第17話
伊波は寝不足気味の目をこすりながら、医局で書類を書いていた。時計は夜九時を指している。暗い部屋に薄い紙を捲る、ぺらりという音だけが響く。
「ぴゃっ」
なんとも形容しがたい音が聞こえた。伊波はぎょっとして振り向いた。着替えてコートを着た西藤が自分の机の前で、硬直して立っている。
「今、叫んだ?」
「いえ」
伊波はゆっくりと左右を見渡した。伊波と西藤以外だれもいない。
「いや、絶対叫んだよね」
「何のことでしょうか。それより伊波先生、これ」
西藤は伊波と目を合わさずに机のわきを指さす。西藤の机の下に、黒光りする黒い塊があった。伊波はドキッとして身を引いた。
「え、何これ。虫?」
伊波が目を細めながらじっと観察すると、それは万年筆のキャップだった。
「あ、なんだ。僕のだ」
伊波はペンを取り上げ、ほこりを払いながら言った。いつの間にか机から落として、西藤の机の方に蹴ってしまったのだろう。
「病院にこんなデカい虫が入ってくるわけ無いじゃないですか。じゃ、僕帰りますんで」
伊波は西藤の背中にさよならと声をかけると、ペンのキャップを開け、適当な紙に試し書きした。しゅるしゅるという万年筆特有の書き味は健在だった。伊波はほっとしてキャップをパチンと閉めた。
伊波はマグカップに口をつけたが、中のコーヒーは空だった。伊波はコーヒーを追加しようと、重い身体を持ち上げた。
医局はしんとしていた。暗い中で、コーヒーメーカーの赤いランプがチカチカと点滅している。ごぼごぼとコーヒーが吐き出され、湯気があたりをコーヒーの香りで満たす。伊波がデスクワークで凝り固まった首を回していると、伊波の頭の中に、ふとよぎることがあった。
『虫がいたの』――――そういえば、広瀬さんはせん妄でああ言ってたな。
あれ、でも――――ほかの時は、暴れてはいたけど、幻視が見えているようなそぶりは無かったよな。
伊波がそう考えるとも無く考えていると、突然がちゃりと医局の扉が開いて、伊波は飛び上がった。
振り向くと、白衣をまとった青島がいた。
「青島先生。何してるんですか。今日非番ですよね」
「術後が不安定な患者がいてな。いままで見ていた」
この人に休みという概念は無いらしい。青島は医局の一角にある、大きな茶色のソファにどさりと腰を下ろした。伊波は立ち上がりながら言った。
「お疲れ様です。あ、コーヒーいります?」
「ああ。ありがとう」
伊波はコーヒーを空いたカップに注ぎ、座っている青島にコーヒーを差し出した。いつも見上げている青島を見下ろすのは、なんだか居心地が悪い。伊波は自分のデスクに戻るのがなんとなくはばかられて、カップを片手に青島から少し離れたデスクに寄りかかっていた。
医局は静かで、エアコンのぼおー、という音がうるさいくらいに響く。伊波はしばらく黙っていたが、すぐに沈黙に耐えられなくなり口を開いた。
「そういえば飯田くん、退院しましたね」
飯田輝の手術は先週の木曜に行われた。
グリオーマの手術では、何度も事前に精密検査で病変部位を特定した後、術中にも頻繁に検査が行われる。脳の組織そのものが犯される病のため、脳自体を切除する必要があるのだが、病変した細胞は土にしみこむ水のように組織に浸透していくため、どこまで切除するかという判断はとてもむずかしい。今回、青島は極力脳に傷をつけない最小限の処置をしていた。
何気ない雑談のつもりだったのだが、青島は細い眼でぎろりとこちらを見た。瞬時に伊波の腹のあたりがキリリと緊張する。伊波は焦りながら話を続けた。
「母親も感謝してましたし、よかったですよね。あの友人の彼も、きっといずれ納得してくれると思いますし」
青島は何も答えず、無表情で睨むように伊波を見つめていた。伊波は間を持たせるようにコーヒーに口をつける。
「あつっ」
コーヒーは思ったより熱く、伊波はカップから口を離した。
「大丈夫か」
「はい……」
伊波はビリビリする舌を口の中で転がしながら言った。青島は視線を下に落とし、ゆっくりとため息を吐いた。
「伊波、おまえに言わないといけない事がある」
「え……はい」
伊波の背筋は凍り付いた。なにか間違ったことを言ってしまっただろうか。伊波は舌を口の中で回しながら考えた。投薬指示や患者の扱い、手術の手技に何か問題でもあったのだろうか。自分の自信の無い分野のことが、伊波の頭をもたげた。
「飯田輝は、10年前、俺が手術した患者だ」
「え?」
「おれはたまたま研修でその病院にいた。そして手術には第二助手として参加した。でもその教授は手術が下手でな。手術はほぼ俺がやった」
「そう……なんですか」
思ってもみなかった話の展開に、伊波はそうなんですか、と答えるしか無かった。青島はとつとつと喋り続ける。
「一〇年前の手術中、俺はもう少し組織を切除した方が良いと思ったんだ。だが教授に止められた。ここからは麻痺が出る可能性があるからと、その教授は言っていた。
ナビゲーションシステムの精度も悪い時代だから、経験に培われた勘を頼りにするしか無い。俺は言われたとおりにした。そのとき、俺は他人に患者の命を差し出したんだ。当時、地方病院でたたき上げられていた俺の方が何倍も手術経験があったのに、もっときわどい手術も何件もこなしていたのに。あの少年が言ったことは本当だ。おれは医者として、今回の手術だって断るべきだった。でも、なんとかしたいと思ってしまった」
青島は自分の顔を片手でなで下ろした。目尻のしわが伸びる。エアコンがわずかにぎぎ、と鳴った。伊波は膝に乗せている自分の手を見つめた。
青島は長いこと、両手で持ったカップから立ち上るコーヒーの湯気を眺めていた。
背中を丸めた青島がやけに小さく見える。頭頂から白髪がすうと一筋光っている。伊波はマグカップを弄びながら、おずおずと言った。
「それは……でも、再発のことは、青島先生のせいじゃないんじゃないですか。グリオーマは再発率のほうが高いですし。青島先生は、良い先生です。だって、先生が悪い医者なら、この世のすべての医者は悪い医者になります。僕も含めて」
青島は初めて伊波の方に視線をよこした。目は少年のように澄んでいる。そして数ミリだけ口角を上げ、すぐに下げた。
「伊波」
「はい」
「間違っている、と思うことがあったら、すぐにそう言え。迷うな。ただ良心に従えよ」
青島は一つ一つの言葉を句切りながら、自分に言って聞かせるように言った。言葉は伊波の身体の中にどすんとおもりのように入ってきた。伊波は青島を見つめ返し、精一杯しっかりした声で、はいと答えた。
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