第18話

「吾妻先生」

 伊波が声をかけると、吾妻はゆっくりと視線を上げた。

 院内のレストランで、吾妻は足を組んで座り、本を読んでいた。隣の椅子には、吾妻のリアルファーのコートがバサリと掛けられている。伊波は吾妻に歩み寄りながら言った。

「吾妻先生は、何してるんですか――――って青島先生を待ってるんですよね。青島先生が来るまで、ちょっとご一緒して良いですか」

 吾妻は一瞬怪訝な顔をしてから答えた。

「いいよ」

 伊波はコーヒーを注文し、席に座った。窓の外にはキラキラした夜景が広がっている。

すぐにウェイトレスがコーヒーを持ってきて、伊波の前にカップをカチャリと置いた。伊波は息を吐いてから座り直した。コーヒーには手をつけず、誰にともなく話し始める。

「そういえば、吾妻先生。芳田雪音さんが無くなった日の話、なんですけど」

 吾妻は本のすきまからちらりと伊波に視線をよこした。赤い皮のブックカバーがついた文庫本だ。

「その話、まだ調べてたの?」

 吾妻はのんびりとした声で言う。伊波は頷きながら続けた。

「ええ。僕、あの話ではひとつ疑問だったことがあって。

それは、ベッドサイドモニタの電源ってそんなに抜けやすいのかな?ってことです。大事なモニターが、ちょっとぶつかっただけで消えちゃうなんて、大変じゃ無いですか。だから僕、コンセントのところを調べたんです。

そしたら、ベッドサイドモニタの電源は、コンセントの一番端につながれてました。ええ、それはがっちりと。しかもコードにはかなり余裕があって、かなり遠くに引っ張らないと抜けなかったんです。つまり、少しぶつかった位じゃコンセントは抜けない。それに、夜中にあれを患者のベッドから遠くに置いたり、引っ張ったりする理由も無い」

そう言って伊波はコーヒーを一口飲んだ。喉がじゅわりと熱くなる。吾妻は本のページを繰った。形のよい爪が本をしゃり、となぞる。

「じゃ、なんでコンセントが外れてたの?」

「僕は――――誰かが意図的にモニタの電源を抜いたんだと思いました」

 伊波がそう言うと、吾妻が本を膝に下ろして特大のため息をついた。

「いいかげんにしなよ。伊波はそんなにスタッフを犯人にしたいの?荻原さん?町田さん?それとも宮間さんが画像編集して誰かを陥れようとしたとか?」

 伊波は少し黙った。コーヒーカップから湯気がふわふわと立ち上り、伊波の鼻をくすぐる。

「違います。犯人は――――広瀬桜花さんです」

 吾妻の指がぴくりと動いた。

「だれ、それ」

「水頭症で入院していたアルツハイマーの、広瀬さんの娘さんです。娘さんは、母親の広瀬さんが入院時に付き添いをしていたんです」

「その人が犯人?」

「はい。広瀬桜花さんが、夜芳田さんの部屋に忍び込んで、芳田さんを――――殺そうとしたんです」

 吾妻は片方の唇の端を上げ、乾いた笑い声を漏らした。

「物騒だね。でも、何を根拠に?」

「広瀬小夜さんは前、くも膜下出血で倒れてます。後で意識は戻りましたけど、今は認知症です。広瀬さんは一瞬芳田さんと同室でした。そのとき芳田さんのことを知って、同じ動脈瘤なのに、よくなっていく芳田さんのことが許せなかったんじゃないでしょうか」

「極端だね。ま、動機は何でもいいけど。でもそれならほかの患者にもできるよね?なんで彼女なの?」

「広瀬さんは、僕と一緒に廊下で看護師を待ってるとき、クモの話をしました」

「クモ?」

 吾妻は細い眉を寄せ、怪訝な顔をした。レストランにいたもう一組の客が立ち上がり、話ながらレジに向かっていった。伊波は頷いて言った。

「せん妄で暴れているときに、大きい、黒いクモを見たって広瀬さんは言ったんです。最初は僕も、幻視かなって思ったんです。でも、ほかの時には広瀬さんに幻視の症状は無かったんですよ。だからぼくは、もしかして広瀬さんは、実際に見たんじゃないかっておもいました」

 吾妻は黙っていた。本は開いたままだが、先ほどからページを繰る手が止まっているし、目も文字を追ってはいなかった。厨房から食器がカチャカチャと鳴る音が聞こえる。伊波は自分の手を握りしめた。

「シナリオはこうです、夜、母親の広瀬小夜が寝て、娘はトイレに立った。

 付き添いに疲れ切った状態で廊下を歩いていると、病室のネームプレートに芳田雪音の名前を見つけ、ものすごい怒りに襲われる。どうして私の母親は治らなかったのに、この人はって。そして病室に入り、緊急を知らせるモニターのコンセントをまず抜いたんです。水を飲ませて、窒息死させるために。自分で動けないと、少量の水でもすぐ窒息してしまうのは、ご存じの通りです」

「でも、コップを傾けたとき、外から大きな声がして、水を少しこぼしてしまいます。しかも、声はだんだん近づいてくる。広瀬さんが起きて、暴れ出したんです。

彼女は一瞬、パニックになります。看護婦に見つかったら大変だ――――そう思った桜花は、母親の気を逸らそうと、とっさにポケットに入っていた物を部屋の外に投げたんです。結果は成功でした。母親はびっくりしてナースステーションの方へ走っていきました。看護師がそちらに気を取られている内に、彼女は部屋を出て、母をなだめている看護師に合流したんです。

 投げたものは後でこっそりと回収すれば良いと、桜花さんは思っていたのかも知れません。でも運悪く、荻原さんがそれを拾ってしまったんです。荻原さんに確認したんですが、それは芳田さんの部屋のほとんど正面に落ちてたそうです。前の回診のときには無かったものだと断言していました」

 レストランは静かで薄暗い。食器同士がかちゃりと擦れる音の合間に、従業員どうしの笑い声が聞こえるくらいだ。吾妻はだまって、じっと本に目線を向けていたが、沈黙に耐えきれずに言った。

「それで?結局それは何だったの?」

「充電器です。コードが絡まって、クモみたいに見えたんです」

 伊波は無意識に大きく息を吸って言った。

「そして――――その落とし物を箱から回収したのは、吾妻先生、ですよね」

 しばらく、お互いに何も言わなかった。古い空調が乾燥した空気をかき混ぜ続ける。伊波は何度も目を瞬いた。

 店内に小さく聞こえているオルゴールの有線を聞きながら、吾妻はひとつ息をつき目を閉じる。吾妻はこめかみにひらりとかかった後れ毛を、さっと耳にかけながら言った。

「……だから?」

「え?」

 吾妻は目を伏せたまま本をパタンと閉じ、机の上にばさっと乗せた。

「それを知って、伊波はどうしたいの?」

 吾妻の形の良い唇から放たれる冷たい声に、伊波は身を固くした。

「それは……公表します。今のこと。まず青島先生に――――」

「やめてよ」

 吾妻が伊波の方を射るように見て言った。ほとんど叫びに近かった。

「やめて。そんなことしたら青島が責任に問われる。今回のことが彼女の死因になったって保証は無いでしょ?だったらそんなことする必要も無い」

「でも、これは犯罪です。こういうことが起こってしまった以上、病院全体のシステムについて見直す必要があります。きっと、青島先生だけが個人的に責任を問われることは」

 吾妻は伊波の言葉を遮り、片方の口を歪めて笑う。

「そんなの、青島の監督不行き届きで終わらせられるに決まってる。知ってるでしょ?青島のことやっかんでるのは、同業者の脳外科医だけじゃない。この病院の、ほかの科の医師にだって白い目で見られてる。患者を受け入れすぎることだとか、ほかの病院に出張に行ってることだとか。まあ、脳外科だけが院内で目立った活動してるのがいやなんだろうけど」

 伊波は吾妻の言っていることに心当たりがあった。胃腸科の医師に、定例会の時に嫌みを言われたり、予算会議ではさんざん脳外科の施設について文句を言われたりした。皆、羊飼いの羊のように、権力のある者に従っておとなしくしているのに、青島はよい意味でも、悪い意味でも、目立ちすぎていた。

でもそれでも――――これは伊波のところに留めておける情報では無い。

いつのまにか店内は少し暗くなり、BGMは消えていた。伊波は唇を噛みながら、空のコーヒーカップを見つめていた。沈黙の後、吾妻がささやくように言った。

「青島は、医員のときから上司に煙たがられてた。青島は人の下につく器じゃ無いんだよ」

 吾妻の声は小さく、掠れていた。吾妻はうつむき、テーブルの上で祈るように手を組んでいた。吾妻は目を上げた。眉は情けなく下がっている。

「伊波だって青島が糾弾されるのは嫌でしょう?あんな良いお医者さんが罪を着せられて、罰を受けるなんておかしいし。おねがい」

 吾妻はそう言うと頭を下げた。伊波は慌てた。

「いや、あの、止めてください」

 吾妻は細い肩をすぼめ、頭を下げ続けた。伊波は胸がキリリと痛んだ。あの吾妻が人に頭を下げるなんて、全然似合わない。

そのとき、吾妻の携帯が鳴った。吾妻はすばやくポケットからピンクのラメの携帯を取り出し、少し掠れた声で2、3言会話した。

「わかった。今行きます」

「急変ですか?」

「ううん。道添さんが、病室からいなくなったらしい」

「えっ?頭蓋咽頭腫の道添さんですか」

 道添陽菜は明日の手術のために入院していた。吾妻はすでにコートを着、エスカレーターに向かっていた。さっきのやりとりがまるで嘘のように、すっかり医者の顔に戻っていた。伊波は慌てて吾妻の後を追った。

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