉ざした私を動揺させるには至らない。
うっすらと弧を描く唇には、殊更その形が分かりやすいように鮮やかな赤の口紅を引いた。この二週間で身に付けた目蓋を閉じたままでの優雅な仕草で、相手を焦らすように時間をかけてティーカップを口許に運ぶ。
『早速ですまないのだが、急遽外交官の娘である貴方の力を貸して欲しい』
ノックの返事を待たずに部屋に入って来て早々に、フェリクス様はそう仰った。そして私はその言葉でようやくこの二週間ずっと感じていた【無駄飯ぐらい】のレッテルを剥がし、久々に本来の仕事をできる実感に浸っている。
隣に控えているイリーナに「美味しいわ」と微笑みを浮かべて伝えれば、すぐに彼女の「ありがとうございます」と嬉しそうな声が返ってくる。
庭園から流れてくる春風の中に混じってバラの香りが鼻腔をくすぐり、あたかもこれが本当にただのお茶会であると錯覚させた。
「イスクラ・ティモールヴナ・ソロコフ嬢。先程ソビエスキ様から、我が国が向かわせた令嬢とは婚約ができないとお話を聞かされたときは驚きましたが……成程確かにお美しい。しかし無礼を承知で申し上げさせて頂きますと、モスドベリから貴方が嫁いで来られるのは、少々礼儀がなっておられないのでは?」
十分ほど前、挨拶もそこそこにポルタリカの使者を名乗った男性が、あまりにものんびりとしたこちらに痺れを切らして先に口火を切った。外交では先攻後攻などという決まりごとはないものの、私は後攻の方が好きなので「礼儀ですか?」と小首を傾げて見せる。
自分よりもかなり年下の……娘のような年頃の私のそんな反応に、相手が苛立つ気配を肌に感じた。目蓋を閉ざしていると常の晴眼のときよりも、こういった敵意に敏感になるようだ。
「何か我が母国に無礼がありましたでしょうか?」
「我がポルタリカとリルケニアの友好関係を、より強固なものにしようという大事に、貴女は招かれもしないのに突然思いもよらない場所からやってこられた。これを無礼と称さずに何と表現すればよろしいですかな?」
「あら、まぁ。それは誠に申し訳ございませんでした。ですが、お相手が欲してもいない手土産を持ちこんで勝手に長居をするのは……果たして如何なものでしょう。友好関係を結ぶとは、お相手の利益も考えてこそ。押し付けるだけでは
「ハッハッ、ソロコフ嬢はお美しいだけでなく弁も立つ。女性がこうもお強いとは、新しく王位につかれたモスドベリ王は先進的な考え方をお持ちのようだ」
「閣下からお褒めに与り光栄ですわ」
わざと言葉の端々に棘を含ませ相手の苛立ちを誘う。相手からは小娘のあからさまな罠にかかりはしたくないという葛藤と、こんな小娘ごときに会話の主導権を握らせたくはないという傲慢な感情が見えるようだ。
目蓋を閉じたままでのこうした話し合いは初めてだけれど、意外と良いかもしれない。見えないことで世界を切り離せるおかげか、いつもより相手の動揺を誘う言葉の精査がしやすい。欠点は相手がどの言葉で動揺しているかという瞳の動きが読めないこと。
外交官は瞳で戦う。その点で言えば、私のこの双眸は初手で相手を怯ませる有効な武器だった。だけどもうこの国ではその手は使えない。
言葉は釣り針、情報は餌、時間は浮き、相手は魚、私は釣り人。
今は亡き父が授けてくれた教えを思い出しながら、さらに三十分ほどチョンチョンと釣り針についた餌をつつく魚をあしらう。部屋の外には何かあればすぐに立ち入れるよう人を控えさせているものの、室内には私とイリーナ、それにポルタリカの外交官の三人だけだ。
ここで見聞きすることの一切について、リルケニアは不干渉。自国の妃問題でさえ、コウモリ国家のリルケニアには関係がない。これは
――だから、
「いやはやそれにしても……モスドベリは
こうした分かりやすい挑発をするのも自由であれば、
「ふふふ、では台座が
こんな風にやり返すことも可能だ。勿論感情だけで言い返していては罵り合いで終わってしまう。そんな無駄な徒労は嫌だし、何よりもそろそろこの釣り自体に飽きてきた。
ティーカップをソーサーに置いて、隣に控えるイリーナに用意した書類を出すように促す。優秀な侍女は一言も発することなく、パラパラと相手に読みやすいよう丁寧にテーブルへと書類を広げてくれた。
「こちらで調べさせて頂いただけでも、ポルタリカからリルケニア王家へ贈られた宝飾品は、かなり色々な持ち主を経由しておられますね。少なくとも次回から宝石は小さくとも、台座との釣り合いが取れたものをお寄越しになられては? そうすればモスドベリから贈りました曇った宝玉は、大人しく下げさせて頂きますわ」
書類の内容は私の前任者であるご令嬢の
要するに彼女は伯爵家の愛人の娘で、幼い頃に父親である伯爵が屋敷に引き取ったものの、本人も父親同様に恋がお好きなようだった。
一応伯爵家の監視があったので、どの恋人達とも身体の関係を持つまでには至っていないようだったが、どちらにしても小国とはいえ王家に嫁がせて良い人材ではない。同じことを現モスドベリ王家がやられたらまず武力衝突になるだろう。そしてそこには、かつて私の婚約者だった男が侍るのだ。
「それでは閣下、本日はご足労頂きましてありがとうございました」
イリーナの手を借りて立ち上がり、淑女の微笑みを張り付けて取ったカーテシーを見たお相手が、荒々しく席を立って部屋を出ていく音が耳に届く。私の手を握るイリーナが「あんなにカリカリしているから、頭のお友達も少なくなるんですわ」と耳許に囁きかけてきた。
二人してクスクスと笑いあっていたら、ふと彼女が身を固くするのが分かる。部屋の中に誰かが入って来たのだろう。鼻先にイリーナの愛用しているラベンダーの石鹸が香り、彼女が私を庇うようにして前に立っているのだと理解した。
誰が姿を見せたのかイリーナに尋ねるよりも早く、その人物の口から「見事な手並みだった」とビオラの声が言葉を紡いだ。
「お褒めに与り光栄ですわ、陛下」
「あの男には前回の令嬢で苦い思いをさせられたので、外に出てきた奴の顔を見て胸が空いた。うっかり笑ってしまってユゼフに小言を言われたがな」
「確かにユゼフ様が窘められたように、そこは堪えて頂けるとよろしかったかと」
「他意があったわけではないのだが、自分でも笑ってしまうとは思わなくてな。咄嗟に堪え損ねた」
淡々とそう答える声音からは笑った片鱗も感じられない。でも彼がそんな嘘を私につく必要もないので、恐らく実際その言葉通りに笑ったのだろう。問題はどの程度の笑い方をしたかによるのだけれど、できれば苦笑程度に留めておいてくれるといい……と思っていたら。
「声を出して笑ったのは久々の経験だった」
ああ、笑ってしまったのか……しかも声を出して。初日から思っていたことだけれど、この方のこういう部分を今後どう正せば良いのかしらと一瞬真剣に悩んだ。そのせいで自分の前からイリーナの石鹸の香りが遠退いたことに気づけなかった。
次に鼻先で香ったのは、スッとするようなミントの香りで――……?
「貴方が約束通り役目を果たしてくれたのだ。こちらもその返礼に貴方の目としての役目を果たそう。ちょうど城の庭園のバラが見頃らしいからな」
そう耳にした直後に身体が地面から浮き上がり、思わず小さな悲鳴を上げた。無意識でも咄嗟に目蓋を持ち上げてしまわなかった私を、誰でもいいから褒めてくれないかしら。
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