第19話


 伊波は大きなくしゃみをした。共通玄関から外に出ると、外は真っ暗だった。冷たい風が伊波の身体にぶつかってくる。伊波はうう、と震えながら首を引っ込め、ダウンコートのファスナーをきちきちと上げた。もうすぐ3月だがまだまだ夜は寒い。

 看護師の話によると、道添陽菜は一時間前には室内にいたらしい。夜間の見回りに行ったときに、道添陽菜のベッドが空だと言うことに気がついたそうだ。院内を探したが見つからない。看護師達はもう一度病院の中を探すことにし、伊波達は病院の周りを一周してみることにした。

 伊波が白い息を吐きながらぼやいた。

「陽菜ちゃん、手術が怖くなったんですかね」

「わかんない。でもそんなことで逃げ出すような子じゃ無いと思うけど。外も寒いし」

たしかにそうだった。道添陽菜はMRIの検査こそ嫌がったものの、それ以外は弱音も吐かずに頑張っていた。

二人はしんとした真っ黒な歩道を歩いていた。吾妻のブーツの音がかつかつと響く。吾妻は手で襟もとを押さえ、首を埋めている。強い風がびゅうと吹き、木の影がざわりと揺れる。伊波は手をこすり合わせ、ポケットに入れた。

誰もいない信号機を通り過ぎようとしたとき、吾妻が言った、

「伊波あのさ」

「なんでしょう」

「もし……さっきのこと、公表するのなら、ぼくを犯人にしてよ」

「は?」

「ぼくのミスで死亡したってことにして」

 伊波は吾妻を振り向いた。吾妻の眼はまっすぐに道の先を見ている。首元に踊るファーの襟元に、ふわふわとした白い息が流れていく。

「だめか」

 伊波はため息をつく。なんと答えて良いのかわからず、足下を見ると、自分のくたびれた革靴が目に入った。伊波は気を紛らすようにぎゅっと地面を蹴って歩いた。

 裏手の道には、車通りはほとんど無く、信号機だけが意味なく青から黄色、黄色から赤に変化していた。

 再び、数穂先を歩いていた吾妻の声がした。

「なんでそこまでって思う?」

 伊波が顔を上げると、吾妻はいつのまにかとなりにいた。

「僕の母はさ、僕が3歳の時出てったんだ。祖父母が僕を引き取ってくれたんだけど、喜んではいなかった。『母親はなんであんたを産んだんだろう。可哀想に』っていつも言われたよ」

 吾妻は細い指を袖から少し出し、息で暖めた。伊波もポケットの中で、手を開いたり閉じたりした。

「だからかな。ずっと、あんまり人のこと信頼できなくて。だから、学生の時青島に会って、ほんとにびっくりした。人に信頼されている人間て、ほんとにいるんだって思った」

「それで興味を持って、友達になったんですね」

 吾妻は笑った。

「そんなわけないじゃん。大嫌いだったよ。偽善くさくて。でもあるとき研究室で、青島とペアを組まされた。その研究は良い成果は出なかったけど、その過程でたまたま青島が発見したことが、かなり大きな発見になった」

 横断歩道の白い線が黒いアスファルトから浮いて見える。吾妻の声はすぐに静けさに吸い込まれていった。革靴を履いた足下から寒さが上がってきて、伊波はぶるっと震えた。

「僕たちは教授に呼ばれて、褒められた。『どっちがこれを見つけたんだ』って教授は言った。そしたら青島は一言、『吾妻の成果です』って。僕は聞き間違えたかと思った。吾妻のせいで成果が出なかった、って言うならわかるけど。でも青島は、僕が手伝った事によってこの発見があったって断言したんだ。

 僕はあとで青島を問い詰めた。なんで本当のこと言わないんだよって。でも青島はぽかんとして言ったよ。本当のことだろって。

 僕はその時思ったんだ。ただ愛されてる人間なんていなくて、自分が人を愛せるから愛されるんだって」

 吾妻は目を伏せ、ゆっくりと言った。

「僕は、自分が患者にしたことで、青島の迷惑にはなりたくないんだよ。ただそれだけ」

 伊波は黙った。遠くで車が過ぎ去る音がした。伊波はモヤモヤとした気持ちを抱えながら視線を下に向けた。

 伊波が何かを言おうとしたとき、植え込みのへこみ部分に備え付けられている自販機の横で、何かが動いた気がした。伊波ははっとして駆け寄った。

 ピンクの帽子、ピンクのダウンコート、ピンクの靴。蛍光灯の弱い光に照らされて、ピンクのかたまりが、椅子にちょこんと乗っていた。道添陽菜だった。

「陽菜ちゃん?」

 声をかけると、陽菜ははっと顔を上げた。ふっくらした頬は白っぽく、眼鏡は曇って半分ずり落ちている。伊波は陽菜の前にひざまずいた。

「なにしてたの?寒いでしょ。戻ろう」

 伊波は陽菜の手を握った。手は驚く程冷たかった。しかし、伊波が手を引っ張ろうとすると、陽菜は戸惑いながら首を左右に振った。

「何かあるの?」

「あの……電話」

 陽菜の視線の先を追うと、手に携帯を握っていた。

「電話?電話なら、病院の中ですればいい」

「できない」

「なんで?充電とか?」

 陽菜は首を横に振る。

「先生、手いたい」

 伊波は無意識に強く握っていた手を慌てて緩めた。

「ごめん。でも、ここじゃ寒いから。病院に戻ろう。風邪引いたら大変だし」

 陽菜は俯いたままだ。伊波が途方に暮れていると、今まで黙っていた吾妻が顔を出した。

「だれにも聞かれずに電話が出来るところ、病院にもあるよ」

 伊波が何のことかわからずに振り向くと、陽菜が言った。

「ほんとう?」

「ああ。だから戻ろう」

「うん」

 陽菜は驚く程素直に先頭に立って歩き始めた。伊波がその後を追いながら、吾妻に顔を向ける。

「どういうことですか」

「陽菜ちゃんの隣にいる土屋愛香ちゃんの母親は、シングルマザーだそうだよ」

「はあ」

「だから、普段電話してもなかなかつながらない。なのに自分はお母さんと電話で話している――――陽菜ちゃんはその状態をよしとしなかったんじゃない」

 伊波は心臓がぎゅっとした。そんなこと考えもしなかった。

「ああ寒い。早く戻ろう。もう手がかじかんじゃったよ」

 吾妻がずずっと鼻をすすり上げる。陽菜が振り向き、吾妻と伊波を交互に見てから言った。

「ごめんなさい」

「いいよ。月も綺麗だしね」

三人は空を見上げた。雲一つ無い藍色の空に、満月がぺかりと光っている。三人の靴音は冷たい空気のなかに響いた。三人は病院へまっすぐ歩いて行った。

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