第20話

全身麻酔で眠った道添陽菜の頭部を、西藤が両手で支えている。伊波は頭に冠を乗せるように、頭部固定器を嵌めようとしていた。伊波の横には吾妻と青島が立っている。今日の執刀医は青島、助手は吾妻だ。伊波は第三助手で、西藤は勉強のために見学に来ていた。

「もう少し左だ」

「はい」

 青島の言葉に従い、伊波はピンを少しずつ移動させる。頭部固定器はヘッドホンに針が着いた様な形をしている。左右から三カ所、骨までピンを刺して固定してから、本体をベッドに固定する。顕微鏡手術の元では、わずかに頭が動くだけでも致命傷になりかねない。しっかりと頭を固定する必要がある。

「このへんですか」

「顎を上げるな」

「はい」

 青島は椅子を少し移動させたり、身体を引いたり戻したりしながら患者を眺め、じっくりと観察した。体位を決め始めてから、すでに三十分が経過していた。

 脳外科医は皆、体位取りをとても大切にする。ただでさえ狭く小さいスペースでの手術だ。姿勢が傾いていたり、ピンの位置が上手くなかったりすると、すぐに術野が見えなくなり、手術の危険性が上がる。

「これでどうでしょう」

「ああ。これでいい。吾妻もこれでいいか」

「いいよ~」

 吾妻も請け合う。

 伊波はほっとして針のネジをくるくると回した。頭を支えていた西藤もほっとした顔をしている。頭部は重いのだ。西藤は手術のビデオを調節しに、ベッドから少し離れた小さなモニターの前に座った。

 青島は姿勢を正し、手術室に声を響かせた。

「道添陽菜さんのinterhemispheric approachでの頭蓋咽頭腫摘出手術をはじめます。よろしくお願いします」


頭蓋咽頭腫は脳の底の部分に発生する腫瘍で、視床下部のまわりに出来る。視床下部は頭の真ん中――――鼻の奥にあると考えるとわかりやすい。そのため、どこからメスを入れても、脳の深層部までメスを入れる必要がある。脳実質や神経、血管に傷をつけずにに患部へたどり着くことも、狭い術野での操作も、高いテクニックが必要だ。


まずは開頭のために、伊波が術野の前に立った。

さまざまなアプローチが考案されているが、今回の手術では、眉間を中心に穴を開け、脳の奥までアプローチする。ジャックナイフポジションをとっていた。

まず、髪の生え際にそって、額の上の皮膚を大きく切開する。そしてその皮膚を眉の上までべろんと裏返す。しかしその部分の骨をすべて外すわけでは無く、骨切開するのは眉間のすぐ上だけ。額の中央に釣り鐘型の窓をつくるイメージで術野を作っていく。

 青島と吾妻が、作業をしている伊波ににじり寄った。

「骨膜切開線は骨切開より3ミリくらい大きく切開しろ。同じライン上だと陥没する」

「はい」

「そうそう~あと前頭洞の硬膜薄いから、剥離するとき必要以上に深く切らないように気をつけてね~」

「はい」

「前頭洞の骨くずは全部とれよ」

「はい」

「副鼻腔炎の元だからね」

 青島と吾妻はほとんど同時に話しかけてくるので、伊波はハイと答えるのが精一杯だ。

 伊波は骨を外して硬膜を切り、それから前頭洞――――副鼻腔につながる空洞を、7ー0のモノフィラメント糸で縫合した。

「モノポーラお願いします」

 伊波はさらに作業を進めた。まず、鼻の付け根の奥にある骨、鶏冠――――まさに鶏のとさかのような形の骨を取り出した。そこを頂点に、生え際に向かって二等辺三角形の形で硬膜をめくる。上矢情勢脈動を二重結紮して切断したあと、右脳と左脳を分けている大脳鎌という硬膜組織を外し、脳の真ん中の割れ目を広げていく。

 伊波はそこで、嗅神経も忘れずに保護した。吾妻は前頭葉の前と底を、糊のような素材で硬膜に接着する。こうすることで、前頭葉の下にある嗅神経が、重みで傷むのを防ぐのだ。

ここまで準備を終えたら、いよいよ左右の脳を割っていく作業に入る。

 伊波はいったん電子顕微鏡から目を離し、息をついた。ここからは、伊波も未経験の領域だ。青島がやっていたのを何度か見たことはあるが、自分が実際手を入れたことがあるのはほんの一部だけだった。今回は腫瘍にたどり着くまでの工程を、すべて伊波がやることになっていた。

 ちらりと横を見ると、青島と吾妻が術野を凝視している。伊波は思わず逃げ出したい衝動に駆られたが、腹に力を入れてまた顕微鏡をのぞき込んだ。せっかくのチャンスを棒に振るわけには行かない。

 吾妻は間延びした声で言った。

「だいじょうぶ~?代わろっか?」

「いえ、大丈夫です」

「いつでも代わるからね」

「ありがとうございます。でもだいじょうぶです」

 吾妻は暇そうにこちらを見ている。伊波はそれを無視し、術野に集中した。


 脳の正中線上というのは、大脳鎌で左右に分かれているので、ぱっと見るとアプローチしやすいように見える。しかし、実は奥の方は癒着が激しい。

 大脳釜の奥にある脳組織は帯状回と言う。ここでは、脳が脳梁――脳の中枢――を巻き込むように潜り込んでいる。しかも、左右凸凹の形でぴったりと癒着しているので、剥離はとても難しい。

 脳の深層部で、術野も狭い手術の場合、以下に無血の術野を維持できるかが手術成功の鍵を握っている。一度出血してしまうと、ワーキングスペースはすぐに血で埋め尽くされ、何も見えなくなってしまうからだ。

 伊波はくも膜小柱でびっしりとつながれている中央のわずかな隙間を切り開き、術野を広げていく。伊波は集中して作業を進めていた。露出したのこりの大脳鎌を切ろうとしたとき、急に歌うような声がした。

「伊波」

「なんでしょう」

「代わろっか」

「大丈夫です」

「そう」

 吾妻は若干気落ちしたように言った。

「あ、大脳鎌ね。もっと基底部の方から切ってね」

「はい」

 しばらくすると、また吾妻が言った。

「伊波」

「なんでしょう」

「前内側側頭動脈のとこからくも膜切ると良いよ。その下広いから」

「はい」

 吾妻はいつの間にか、伊波の側にぴったりと寄っていた。伊波が作業を再開しようとしたとき、吾妻がまた言った。

「伊波」

「なんでしょう」

「あのね、ちょっといい?」

 伊波が顕微鏡から顔を上げると、吾妻が微笑みながら伊波の横に立っていた。場所を変われというサインだ。

「ここでいったん頭の方を下げるんだよ~」

 伊波がしぶしぶ術野からどくと、吾妻は即座にベッドの背板を少し下げた。吾妻はうずうずしながら術野の前に立つ。

「わ~芸術的。脳がぴったりくっついてて綺麗。マイクロハサミくださーい」

 モニターに術野の強拡大画像が写る。吾妻はピアノを弾くような軽やかな手つきで、支軸を細やかに動かす。脳梁周囲槽を手早く解放すると、帯状回の左右に脳ベラをあて、そのまま手を止めずに帯状回のくも膜小柱を切り上げていく。

 脳梁の手前に空いたわずかな空間を使い、手前に向かって切り上げるようにハサミを入れているのだ。それは丁度、ペーパーナイフで封筒を開ける時の仕草に似ていた。出血はほとんど無い。

 ハサミは0.0何ミリの血管を時に切り離し、時にかいくぐりながら、ほとんど無血の状態でくも膜だけを切り進んでいった。

「うんうん。この角度まで視野があると気持ちいいよね~」

 吾妻は脳ベラをどんどん広く固定していった。脳梁周囲槽から手前に向かって、術野が扇型に開いていく。伊波は唖然としてその作業を見ていた。恐ろしい早さだった。普通は作業を中断し、血管や神経を確認しながら作業を進める。しかし、吾妻の作業は手がほとんど止まらない。解剖が3Dで頭の中に置かれているというように、迷い無く作業を進めていく。


「すごい……」

 伊波は無意識に、感嘆のため息を漏らしていた。吾妻の手技には、今までにも何度か感心することがあった。しかし、この難易度の手術を、ここまで正確に出来ると言うことは知らなかった。技術だけで言ったら、吾妻は青島よりも上なのかも知れない、とちらりと思った。

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