第14話
彼は微動だにせず立っていた。学生服を着た背中はやけに姿勢がよく、坊主頭に撫で肩。視線の先には、飯田輝の病室があった。
病室からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。伊波が近づくと、彼はぱっと振り返る。一瞬、その細く鋭い目と目が合った。ブレザーの下に深緑のフード付きトレーナーを着ている彼は、そのまま身を翻し、去っていった。
伊波が視線を前に戻すと、ちょうど向こうから飯田の母親、飯田照代が歩いてきた。白いブラウスにカーデガン、それに長いスカートを合わせている。飯田照代は伊波に気がつくと、大きく頭を下げた。
「先生、ありがとうございます!」
「こんにちは……え?」
「先生のおかげで、青島先生に手術してもらえることになりました」
飯田の母は更に深々と頭を下げた。洗濯洗剤の甘いような匂いが漂う。伊波は慌てて言う。
「いえ。僕は何にもしていません」
「いいえ。先生が青島先生に頼んでくれたから、手術が受けられるようになったんです。ずっと、ずっと他の病院では断られ続けました。手術して寝たきりになるくらいなら、時間は短くても、死ぬまでは元気でいた方が良いでしょうって。でも、青島先生は難しいけど、安全な手術をすると言ってくださいました。
青島先生に繋いでいただいて、ありがとうございました」
飯田照代は言いながらレースのハンカチで鼻を押さえた。伊波の頭の中に、一瞬、五日市の顔が浮かんだが、伊波はそれを振り払うように言った。
「とんでもないです。それより、輝君はすごいですね。いつも見舞い患者が絶えない。病院で大きな笑い声なんて久しぶりに聞きましたよ」
飯田照代はやっと顔を上げた。内巻きのくせ毛がふわふわと揺れる。
「そうですか?輝は昔から、人を笑わせるのが好きだったんです」
「それに、いろんな子が来てますよね。そういえば、さっきも、パーカーを着た、背の高い男の子が来てましたよ」
「あ……そうですか」
飯田照代の表情が一瞬暗くなった気がした。その時、飯田の友達がぞろぞろと部屋から出てきた。伊波はタブレットを持ち替えながら言った。手にひやりと冷たい感覚が伝わる。
「またなにか疑問等がありましたら、いつでも聞いてください。では」
*
「ひっ、もうすこしていねいにしろよ!この病院にいれなくするからなぁ」
クリスマスを来週に控えた金曜日の昼間、伊波は救急室にいた。ナースも医者も皆せわしなく動き、りりりりり、と電話がしょっちゅう鳴る。スーツを着た白髪の男性が、昼間から真っ赤な顔で呻いている。飲み過ぎて、酔って転んで額を切ったのだった。
患者の額に、消毒液のついた脱脂綿を当てると、患者は大げさに騒いだ。
「いたいっ、おい、痛いぞ。俺は元医療関係者なんだ。適当に処置をしたらわかるんだからなぁ」
看護婦はそれに無表情に対応している。医療者に冬休みという概念はない。むしろ、冬休み前後は患者が増える。食べ過ぎ、飲み過ぎで運ばれてくる人、食中毒、部屋と外気温の差が激しいため、脳卒中など、脳血管の障害も冬は増える。こういうとき、飲み過ぎて転んだなんていう患者が来ると、スタッフが全員辟易する。もし本当に彼が医療関係者なら、この忙しい状況を代わって欲しいものだと伊波は思った。
伊波は目の前のベッドに横たわる患者に声をかけながら診察を続けた。昏睡状態でベッドに横になった患者は、目を両方とも左側に向けていた。伊波は小さなライトを取り出して眼に当てる。光を眼に当てると、瞳孔が縮む。対光反射のテストだ。伊波は患者の右手に触れる。黒い肌にはいくつかのしみがあり、皮膚は厚い。
「つぎは右手を挙げてください」
手は少しだけ動いた。着古した紺色のTシャツを着た患者はラーメン屋の店主で、仕事中に倒れたのだった。CTでは、画像の後方がぼんやりと白くなっていた。小脳出血だ。血腫は1センチ。このくらいだと、手術はせずに薬で様子を見ることになる。
「先生、ちょっといいですか」
伊波が投薬の指示を終え、救急室を出ようとしたとき、看護師が伊波を呼び止めた。看護師が指し示す方を見ると、そこには坊主頭の少年が後ろを向いて座っていた。
「ウォークインで頭痛がするって言って来た子なんですけど……主治医の青島先生に聞きたいことがあるって言うんです」
「青島先生は今日出張ですね」
「じゃ、代わりにお願いします」
伊波が側に行くと、少年が伊波を見上げるように振り向いた。坊主頭の撫で肩、眼は細く鋭い。伊波は心の中で、あ、と呟いた。飯田の病室の前で立っていた少年だった。
「青島先生ですか?」
「え?いや」
「青島先生を呼んでください」
少年は伊波を正面から見据えて言った。伊波は頭を掻いた。
「残念ながら、今日は青島先生は出張です」
しかし、そう言ったちょうどその時、救急室の入り口から青島が入ってきた。伊波の表情が変わったのを見て取ったのか、少年も振り向く。青島はまっすぐ伊波の方に歩いてきた。伊波は慌てて青島に駆け寄る。
「どうしたんですか」
「オペが早く終わったから来た。もう患者の対応は済んだか」
「あ、はい、今投薬の指示を――――」
「青島先生ですか」
少年はよく通る声で言った。
「そうだが」
青島が答えると、少年は立ち上がり、つかつかと青島に歩み寄った。
「単刀直入に言います。飯田輝の手術を止めてください」
青島が佐野に向き直り見下ろした。少年はその視線をまっすぐに受けてにらみ返す。一瞬触発の空気に、肌がピリピリした。伊波は自然と身を縮める。少年も青島も大柄のため、空間が狭くなったような気がする。青島は低い声で言った。
「ここは話をする場所じゃ無い。廊下で話そう」
二人はざっざっと音を立てながら廊下に移動した。廊下に転々とともる蛍光灯が白々しいくらい明るい。救急室からカートやベッドを移動するガラガラという音が漏れる。伊波は乾燥した唇を噛み、事の成り行きを見守る。廊下の広いところに出ると、少年は立ち止まり、頭を下げた。
「話、聞いてくれてありがとうございます。俺、佐野透って言います。飯田のクラスメイトです」
青島がふん、と鼻から息を吐いた。
「手術を止めて欲しいとは、どういうことだ」
「手術に妥当性が無いと思うからです」
「それはクラスメイトが口を挟むことじゃない」
青島はぴしゃりと言う。それでも佐野は眉一つ動かさずに続けた。
「わかっています。でも、飯田は俺に言いました。手術を受けたくないと」
「俺は聞いてない」
「家族の前では言えないと言っていました。ある意味自分より辛い思いをしてるからって」
「それは部外者の伝聞による意見だ。聞き入れられない。まずそれを家族に言え」
「言いました。でも、聞く耳を持たない」
伊波は飯田の母親の微妙な表情を思い出した。
廊下の端の蛍光灯がチカチカとわずかに瞬いている。サイレンの音がし、次に患者の呻くような叫び声が聞こえた。つめたい風が入ってきて、伊波の周りの空気がぶわりと動いた。
佐野は低い声で、しかしはっきりと言った。
「だから先生に言って欲しいんです。手術は無駄だと」
「無駄かどうかは、まだわからない」
佐野の目がぎらりと光り、青島を睨んだ。
「なに白々しいこと言ってるんですか。あいつは一年以内に死ぬ。飯田が小さい頃にかかって手術をしたのはびまん性星細胞腫だ。それから発症したんだから、悪性度が高くなっているはずでしょう。なら退形成性星細胞腫か膠芽腫になっているはずで、平均生存率は長くても14ヶ月だ」
青島がほう、と感嘆の声を上げる。
「よく知ってるな」
「調べれば誰だってわかることだ。金のため、症例のため、手術件数を増やすためか?そんなことのために、飯田の頭をこれ以上壊すな」
救急室から、あーっといううめき声とともにガラガラと大きな音がした。患部に白いガーゼを当てられた患者の乗ったベッドが、手術室に向かっていく。消毒液の匂いが鼻の粘膜を刺激する。青島は表情を変えずに目を閉じた。しばらくしてから口を開く。
「それは受け入れられない」
青島は佐野が口を開こうとするのを手で制し、続ける。
「俺にとって、患者と、その家族が俺に言ったことがすべてだ。手術を希望するならする。リスクについては説明してある」
「患者が苦しむことになっても、関係ないってことですか」
「患者が納得しているなら、そうだ」
「最低だな」
佐野が拳をぎりりと握った。二人が睨み合い、緊張感が高まる。伊波は佐野を止められるか、不安になった。青島は体力も筋力もあるが、その力は喧嘩のためのものでは無い。指に怪我でもしたら、あの芸術的な手術が見られなくなるかも知れない。そう思うと、伊波はゾッとした。
しかし、それは杞憂だった。佐野は一瞬天井を見上げてから息を吐いて言った。
「帰ります」
「やけにあっさりだな」
「最初から、俺の言葉を聞いて貰える可能性なんて1%くらいだと思ってましたから」
伊波は舌を巻いた。啖呵を切って平静を失っているように見えたのに。
青島が佐野の後ろ姿に声をかけた。
「それなのになんで来たんだ?」
佐野はすこし歩いてから立ち止まり、呟くように言った。避難経路を指し示す青いランプが足下で光っている。
「俺のじいちゃんは癌で、4回回手術して苦しみながら逝った。あとで調べたら、死にゆく人間に、そんな手術全く必要なかった」
「そうか。それは残念だったな」
佐野はきっと振り向く。
「患者や、その家族が希望を持つのは、医者が甘いこと言うからだ。責任なんて一つも取らないくせに」
救急室から電話の呼び出し音が聞こえる。廊下は寒く、手が冷えていく。伊波は手をこすり合わせた。しばらくして青島が言った。
「気をつけて帰れよ」
佐野は眼を細めて青島を見た後、踵を返した。もう振り向かなかった。
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