第8話 8、マさん
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第1階のエレベーターの壁の色は深い紫であった。
最近はLEDが主力になってネオンサインは少なくなったが、ここまで紫外に近い発光体はあまり見かけない。
厳かに美しかった。
第1階の部屋は白色で照明されていたが奥の方は少し暗かった。
「ここは工場全体の制御室です。大きなディスプレイを持つコンソールが左右に2つあり、同じものです。共通の部分もありますが各々が独立したコンソールです。独立しておりますから矛盾した命令も出すことができます。しかしそれはなされぬ方がいいでしょう。奥の部屋半分を占める装置も制御装置です。この制御装置は対話型です。自立知能を持つコンピュータになっております。名前をつけた方が便利だと思います。会話をしてみればコンピュータにも限界があることが分かると思います。コンピュータの知識と能力は私を超えないものです。ホムンクさんのそれよりはずっと劣ります。」
「ホの次はマですから『マ』さんと名付けましょう。」
「それではコンソールの前に行って確認を取りましょう。」
二人が奥のコンソールに近づくとディスプレイが明るくなった。
ディスプレイはコンソールが実在する十m四方のこぎれいな室内を立体表示していた。
室内の椅子には一人のかわいい女の子が座っていた。
「こんにちは。私は川本千本と申します。貴方はだれですか。」
「私はこのコンソールの入出力端末です。私の名前はまだ決められておりません。」
「貴方を『マ』と名付けます。よろしいですか。」
「了解しました。私の名前はマです。御用は何ですか千本さん。」
「日本国家を歌って下さい。」
「了解しました千本さん。君が代は・・・」
それは美しい声であった。
楽器が発する音は多種の独特な高調波を含み楽器特有の音色(ねいろ)を出す。
その音は耳に入り蝸牛管で周波数分解され脳にシグナルが送られる。
そのパターンと時間差が脳に快感や嫌悪感を与える。
この女の子の声は聞くと実に心地よい。
よほどたくさんの種類の高調波を含めているのだろう。
ローレライの魔女になれるかもしれない。
「マさん、頼山陽の『川中島』を詠って下さい。」
「了解しました千本さん。鞭声粛々夜川を渡る・・・。」
この時の音調はくぐもった声であった。
その声を聴いたとき千本は鳥肌が自然に浮き出て来た。
感動する声であった。
「マさん、フランク永井の『君恋し』を歌って下さい。」
「了解しました千本さん。宵闇せまれば悩みははてなし・・・。」
この時の声はフランク永井のバスの音程ではなく少女の発するアルトの音程であった。
どの声も独特の音色を持ち、聴くのに心地よかった。
このコンピュータはどのような高調波の含まれ方が人の耳に心地よいのか分かっているということである。
おそらく一日中聴いていても飽きないであろう。
これからここにいる期間が長くなるだろうと千本は思った。
「ありがとう、マさん。この工場の立体配置図を示し、私の位置とムンクさんの位置を表示して下さい。」
「了解しました、千本さん。」
ディスプレイは暗転し、黄色い細線で立体的に描かれた工場の輪郭を示し、千本とムンクさんは赤い人物形で示されていた。
人物の顔の方向さえ同じであった。
千本が顔を動かすと画面の千本の人物形の顔も動いた。
リアルタイムの立体配置図であった。
「ありがとう、マさん。次にこの工場の周囲の構築物を表示し、工場立体図に重ねて表示して下さい。」
「了解しました、千本さん。」
ディスプレイには工場の周囲20mの立体図が現れた。
地表を除いて工場の周囲は土と岩石で満たされていた。
地表70m辺りで岩盤となっており、岩盤の凹んだ部分には水が見えていた。
この構造では工場の各層は岩盤の中に全て埋まっていることになる。
核爆弾でも壊れないであろう。
地表の道路を歩いている老人も動いていたし、たまたま通る自動車も立体的に表示されて動いていた。
これは立体図というより現時間ミニュチュアである。
千本は少し意地悪をしようと思った。
「マさん、各部の拡大はできますか。」
「できます、千本さん。」
「それでは地表のこの柵を拡大して下さい。」
「分かりました、千本さん。」
ディスプレイは柵を中心に拡大していった。
やがて柵の全体が表示された。
それは実際にそこにあるように見えた。
「マさん、この柵の根元を拡大して下さい。」
「了解しました、千本さん。」
柵の根元を中心に拡大は進み、コンクリートブロックの穴に立てられた木の棒が画面全体に広がった。
千本はその柵の根元には常に小さい蟻が行列を作っていることを知っていた。
画面にはやはり蟻の行列を示していた。
「マさん、この蟻の一匹を拡大してください。」
「了解しました、千本さん。」
一匹の蟻は画面全体に拡大された。
蟻は動いているので背景も動いていた。
5㎜程度の小型の蟻であったがその姿は恐ろしかった。
そしてディスプレイの解像度は変わっていないように思えた。
「ありがとう、マさん。拡大するにつれ解像度は増してゆくことがわかりました。これはどのようにして映しているのですか。」
「映しているわけではありません。4次元時空間は常に時間の経過と共に変化しております。一定の空間における現時間の時空間を映像にしているだけです。映す空間の指定をするだけです。このディスプレイの解像度は常に一定です。」
千本は了解した。
この画像は空間描写なのである。
領域をもっと小さくすれば細胞でも生きたまま観ることができるだろう。
観自在菩薩の現時間限定版というところだ。
「ありがとう、マさん。今はこの工場を線画の配置図で示しております。この工場も外の映像と同様な映像で観ることができるのですか。」
「大部分は観ることができますが、最下層のエネルギー蓄積装置とナノロボットの製造工程は観ることができません。その部分は時間進行速度が此処とは異なります。さらに分子レベルの映像も画像が乱れます。それは光波長の映像としては表示できません。」
「ありがとう、マさん。このディスプレイは現時点での4次元時空界を映すということですが、どれくらい遠くを映すことができますか。それはこの4次元時空界の限界ということですか。」
「私の能力では地球のおよそ2倍程度の距離までは映すことができます。その辺りになると時間進行速度が無視できないほど変わっているからです。それを補償できる高級な装置では光年単位で見ることが出来ると推測できます。」
「良く解りました、マさん。これからいくつも質問することと思います。それから時々歌を頼むかもしれません。よろしく。」
「お待ちしております。」
「ムンクさん、これで終わりですか。少し疲れました。」
「おおよその説明は終わったと思います。第3室で眠りますか。それともご自宅に戻りますか。」
「自宅に戻ります。少し眠ったらまた来ます。」
千本とムンクさんは重力エレベーターで地表に出た。
千本はムンクさんに地下で待つように伝え、エレベーターは偽装位置で停めておくように言った。
千本は自宅の部屋に戻り、冷たくなったインスタントコーヒーを2口飲み、空調を点けて簡易ベッドに寝転がった。
想像した通りではあったが興奮した。
進んだ文明に出会い自分の無知が判るとき、劣等感は体全体に広がると認識した。
年寄りで良かったかもしれない。
既に午後3時であった。
空腹は感じなかったが、今度3層に行ったらコーヒーを取り出して飲んでみよう。
夕刻、千本は目が覚め車庫に向かった。
ロボットを作らねばならなかった。
「ムンクさん、上がって来て下さい。」
スーツを着込んだムンクさんが重力エレベーターに乗って上がって来た。
「ムンクさん、ロボットを作りましょう。」
一人と一体は第1階のコントロール室に向かった。
部屋の奥には巨大な対話型制御コンソールがあり、応答は端末であるマさんを通して行われるはずであった。
「マさん、ロボットを作り始めようと思います。私は『川本千本発明商店』という屋号の個人商店を登録しました。この商店を通してロボットを広げようと思います。インターネットに掲載する予定のロボット概要に関してはこのように書こうと思います。
『性能:致命的高放射線下での作業、水面下1万m以浅での深海での作業、上空1万mまでの高所での作業、真空中での作業、1万℃までの高温下での作業、千トンまでの重量物の搬送作業、その他人間が出来る全ての作業。
作業命令伝達手段:対話形式。
禁制事項:ロボットの倫理規準に従ってロボットが判断した事項。
ロボットの作動時間:百年間。
販売価格:当面販売はせず、貸出しのみを行います。
貸出料金:当該作業に想定できる金額の1%。
貸出期間:当該作業終了まで。
ロボットの引渡:指定地点に指定時刻に移送。
ロボットの回収:ロボットの自発的撤収。
ロボットの寸法:高さ160㎝(時間がいただければ大きさは変えることができます)。
標準質量:百㎏(機能は低下しますが50㎏程度まで軽減できます)。
ロボット表面形態:任意(男性皮膚、女性皮膚、金属光沢、暗黒、白色等)。
商品在庫: 三千体(貸出数に拘らず常時在庫)。』
「ロボット作成上で障害になるものはありますか。」
「問題はありません。全て可能です。」
「三つ質問があります。一つは人を殺したり傷つけたりしないという禁制事項をロボットに課すことができますか。二つめはロボットの機能で分子分解とかX線熱搬送とか重力遮断のような現在の科学のレベルを超えている機能は遮断できますか。三つめはロボットの表面形態はロボット完成の後で変えることはできますか。」
「最初の禁制事項は完成前にも課すことができます。次の高度すぎると思われる機構は完成後に任意に遮断することができます。最後の形態変化は完成後にロボット自身が行うことができます。」
「ありがとう、マさん。それでは標準タイプのロボットを千体作成して、倉庫に保管して下さい。」
「了解しました。実行します。」
「ちょっと待って、マさん。ロボットの制作過程で音や振動は発生しますか。」
「ほとんど発生しません。」
「それでは進めて下さい。」
「了解しました。実行します。」
その後千本は第三層に入り、コーヒーを「製作」した。
ナノロボットが素材のコーヒーである。
すばらしい芳香を発するコーヒーを千本は意を決めて飲んだ。
けっこうおいしかったが、「飲食物は自然物がいいだろう」と思った。
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