百合の花

A(依已)

第1話

「いってきます」

「いってらっしゃい。

気をつけて」

 今日も母親に見送られながら、いつものように出社しようと家を出た。

 足が鉛のように重かった。一歩一歩の歩みが、異様に遅い。熱でもあるのか。いや、そんなことはあり得ない。そんなことは、じゅうぶん過ぎるほどわかっていた。真夏の、連日35度越えは当たり前のこの猛暑日が続く最中に、よほどのことがない限り、熱など出やしいのだ。

 わたしはそれでも、必死で電車に飛び乗った。満員電車に揺られ――。頭がグラついているのか、それとも体がグラついているのか、はたまた心がぶれぶれで、芯がグラついているのか。到底、わかりもしなかった。

"もう、どっちだっていい"

 心の中で、力なく吐いた。誰にも届きはしない言葉を・・・。

 吊り革にしがみつくわたしの腕は、この暑さだというのに、長袖シャツで、手首までキッチリと覆われている。

"この暑いのに、なんで見るだけでも暑苦しい長袖なんて着てんだよ"

という、周囲からの無言の圧力に屈しもせずに。

 お洒落のため?まさか。服装などに無頓着のわたしが、クソ暑いのを我慢してまで、長袖なんて着るわけもあるまい。

 ノースリーブからか細く白く美しい腕を、これみよがしに出した、同じ年頃の女性が憎らしかった。

 わたしの腕が太く、黒く、見苦しいというわけでは決してない。じゃあ、ナゼかって?それは、わたしの腕にカッターによって切り刻まれた無数の切り傷を隠すためなのだ。腕だけではない。それは、太ももにも、しかと心の叫びが刻まれている。

 車内は、クーラーが最大限に効いているにもかかわらず、熱気でムンムンとしていた。かすかに、汗のニオイが漂った。

 目的の駅に到着すると、大勢の下車する乗客達に押され、よろよろと車外へ放り出された。

 会社に向かって歩いた。つもりだった。しかし今日のこのわたしは、いつの間にやら、どんどん会社から逸れて歩いていた。

 もう、会社になど行きたくなかった。限界だった。悔しくて、苦しくて、毎晩眠れなった。処方された睡眠薬は、飲み過ぎて効かなくなっていた。いつしか、生理も止まった。女でなくなった気がかた。こうしてわたしは、女でもなくなり、あげくの果ては、人間でなくなる日が来るのだろうと思った。

 朝だというのに、すでに照り返しで、ギラギラしている見知らぬ路地を、何十分歩いた

だろうか。いったい、どこまで歩けば、わたしは救われるのだろうか――。




 

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百合の花 A(依已) @yuka-aei

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