*5* 事前の準備は余裕をもって。
初日に賜ったお言葉に甘え、様子見と目蓋を閉ざしたままでの歩行訓練に三日を費やし、その間に姓で呼ぶのは疲れるだろうと名で呼ぶようにと言われてしまい、非常に苦労して名を呼ぶ練習もした。
さらにユゼフ様が騎士団のお仕事の合間を縫って、交互に不便がないかを訪ねにきて下さるだけでなく、不揃いだった家具や布製品は三日間ですべて統一感のある物へと変更されてしまった。
そして驚くことにそれはフェリクス様のご指示であったらしく、ユゼフ様が『この部屋の内装注文に城の人間は頭を抱えてましたよ。可愛い手触りのもので統一しろって……抽象的すぎますよね?』と教えてくれた。
四日目には一度今後の私達の身の振り方について、相談の席らしきものは設けられたのだけど――。
『本当に私達をモスドベリに送り返さないでよろしいのですか?』
『何故送り返す必要がある』
『目のことでご迷惑をおかけするかもしれません』
『それは貴方のせいではないだろう。加えるならば、俺は別に貴方を目のことで特別に労るつもりはない。夫婦とは互いに足りないものを補い合うものだと聞いている。だから貴方の目は俺が補う。俺は兄と違って軍事にしか明るくない。そして貴方は外交官の娘だ』
『では、私がそちらの部分を補えれば何も問題はない、と』
『無理強いはしないが、できればそうしてくれるとありがたい。それと挙式について当初は五ヶ月後ほどを予定していたのだが、その目では何かと不安の方が大きいだろう。貴方がこの城の中を歩くに不自由を感じない程度に慣れるまでで……貴方のご両親の喪が明ける一年後はどうだろうか』
『そこまでお考え下さっておられるのでしたら、こちらからはもう何も質問すべきことはございません。陛下の御心遣いに感謝いたします』
――といった感じで、拍子抜けするほどあっさりと私達はリルケニアに身柄を受け入れられた。
当初の見目云々には触れられることもなく終わったけれど、逆をいえば息を飲まれることもなければ陰口を叩かれないだけでも凄いことだ。思っていたものとは違えども、母国にいた頃では考えられない私の厚遇ぶりにイリーナは大喜び。そんな彼女の姿を見られて、私も大満足だった。
お世話になる方々の顔立ちや身体的特徴などの視覚的な情報は、すべてイリーナに任せた。理由はその方がここでの生活が楽なのと、うっかり私室の外で目を開けているところが誰かに見られたら、今度こそ母国に送り返されるからだ。それだけは絶対に避けたい。
彼女の情報からフェリクス様は銀灰色の髪を短く束ねていて、瞳は深みのある冬の海の青。背はアンドレイと同じくらいでやや細身。見た目は冷たい美形であるものの『動きが綺麗なのにどこかガサ……荒削りなのですわ。ドアも両手が塞がっていたら足で開けられるとユゼフ様が嘆いておられました』とは、イリーナの談。
歳は私の二歳上で、真実の愛を見つけられたお兄様は彼の五歳上。見目はお兄様の方が逞しいのに、内面は真逆の繊細な方だったそうだ。
そんなお騒がせな乳兄弟の手綱を握るユゼフ様はイリーナの三歳上の三十四歳。
前陛下よりもさらに歳上とあってか、飄々と掴みどころはないのに世話焼きな方だ。イリーナの情報では赤茶色の癖毛を肩まで伸ばして結んでいて、榛色の穏やかそうな垂れ目。右の唇端にホクロがあるのが色気を感じると女性に人気。
勿論女性に人気な理由はそれだけではなく、ユゼフ様もフェリクス様同様に騎士団の隊長として活躍されている。優しげな声や語り口からも、彼がただの
現にイリーナに探ってもらったところ、彼はすでにモスドベリに私の詳しい身辺情報を再度寄越すようにと手紙を送っていた。しかしその肝心の手紙は、モスドベリ側が一切相手にするつもりがないようで梨の礫だという。
イリーナは侍女……というのは間違いないのだけれど、護衛でもあり、さらに言えばちょっとした諜報もできる。元は大きな商家の出身だった護衛兼乳母である彼女の母親の仕事を継いでくれたのだ。以来外交の調べものをする片腕として、とても頼りにしている。
母国が本気で私を棄てたのだと思えば微妙な気分ではあるものの、瞳のことが知られるまではもう少し時間が稼げそうだ。とはいえ、手厚くお世話をされて骨抜きな生活を享受してばかりもいられない。いられない……はず、なのだけど。
「このお城にご厄介になり始めてからもう二週間よ。泳がされているだけだとしても、流石にそろそろ私も働かなくては駄目だと思うのイリーナ」
「あら、そうは仰いますがお嬢様。モスドベリからこちらに嫁いで来る前までの仕事量と移動日数、それにこの二週間を除けば、お嬢様は一般的なご令嬢と比べて少々働きすぎだったと思われますわ」
「それは仕方がないから……。お父様の残していかれた仕事の引き継ぎが貯まっていたのだもの。私がやらなければ誰がやるというの」
まだお昼前だというのにすでに暇を持て余し、嫁入り道具の下着を入れた袋の底に隠して持ち込んでおいた書類も、利用できそうな部分を暗号化して抜き出し、用済みになった書類は処分した。特に真っ先に使えそうな情報の最有力候補については、イリーナの叔父が持つピメノヴァ商会の力まで借りた。
それらを全て片付け、暇潰しにとユゼフ様が差し入れて下さった本も、目が不自由な設定を守るためにイリーナが朗読してくれたので、内容もしっかり憶えている。
女性向けの大衆娯楽だったせいか、台詞が時々芝居がかりすぎて、朗読するイリーナが照れたりする貴重な面も見られた。国では戯曲を楽しんだりといった記憶はあまりない。両親や妹に世間が【悪魔憑きの家族】と後ろ指を指させないためにも、仕事は私の人生の全てだった。
「お嬢様はこの二週間もずっとご立派に励んでおられましたし、国元でのお仕事は本来婿養子に入られるはずだったクソガキのこなすべき事柄でしたよ」
「アンドレイには直前まで騎士としての仕事があったのだから、そちらを優先するのは仕方がないわ」
「お優しいお嬢様。どうせソロコフ家の領地を不当に手にしたところで、さぼっていたクソガキには荷が重いですわ。あっという間に没収です。そのときは叔父に手紙で報せてくれるように頼んでありますから、一緒に読んで笑ってやりましょうね」
クスクスと楽しそうに笑いながら刺繍を刺すイリーナに苦笑して、ゴロリと寝台に横になる。晴眼の視界に柔らかな色合いの調度品が飛び込み、密かに憧れだった淡いピンク色のベッドカバーにくるまってみた。
すると朝にベッドの中へ置いてきた微睡みが、ゆっくりと私を午睡に引きずり込もうとしたその時、部屋のドアがコンコンと軽くノックされ、針仕事の手を止めたイリーナへ視線を投げてから目蓋を閉ざす。
その直後にドアを開けに椅子を立ったイリーナと、ノックの意味を理解していないフェリクス様が勝手に入室してきたことで一悶着あり、私の退屈で平和な時間は終わりを告げた。
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