第13話
【3章】
「青島、おいしい?」
「ああ」
「よかった。初めて来る店だから、気に入って貰えるか心配だったんだ」
「どれもうまい」
吾妻は笑って胸をなで下ろす。吾妻はニコニコしながら、青島の隣に座っていた。窓からは紅葉が見え、ししおどしの音がうるさくない程度に聞こえる。
今いるのは、郊外の会席料理屋だった。和室だが、テーブルと椅子があり、ストーブの火がじんわりと暖かい。青島が焼酎の入った枡を持ち上げ、満足げに酒を一口飲んだ。
「良い店だな」
「アメリカでずっと日本食が恋しかったから、ここ選んだだけ」
吾妻ははにかみながらそう言う。吾妻がはっと気がついたように言った。
「青島、口の端っこにご飯粒着いてるよ」
青島が手を顎に持って行くが、なかなかご飯粒がとれない。
「ちがうちがう、そこじゃない」
吾妻は着物のたもとを片手で押さえながら、青島に手を伸ばす。青島の口の上に着いたご飯粒を取り、そのまま自分の口の中に放った。
「悪い」
「ふふふ」
伊波は見つめ合う二人の目の前に座って、無言で料理を口に運んでいた。有名店の和会席のはずなのに、なぜかあまり味がしない。
伊波はちらりと隣を見た。西藤は無表情に、きまったペースで料理を口に運んでいる。五日市が「やっぱ日本人は和食やな~」と言いながら、酒と前菜を交互につまんでいる。
五日市に上座を勧められ、何かがおかしいと思っていたが、伊波はやっとその理由が理解できた。伊波は椅子の上で、もぞもぞと座り直してから、大きな口を開けて百合根を頬張った。
「あ、そうだ。伊波は留学とか考えてないの?」
伊波は急に話題を振られて、もっさりとした百合根を急いで喉の奥に流し込む。すっかり存在を忘れ去られていると思っていた。伊波は咳をし、食堂のあたりをさすりながら言う。
「……いや、希望はありますけど。今はまだまだ未熟なので。ほかの勉強もあるし」
吾妻は髪を結い上げ、「それどこで買えるの?」と聞きたくなるようなヒョウ柄の着物を着ている。
「そうなの?でも、未熟な内に行っちゃうのもアリだと思うけどね」
「そうですかね」
「うん。英語を勉強して、もうちょっと出来るようになったら留学に行こう、とか考えるようなもんだよ。英語出来るようになりたいんだったらさっさと留学行っちゃえばいいじゃん?」
「まあ……そうですね」
伊波はむむむと眉根を寄せた。正直、面倒くささや勇気が出ないのが先立っているのが本音だったので、それを吾妻に見透かされたような気がしたのだ。
吾妻はにっこり笑って小首をかしげた。
「あのね、アメリカの大学とかは、800人規模の病院でも年に採用する脳外科医は2人なんだよ」
「え。少ないですね」
「そう。国家資格を取れば、その後はどの科を選んでも良いという日本の制度とは大きく違う。だからその二人はもともとめちゃくちゃ優秀な上に、とてつもなく鍛えられる」
「でしょうね」
「うん。だからその人達は、間違いなくその後の指導層になるような人だよ。知り合って、話を聞いておくのに損はない」
「なるほど」
伊波は酒をちびちびとあおる。伊波は少し不安になった。自分がそういうレベルの高い人と話をしても、馬脚を現してしまうだけな気がする。
「吾妻先生はチューリヒのr病院に留学してたんですよね。どういうつながりでそこに行かれたんですか?」
横で話を聞いていた西藤が急に言葉を発したので、伊波は少し驚く。だが、R病院は世界的に権威ある脳外科の教授を数人輩出している名門病院だ。留学を考えているなら、興味を持って当然かも知れない。
吾妻は事もなげに言った。
「ああ、個人的に申し込んだんだよ」
「個人?よく医局の審査通りましたね」
「ああ、言ってなかったっけ?ぼく医局辞めてるんだ」
「えっ」
伊波は思わず大きな声を出して身を乗り出す、
医局は、大学の卒業生が所属するサークルのようなものだ。特に問題が無ければほぼ全員が医局に入局する。配属先の病院を斡旋してくれたり、なにかと面倒を見てくれる。
吾妻は目を細め、ため息をつくように言った。
「医局で自由が利かないの、疲れちゃってさ。ていうか医局にいても、僕はぜったい教授にはなれないしね。ほら、上の人たちって若干古風じゃない」
吾妻のしんみりとした声に、伊波は杯を置いた。日本酒の熱いような甘いような香りが鼻に抜ける。
大学病院というのはけして裕福では無い。平であるかぎり、激務に見合わない薄給に耐えなければならない。その先に教授という名誉を得られる者はよいが、吾妻程の腕があっても。教授になることは難しい。実力以外の物も大いに考慮されるのが教授選だ。
最近は、そのような医局の息苦しさを嫌って、フリーになる医者も多い。もちろん、自分のキャリアを自分で組み立て、実行していく腕と覚悟が必要だが。
吾妻はふいに顔を上げ、にこりと笑った。
「でもいいんだ。僕、青島専属だから」
吾妻は青島の方を向き、ね!と笑った。青島が酒で赤くなった顔で、こくりと頷く。いや、頷かれても。
「手洗いってくるわ~」
「あ、僕もいきます」
そのとき五日市が席を立ったので、伊波もそれに続いて立ち上がった。
手洗いは廊下の奥だった。静かに流れる和楽器のBGMを聞きながら、まっすぐ続く廊下を歩いていく。足下を照らす提灯型のフロアライトが、にぶい黄色の光を投げかけている。廊下に敷き詰められた灰色の飛び石を歩くと、足裏がごつごつとした。伊波がため息をつくと、五日市がからからと笑いながら言う。
「なんや伊波。辛気くさい顔しよって。料理口に合わんかったか」
「とんでもないです」
大部屋の横を通ると、大きな笑い声が聞こえた。一瞬、かつお出汁の匂いがふわりと漂う。伊波は耳の横をポリポリと掻きながら言った。
「ていうか、あのふたりはいつもあんな感じなんですか」
「せやな。学生時代からやて」
「高校が同じなんでしたっけ?」
五日市はこくりと頷く。
「当時から吾妻はああだったからな。服も私服やったから遠目には女の子みたいに見えたらしくて、よくそれが原因で青島は彼女に振られてたわ」
伊波は少し考えて言った。
「でも青島先生、妻子もちですよね」
「はあ?あたりまえやん」
伊波の混乱が顔に出ていたからか、五日市がすぐに補足してくれた。
「脳外科として青島の役に立ちたいとかいってたで。ま、脳外科医なんて90%は脳外科医やからな。ひかえめなふりしてほぼ自分の物だと思っとるなあれは」
伊波はふと、芳田雪音が亡くなったときの吾妻の言葉を思い出した。
「ま、こっちとしてはただ飯食べられるから別に良いけどな」
「え?このご飯、吾妻先生持ちですか」
五日市は顔の前で手をひらひらと振る。
「あいつはアメリカでしこたま稼いどるから大丈夫や。だから日本にいる間は青島にごちそうしたいんやと。んで青島は自分だけがごちそうされるよりみんなが一緒にご飯食べた方が喜ぶだろうって事で、おれらはまぁエキストラみたいなもんやな」
「はぁ」
「店のチョイスだけは間違ったこと無いからなあいつは。いやあ、この前のラム肉も最高やったな~。またあの店つれてってくれんかな」
五日市ふわあとあくびをする。重そうなロレックスをつけた手で、手洗いの扉をガラガラと開けながら、五日市がついでみたいに言った。
「そや伊波」
「はい」
「グリオーマの飯田輝さんの話やけど」
「はい」
伊波はその名前を聞いて顔を上げた。すこし緊張する。五日市がプライベートで仕事の話をすることは稀だ。
飯田はグリオーマを患った、高校生の男の子だ。飯田輝の初診を受け持ったのは伊波だった。しかし、伊波では到底手に負えなそうだったので、青島に手術をお願いしたのだ。青島は二つ返事で承諾し、手術がおこなわれることになった。
「ああいうのはな、お前んとこで止めとけ」
「とめる?」
伊波が言葉の意味を図りかねていると、五日市が続けた。
「グレード3を手術しても意味ないて、おまえも知っとるやろ。しかも今回は再発や。助かるわけ無い。だから、ああいう話はお前んとこで止めて、青島には言うな言うとるんや。青島に伝わったら最後、受ける、助けるっていうやろ」
グリオーマは、脳の神経そのものが癌に冒されて起こる病気だ。進行が早く、生存率も低い。また、もし手術が上手くいったとしても、再発の可能性がとても高い。悪性腫瘍のほとんどは脳に浸潤するように広がっているからだ。むろん、浸潤している場所すべてを摘出すれば再発率も下がるが、検査の精度が上がった今でさえ、100%摘出するのは至難の業だ。
グリオーマのグレードⅢの二年生存率は50%程だ。しかも、飯田輝は10歳の頃にすでにグリオーマの治療をしていた。一度摘出した後の再発は、さらに生存率を下げる。
伊波は唇を噛んだ。五日市の言っていることもわからないでもなかった。
「でも、ご家族も、ご本人も心から手術を希望してました。だから、希望が無くても、寿命がすこし延びるだけでも、手術してあげた方が良いんじゃ無いでしょうか」
「おまえ、ほんまに心から手術をご所望なさる人間がいると思うか?」
五日市は振り向き、品定めするように伊波を見ている。
奥の部屋から女性の甲高い笑い声が聞こえてくる。伊波は目をそらしたかったができず、ごまかすように頭の後ろを書いた。
「それは……でもそういう覚悟がある人もいます。青島先生も、そういう人を助けたいのでは」
五日市は何も言わずに伊波を見つめ続けた。エアコンの乾燥した風が伊波の頬に当たる。五日市は低い声で呟いた。
「絶対全員、後で後悔するで」
そう言うと、手洗いの扉をガラガラと閉める。たしかに手術は難しい。でも、伊波もいつの間にか『青島なら出来るかも』と思っていたのはたしかだった。
伊波が目を伏せると、かこん、とししおどしが落ちる音がかすかに聞こえた。
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