第16話
伊波のテーブルには冷えたコーヒーが半分程残ったまま、机に置かれている。伊波は院内の食堂でパソコンを開け、明日の手術に関する資料を読んでいた。閉店間際の食堂には、もう伊波しかおらず、食器を片付けるカチャン、カチャンと言う音が響く。
伊波は時計を見た。7時半。10時から始まった聴神経腫瘍の手術は終わったのだろうか、とふと考えた。
「あれ?伊波、なにしてるの~?」
突然歌うような声がして、伊波は振り返った。吾妻が首をかしげながら立っている。長い髪の毛をアップにして、お団子にしていた。靴はブランドの革靴、羽織っているコートはリアルファーで、黄色い毛並みが顔の側でふわふわと踊っている。伊波はパソコンを指しながら言った。
「ちょっと調べ物です」
「なんでこんなとこで?」
「仕事が終わってご飯食べてたんですけど、気になることがあって……それで調べようと思ったら止まらなくなって」
「へー。伊波ってまじめだねー」
「そういう吾妻先生はどうしたんですか」
「僕は青島待ってるの。今日飲むから」
「そうですか……あ、そうだ。吾妻先生、ちょっと話したいことがあるんですけど」
「なに?」
そう言いながら、吾妻は伊波の隣の席に座った。足を組み、頬杖をつき、伊波を斜め下から見上げる。色素の薄い眼がぱちぱちと二回瞬いたあと、にっこりと笑った。これは、かわいいと思ったら負けだ。伊波は座り直して咳払いした。
「芳田雪音さんのことなんですけど」
伊波は小声で言った。吾妻は伊波をちらりと見た。
「看護師の宮間さんが、気になることを教えてくれたんです。彼女によると、芳田雪音さんが死亡した前日のことです」
吾妻は視線を落とし、手を口に持っていって小さくあくびをした。伊波はその反応に若干腹が立ったがそのまま続けた。
「あの夜、病院にいたのは町田さんと荻原さんでした。そして朝の担当が宮内さんです。あの晩は停電がありました。
だから、宮内さんはあの朝、どこかで電源が切れたりしていないか、ベッドサイドモニタを確かめたらしいんです」
レストランは六階にあり、外に面してぐるりとガラス張りだ。ビルの明かりがよく見えた。伊波は声を潜める。
「そうしたら、芳田雪音さんの心拍測定器の履歴だけが、数時間途切れていたそうなんです」
「ふうん」
「ふうんって」
「患者に貼ってたモニタがずれてたんじゃないの?だってその前後前後に異常があったわけじゃ無いんだし」
「まあそれはそうですけど。でもぼくは荻原さんにも確認しました。夜、なにか異常はありませんでしたかって。そしたらもっとびっくりすることがわかったんですよ」
伊波はぼおっと窓の夜景を眺めている吾妻に説明する。
「最初は荻原さんも、『水が垂れてました』としか言わなかったんですけど。荻原さんを問い詰めると、荻原さんはとてもうろたえて言いました。『私じゃない』『私は電源をさしなおしただけだ』って。荻原さんは停電の後の見回りの時、心拍測定器のコンセントが切れているのを見て、あわてて刺し直したと言っていました。コンセントの差し込みが弱いと、たまにそういう事があるそうです。でもその時は異常が見られなかったので、そのまま報告せずにおいたと。責任を問われるのが怖かったんでしょうね」
伊波は吾妻を見つめた。吾妻は左肘を立て直し、小さな顔をその上に乗せるようにして伊波の方を見て、それから腕を組んだ。
「なるほど。でも――――その前後にはバイタルに変化は無かったんだよね?」
「そうです」
「なら……できることは、その前後に入っていた看護師達に始末書を書いて貰うくらいだね」
「まあ……そうですね」
吾妻はふうと息を吐いて座り直し、ゆっくり言った。
「死因と直接関係してないなら、そこまでこだわることは無いんじゃないかな」
「まあ、そうなんですけど」
伊波は言葉を濁した。それは自分でもわかっていた。しかし、何か引っかかるのだ。吾妻はポケットから携帯を確認しながら言った。
「大丈夫だよ、伊波のせいじゃないって言ったじゃない。事故だよ。それか、僕のミスだ。それじゃ。手術、終わったみたいだから」
吾妻はにこりと笑うと、吾妻は伊波の肩をぽんと叩いた。コートのファーが伊波の頬をふわりとくすぐる。吾妻は革靴をかつかつと鳴らしながら、レストランを出て行った。
*
飯田輝の眼はわずかに開いて、目の端に涙がにじんでいる。顎が下がり、ぜー、ぜー、という音がそこから漏れるのを、皆が固唾をのんで見守っていた。母親がくり返し聞く。
「輝、大丈夫ですか。苦しそう」
「大丈夫です」
伊波はモニタを見ながら言った。言いながら、自分の発言の中途半端さに戸惑った。何が大丈夫なのか。
皆が囲む飯田輝のベッドのすぐ脇で、伊波は飯田輝を見つめた。伊波は飯田の顔を見た。落ちくぼんだ目や頬。脈は65~140の間で、高くなったり低くなったりを繰り返していた。血圧は50位。血中酸素濃度は70前後。手先が青白くなっていた。酸素が末端まで届かないので、チアノーゼを起こしているのだった。
周りの人が何度も鼻をすする、ずず、という音がする。伊波は家庭用のベッドサイドモニタをいじる。普段使っている物と勝手が違うので、少し手間取る。
伊波が飯田の家に立ち寄ったのは、ほとんど偶然だった、ふと、昨日看護師が話していたことを思い出したのだ。
最近、書類のことで飯田のお母さんから電話があったの。ああ、良い子だったよね。ね。でも、もう長くないかもって――――。今日は久々の休日だったのだが、なぜかその言葉がどうしても耳から離れない。仕方なく、伊波はこうして様子を見に来たのだった。
飯田輝は手術のあと、様子を見つつ病院と自宅を行き来していた。しかし、再発はすぐだった。一ヶ月後、腫瘍は再発し、その後どんどん広がっていった。すぐに食事がとれなくなり、寝ている時間が多くなった。三ヶ月後、ついに意識がなくなったとき、家族は自宅での看取りを希望した。
通院も不可能なので、自宅から近い、地域の医者が自宅に往診にした。なので、伊波は三ヶ月程飯田とは会っていなかった。
それなのに、家に入った途端、飯田の母に言われたのだ。
「先生、輝、ずっと呼吸が苦しそうなんです。見てください」
話を聞くと、自宅へ来診してくれている医師は、丁度、違う患者に対応している最中で2時間程来られない言うことだった。
あれよあれよという間に、伊波は急かされるように飯田輝のいる奥の部屋に案内された。
「輝、伊波先生が来てくれたよ」
大きな日本式の家はすでに薄暗かった。畳の床がみしりと伊波の足下で音を立てる。正直なところ、飯田のいる部屋に足を踏み入れた瞬間、伊波はここに来たことを激しく後悔していた。
まず目に飛び込んできたのは、青いチェックの掛け布団だった。その中に、鶏ガラのように細くなった飯田輝が上半身を外に出し、埋もれるように横たわっている。
すでに下顎呼吸が始まっていた。これはその名の通り、呼吸のたびに顎が下がる呼吸で、これが始まると、大体の人は24時間以内に亡くなる。伊波はかろうじてこんにちは、と呟いた。
腕には点滴の後が紫色になって残っていた。呼吸補助装置と、バイタルをチェックするための機器が物々しく部屋の一部を占領し、ぴっぴっと耳慣れた音を立てている。
伊波はくらりとした。寝たきりの人がいる部屋独特のむっとする匂いと、質量を感じるようなもったりとした空気。いつも病院で見ているはずの機械も、人の息づかいを感じる空間にあると、全く違う物のように見えた。ここで生きた人が、ここで死ぬということを感じるからかも知れない。そこにあるのは、病院とは全く違った死だった。
病院では、皆同じ服を着せられ、同じベッドに寝かされる。個性という個性をすべて剥ぎ取られ、最後は名前のない存在――――『患者』として死んでいく。しかし、病院での死とは反対に、ここにはひとりの個人の死があった。そして、そこでは伊波は無力だった。
ここには心拍が落ちたからと心臓マッサージをする医師も、自発呼吸が止まりそうだからと呼吸器をつける看護師もいない。ただ皆で命の終わりを見とどけようと、それだけの場だった。伊波は和室の伝統を見つめたり、天井のシミを数えたりして時間を潰した。
湯を沸かすごぼごぼという音がして、その後、親族の誰かにお茶を渡された。伊波はそれを受け取る。無力感の中で、歯がゆいような、もどかしいような思いでそわそわする。しかしそれでいて、不思議な吸引力に、伊波は飯田の側から動けずにいた。伊波は赤いスリッパの中で、冷えた足先を動かした。
ちは、と声がして、伊波は振り向いた。そこには学生服の佐野がいた。寒風に吹かれた頬が赤い。一緒に入ってきた母親が言った。
「外にいたから、入って貰ったんです。輝。佐野君だよ」
「こんにちは」
佐野は少し居心地が悪そうに言った。沈黙のあと、母親が言った。
「ごめんなさい、佐野くん」
「え」
「手術後、この子に聞いたの。この子はあなたにだけ弱音を吐いたって。だからあなたはああいったんだって」
「いえ……すいません。俺こそ」
ついにその時が近づいてきた。
血圧は上下し、酸素濃度がどんどん少なくなってきた。皆が飯田輝の身体をさすり、ありがとう、ありがとう、がんばったね、と泣きながら話しかけていた。顎の動きがだんだん小さくなる。母親が飯田輝の顔に耳を寄せた。最後の一呼吸も聞き逃さないようにぴったりと寄り添う。ピーピーとアラートを鳴らす機器を、伊波はそっと消した。
沈黙が訪れた。そこにいる皆がじっと耳をそばだてている。魂の羽ばたくときの音を聞き逃すまいというように。やがて、母親が身体を起こして伊波に頷いた。目には涙がたまっているが、すでに覚悟は決まっていた。
伊波はさっと目の端を拭い、身体に力を込め、ぐっと背筋を伸ばした。
伊波は飯田輝に敬意を払うように、飯田輝に触れる。脈と瞳孔を調べ、腕時計を見て、息を吸った。
「5時32分。飯田輝さん、ご臨終です」
言った瞬間の反応は様々だった。母親はただそこに座って、手を握り続けていた。佐野は嗚咽を上げた。「よくがんばった」と言い合う親戚の声。
「あら、きれいな夕焼けね。輝君の旅立ちにふさわしいわ」
そう誰かが言った。窓の外を見ると、夕日が空を赤く染め、太陽の光が雲の隙間から柱になって降りてきていた。
伊波がリビングで死亡時に必要な情報を記録していると、担当医がやってきた。伊波は引き継ぎを済ますと、母親に挨拶をして家を出た。「先生、ありがとうございました」「いいえ。お役に立ててよかったです」。ありきたりな会話をした後、母親はぽつりと言った。
「輝、がんばりましたよね」
「はい。あの状態から、本当によく頑張りました」
伊波は請け合うと、母親は涙を拭いながら満足そうに頷いた。
家の外に出ると、伊波は生け垣を横目に、玄関の石段を下った。歩きながら、伊波はふらりとよろけた。その時、自分が緊張していたのだと言うことに気がついた。手術とはまた違った疲れだった。伊波は大きく息を吐いた。吐く息が白く消えていく。どこからか魚を焼く匂いがする。
空には細い月が出ていた。
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