◆建前を知らない陛下と、本音を言わない私◆
ナユタ
◆プロローグ◆
三ヶ月前に亡くなった父の執務室で書類整理をするのは、最早日常といって差し支えないほどに馴染み、革張りの古い執務椅子のどこに重心を置けば長時間座っても疲れにくいか、耳障りな軋みを上げたりしないかも熟知している。
例え両親を不慮の事故で一気に失くしたとしても陽は必ず昇るように、生前父がこなすはずだった仕事の書類も重なって、そのまま放っておけば山となる。一度山となってしまってからではもう切り崩すのも手間だ。
それが昼頃に予定になかった来客を告げられ、手を止めなければならなかった時点で何となく嫌な予感はあった。
一般に虫の知らせと呼ばれるそれを信じたことなどこれまでなかったけれど、今日ばかりはそんな言葉に引っ掛かりを感じ、そして不本意なことにそれは私の今後の進退を左右する大きな捻れとして的中する。
「聞き間違いでなければ、私にリルケニアの第二王子に嫁げと仰いましたか? 陛下は私に婚約者がいることをご存知でしょうに」
「……はい」
「何故急にリルケニア王家への輿入れの話などお持ちになられたのでしょう?」
「申し訳ありませんが、それはわたしも存じ上げないのです。ただもしもお受け頂けるのであれば、陛下より直々にご説明があるかと……」
居心地悪そうに来客用のソファで身を固くした元部下だという男性に、多少同情してしまう。今のは意地の悪い問いだった。恐らく元上司の娘にこんな提案を持ち込むのは、かなりな勇気が必要だったはずだ。そうでなくとも私に睨まれるのは気分のいいものでないだろう。
三ヶ月前に亡くなった父を含め、我が家は前国王にその才を買われて重用されてきた。二年ほど前に代替わりしたばかりの若き王が、前国王であった父王と不仲であるというのは民の間でも有名な話である。
そのせいか、最近は国の中枢部での大規模な人事改革が起こっていると耳にしたばかりだ。そんな状況で降って沸いたようなこの話。ついに我が家にもその手が伸びてしまったのだと想像するに易い。
王家の圧力によって持ち込まれたリルケニア国といえば、ここから西に位置する小国家だ。あまり大きな声では言えないものの、最近第一王子が踊り子と駆け落ちしたという噂を掴んでいた。
けれど相手は仮にも第一王子。そんな無責任なことがあるはずがない噂の域だと思って様子を見ていたのに……想像を絶する浅はかさだわ。
しかし小国家とはいえリルケニア王国は、このモスドベリ王国と国力をほぼ同じくするポルタリカ王国の間に位置する。三つ巴と呼ぶにはあまりに弱く吹けば飛んでしまう国ではあるが、リルケニアが存在するおかげでモスドベリとポルタリカは正面から戦争をしない。
力が同じ者同士の間に小国家が挟まれることで、その国が生き残れる理由は一つ。それにリルケニアは小国家で数は少ないものの、恐ろしく精強な騎兵隊を有している。その軍事力を味方に引き入れた方が勝者になるということだ。強かな小国家はずっとそうして両者の間でコウモリ外交を続けている。
――と、今はそんなことを考えている場合ではない。
小国家では内戦を避ける目的で帝王学を学ぶのは基本的に第一王子のみ。第二王子はその臣下としての教育は受けていても、いざ玉座に据えるには不安が残るものだ。それに私も王族ではないので当然王妃教育など受けていない。伯爵令嬢としての教育と、男児が生まれなかった変わり者の父が、それなら娘にと授けた外交教育だけだ。
ともすれば私に期待される立場は王妃ではなく、純粋に駒としての使い道と、多少は学問の心得がある娘を送りつけてやったとのだという大義名分。
「では先程の問いの内容を変えさせて頂きますが……私に婚約者がいることは、すでに陛下もご存じのはず。それを考慮した上でのこの打診なのでしょうか?」
自分で紡いだ婚約者という単語に胸の奥がジクリと痛んだ。まだ痛む心があるのかと笑えもしたけれど……今度こそ男性の肩が大きく揺れ、何か言葉をかけようとその顔をこちらに向けた瞬間、目を見張り視線を落とした。
男性のそれはあまり褒められた挙動ではなかったものの、今さらだと怒りよりも先に諦めが立つ。
「あの人は私と婚約破棄をしても、この領地を手に入れられる算段がついたようですね。幼き頃を共に学び遊んだ人物が国の中枢に食い込めるようになるとは、喜ばしい限りです」
ソファーの上でさらに小さくなった男性を見て、フッと自嘲なのか悲しみなのか、溜息のような笑いが零れる。
「……分かりました。モスドベリ外交官ソロコフ伯爵が長女、イスクラ・ティモールヴナ・ソロコフ。そのお話お受けさせて頂きます」
心がひどく冷えるに従って、どこかで何かがふつりと切れた。求めたところで何も手に入れることが叶わないから、もう何も求めないですむ場所にいきたい。両親が亡くなってから片時も思案することを止めなかった私も、今度ばかりは考えることを放棄する。
目蓋を閉ざした闇の中。向かいに座る元部下の男性が息を飲む気配だけが、時が止まったように静まり返る室内を震わせた。
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