★4★ 王妃候補か人質か。

 身体を捻って半歩たたらを踏んだ直後に、耳許を蜂の羽音のように重く鈍い風が薙いだ。稽古用に刃を潰した湾曲刀がギリギリ結べる程度になっている髪をかすり、結んでいた紐が千切れて視界の端に散る。


 煩わしさから短く舌打ちをし、背面に回した湾曲刀を右手から左手へと持ち変えて、逆手になっていた柄を手の中で半回転させて持ち直す。その切っ先を、重心の位置がずれて反撃が遅れると甘い判断をしていた部下の喉元にピタリと合わせれば、大の男が呆気なく武器を離して降伏の姿勢をとった。


「くそー、今日はいいとこいったと思ったのにさすが……隊、じゃない、陛下」


「いや、でも確かに今のはいいとこ狙ってたんじゃないか?」


「ほんとほんと。絶対に二擊いなしたくらいで勝負がつくかと思ったぜ」


「バーカ、おまえ達そんなのは隊ちょ……陛下が手加減してくれたからだっつーの。まぐれだよ、まぐれ。それよりおまえの下手くそな剣で、陛下の黙ってれば役者みたいな顔に傷でもついたらどうすんだ」


 気のない拍手と共に、それまで離れて見取り稽古をしていた部下達が周囲に集まってきて、互いにまだ呼び慣れない、聞き慣れない呼称で言葉を交わす。とはいえ呼称以外の気遣いがないのは最早城内ではここだけになっていた。


「ここは鍛練場だ。陛下呼びはそぐわないから止めろ。それに黙っていればとはなんだ。黙っていればとは」


「や、黙っていればってのはそのまんまの意味でしょ」


「そうですよ。だって陛……隊長はそんな女がキャーキャー言う顔をしときながら、オレたちより無神経なことあるじゃないですか」


「今日は新しい王妃様候補が来て下さるんでしたっけ。あんまり女心の分からないこと仕出かして怒らせないようにして下さいよ」


「何だ言いたい放題だな貴様等。そこに並べ。三人一組ずつ手合わせしてやる」


 口の過ぎる部下達を前にさらなる稽古をつけてやろうとしたその時、城から走ってきたユゼフの従士を見てもうそんな時間だったかと溜息をつく。そのまま従士の方へと向かおうとしたところで部下達に捕まり、せめて着替えて軽く汗を井戸で流してから向かった方がいいと小言まで食らった。


 元より兄のせいで回ってきただけの玉座は居心地が悪い。急にこれまでとあからさまに態度を換えるわけではないが、これまでよりも身だしなみに口喧しくなった部下達を相手にするのは時に虚しい気分になる。


 それでなくとも、今日の顔合わせに乗り気ではない。ようやく先日兄が残していった気位が高い婚約者を送り返せたばかりだというのに、もう次の婚約者候補が訪ねてくるなど……頭痛がする。


 だいたい前回の令嬢は兄が大人しいのをいいことに、兄には少しも歩み寄ろうとせず、やたらと俺ばかりに香水臭い身体で纏わりついて猫なで声で話しかけてきた。あれでは兄でなくとも逃げたくなるだろう。


 今回の令嬢は、少なくともあれよりまともであればいいと思わずにはいられない。げんなりしながら急かす従士に続いて出迎えの場に向かえば、従士に声をかけられたユゼフが眉間に皺を刻んで睨み付けてくる。

 

 その少し後ろに令嬢にしてはやや背が高い赤みがかった金髪の女性と、黒髪の浅黒い肌をした女性が見えた。釣書の内容を思い出すに、金髪の女性が今回俺にあてがわれた令嬢だろう。黒髪の女性は彼女の侍女だろうか。


 何か彼女達を取り巻く空気が重苦しく見えるが、貴賓を出迎える場に俺がいなかったことで揉めたのかもしれない。心持ち歩む速度を上げて近付くと、使用人達が声をかけてくるのでそれに鷹揚に頷き返した。


「お待たせしたようですまない。客人が来るのを忘れていたわけではないのだが、部下に稽古をつけるのにすっかり熱が入ってしまった。そちらが――?」


「お初にお目にかかります、陛下。イスクラ・ティモールヴナ・ソロコフです」


「ああ……そうか、貴方が。俺はフェリクス・レヴェラ・ソビエスキだ。それで何故目を瞑っている? 砂でも入ったのなら医師を呼ぶが」


 待たせたことを詰られはしなかったものの、普段ならあまり気にも止めないが、ふらつきながらカーテシーをとったソロコフ嬢はどうみても危なげに見える。だというのに目蓋を閉ざしたままなのも妙だ。


 感じた疑問をそのまま口にすれば今度こそユゼフから小言を食らった。だが、そんなことは大した問題ではない。そんな状態の娘を送ってきたモスドベリのやり方が気にくわなかった。

 

 隣でユゼフが釣書の時点で怪しむべきだとか何だとか口にしたが、問題はそこでもない。目の見えない女性を、半分敵国のような国に嫁がせることが気にくわなかった。これでは花嫁ではなく人質だ。


 そしてはたと今日から彼女に与える私室の内装を思い出し、一度点検した方がいいことに思い至る。女性の好みなどまったく分からないせいで全て城のメイドに任せた部屋は、少々彼女には危険だろう。


 一端別室で休むように告げ至急調度品をかき集め直した部屋は、晴眼の人間には許せるものではないだろうが、後日何とかしようということで彼女達を呼びに向かった。最初はイリーナと名乗った侍女の手に掴まって移動を試みる彼女を待ったものの、埒が明かない。


 結局抱き上げて運んだ方が彼女も疲れないだろうと思い、さっさと部屋に送り届けて執務室に戻ると、そこには不機嫌そうな表情のユゼフが待っていた。


「なぁ、フェリクス。あの新しい花嫁と侍女殿は主従揃ってかなりな美人なんだが、どうにも胡散臭い。前回送り返したポルタリカのお嬢さんと同様、送り返して両国の出方を見た方がいいんじゃないか?」


 椅子にかけた直後にユゼフからそんな言葉をかけられ、先程まで腕の中で懐いていない人間に抱き上げられた猫のように身を固くしていたソロコフ嬢の姿を思い出す。釣書に両親は事故死、妹はモスドベリの王族に嫁いだとあった。


 もし今すぐに送り返しても彼女は妹を頼ればいい。しかしチラリと彼女が持ってきた荷物を見たが、本当に必要最低限のものでしかなかったことが引っかかった。何より目の不自由な彼女につけられた人員が侍女一人だけというのもおかしい。


「まだ今日来たばかりだ。ここまでかかった日数を考えても三日は休ませる必要があるだろう。そんなに結論を急ぐなどお前らしくもない」


「それを君が言うのかフェリクス。あれだけ真面目一辺倒だったあいつが、珍しく特定の女性の話をしだすようになったときも僕は結論を急がなかった。その結果、あいつは初恋に狂って国を捨てた」


「…………」


「僕は今でもあのときさっさと手を打たなかった自分の愚かさを悔いている。何かが起こってからでは遅いぞ。それでなくとも今この国の立ち位置は危うい。よく考えて行動しろ」


 兄が消えてからというもの、もう何度も耳にした“国のことを思うのなら”と続く言葉を遮るように「四日後、彼女に今後の身の振り方を尋ねる」と被せた俺の言葉に、外面は良い・・・・・ユゼフが今日一番の悪態をついた。

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