*1* さよなら、初恋。

 他国に嫁入りすべく半月ほどを猶予をもらって、慌ただしく使用人達の新しい職場の斡旋や、引き継ぎの資料を作成していたら、肝心の嫁入り支度は一番最後に回してしまい、屋敷の中で必要最低限のものしか持ち出せなかった。


 とはいえ元々あまり思い入れのある私物もないので、これを期に身軽になれて良かったと思うことにする。


 国を離れる日、夫君を通して話を聞きつけた妹は、泣いてすがって『行かないで姉様!』と言ってくれたけれど、その手を払いのけて『貴女も王族に嫁いだのだから聞き分けなさい』と切り捨てた時は、何故か少しホッとしている自分がいたのも確かで。


 最後まで残ってくれていた使用人達の見送りの中にあの人の姿を探したけれど、当然のように彼の姿はどこにもなかった。


 合わせる顔がないと思ってくれているならいい。でも、もしかすると単に解放されて興味が失せただけかもしれない。そう思うと怖くて、別れの言葉を言付ける気にはなれなかった。


 ――嫁入り道具を積んだ馬車に揺られて、春の季節を肌で感じながら旅をすること四日目。


 嫁ぎ先はモスドベリの王都サンドラよりもやや暖かい土地なので、それだけは本当に長年の恋に破れて塞いだ二十一歳という、令嬢としては立派に嫁き遅れな私の慰めになる。これで資源の乏しい北に位置していたりしたら目も当てられない。


「……いっそのこと、もうこの瞳を潰してしまおうかしら」


 ぼんやりと外の風景を見ていたら、ポツリとそんな言葉が口をついて出てしまった。慌てて口を押さえたけれど時すでに遅しというもので、唯一モスドベリから嫁ぎ先にまでついてきてくれた忠義者の侍女が、泣き腫らして赤くなった目を驚きに見開いてしまう。


 イリーナは余計な一言を最後に挟んでしまう癖のせいで孤立しがちな私を、唯一見捨てないでいてくれる存在だ。ややこの地域では珍しい浅黒い肌は健康的で、黒く豊かな髪を太い三つ編み一本に纏め、綺麗なアーモンド型をした翡翠色の瞳でいつも微笑んでくれる。


 私は乳母を勤めてくれていたアセルの娘である十歳上の彼女にだけは、昔から甘えっぱなしだ。五年前に病で亡くなった乳母によく似た翡翠の煌めきを持つ瞳は、見つめているだけで吸い込まれてしまいそうに感じる。


「な、にを、仰るのですか、イスクラお嬢様」


「もう泣かないでイリーナ。冗談よ」


「この状況では、冗談に、聞こえません」


「ええ、そうね。でも大丈夫。冗談だわ」


 本当は限りなく本心に近かったものの、目の前で鼻をぐずつかせる侍女を見ていたら、そんなことを言えるはずもない。途端にまた翡翠の瞳を潤ませて「すみません」と俯いた彼女に、むしろ謝るのはこちらの方だと苦い気持ちになった。


 持って生まれてしまったからには憎み抜くにも難しいけれど、この身の不幸の幾分かは私の瞳にあるだろう。


 私について回るのは、美しさを乞われて末席とはいえ王族に嫁いだ妹と、女には不要だと罵られた多少のさかしさに、相手が殿方であろうとも間違いは間違いであると言い返してしまう気の強さ。


 対して生まれてこの方比較され続けた妹は、神の寵愛を受けていると言って過言ではなかった。波打つ明るい金髪と、雪のように白い肌。瞳は上質なサファイアの青で、華奢だけれどしっかりと女性的な主張のある肢体。


 性格は暢気で優しく、時々苛立つほど鈍感だったけれど、垂れ目がちなせいか微笑んで見える柔和な顔立ちは、相手に睨み付けていると思われる私のつり目と対照的で。そんな誰からも愛される妹に『お姉さまは本当に凄いわ!』と本気ではしゃがれると、つい家庭教師に出された課題の手伝いをしてあげてしまった。


 それに引き換え癖のない赤みがかった金髪と、少し特異な瞳を持つ上に、つり目がちできつい印象な顔立ちの私。おまけに華奢といえばまだましだけれど、実際には背だけが一般の女性より高くて肉付きが悪いだけ。


 含む思いはあれど、出立前に過呼吸になるほど泣きじゃくってくれた、たった一人の可愛い妹。


「目蓋を閉ざして黙っていれば、優しげなあの子の面影と重なるとあの人は言っていたのよ」


「申し訳ありません、お嬢様。あの恥知らずなクソガキの話題はお止め下さい」


 俯いたままでもはっきりと分かるほど低くなった声に、思わず苦笑してしまう。脳裏に浮かび上がるのは、この忙しさが落ち着いたら正式に結婚するはずだったかつての婚約者で、妹と同じ歳の四つ下の幼馴染みで、初恋の人の顔だ。


 見上げるほどの長身と赤茶色の短髪に、野性的な色を滲ませた金茶の瞳を持ったその人は、アンドレイ・イーゴレヴィチ・カウフマン。


 軍人家系のカウフマン伯爵家の三男で、今はソロコフ家が治めていた領地を引き継ぎ、跡取りがおらず絶えたハマートヴァ伯爵の名を陛下から賜り、アンドレイ・イーゴレヴィチ・ハマートヴァと名乗っているはずだ。    


 元は妹であるグラフィナの婚約者だった彼は、運のないことに妹がデビュタントで見初められてしまったことで、私の婚約者にその立場を追いやられた。両家はただ年頃と家格が釣り合って、家同士の縁を結ぶのにちょうどいいとしか思っていなかった婚約。


 であれば、上に嫁ぎ先のない姉がいるのだからと、これまで通りの関係を貫いた形になるのも通りだ。それでも私は嬉しかった。昔から理詰めで動く私と刹那的な彼で性格は正反対だったけれど、何か壁にぶつかった時にも怯まず立ち止まらないところが好きだったから。


 幼い頃から将来結婚するものだと思って育まれていた二人の縁は、あっさりと途切れてしまったのだ。その頃から今まで姉と慕ってくれていた彼の私に対する態度が硬化し、ソロコフ家を憎んできたのだろう。


 三ヶ月半前に不慮の事故で一度に亡くなった両親。それが本当に事故であったのかどうかなど分からない。


 ただ結果として両親が亡くなったあとに残されたのは、歴史のそれなりにある外交を司った伯爵家長女という肩書きと、父が残していった仕事の引継ぎ、それに内心では私を憎む婚約者だけだったのだ。


 そんなどうにもやるせない状態であればこそ、私は父の元部下だった方が持ってきたあの申し出に頷いたのだから――……。


 どれくらいの時間をぼんやりとしていたのだろうか。窓の外に視線を向けていた私の手の甲にそっと何かが触れ、視線を馬車の中に戻すと、そこには心配そうな表情をした翡翠の瞳があった。 


「何度かお声をかけさせて頂いたのですが……お疲れになられましたか、お嬢様?」


「いいえ、ごめんなさい。少しぼんやりとしてしまっただけよ」


 呼ばれていたことに気づかなかったことを詫びると、彼女はゆっくりと首を横に振る。揺れる馬車での移動は確かに疲れが出るけれど、それは侍女である彼女にしても同じことだ。


「いえ、それならよろしいのです。ただもしも体調が悪くなりそうな予兆があるのであれば、御者に少し速度を落とすように伝えますので」


「ふふ、分かったわ。でも貴方が先に気分が悪くなるようなことがあれば、その時は私が御者の方にそう伝えるわね」


 私が慣れない軽口を叩けば「お嬢様にそのようなことはさせられません」と、唇を尖らせて言われてしまう。


 美しい瞳に見つめられて心配されても心の中は醜く痛む。目蓋を閉ざせば愛されるのだとしたら、この瞳など必要ないのに。それなのに美しいものに焦がれるたび意思の弱い目蓋は持ち上がって、貪欲に溢れる世界の美しいものをねだる。


 例えばそれは婚約破棄を申し出た時のあの人の心底安堵した表情であったり、雨上がりにかかる虹であったり、朝焼けや夕焼けや星空、季節が移ろうごとに代わり行く風景だ。


「元より政略結婚なのだからお相手の方に愛されるとは思えないけれど……。せっかく貴方がついてきてくれたのだから、あの国では見られなかったような美しいものをたくさん見たいわ」


 口にしてみると単純なその願いは、意外と今後めげそうになった時の支えになりそうな気がした。だからこそ急に、今までの人生で口にしてみなかった突飛な思い付きを口にしてみる気になったのだろう。


「ああ、でもそうね。イリーナが協力してくれるなら、もしかすれば上辺だけの愛も手に入れられるかもしれないわ」

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