第8話
壇上に立った青島はスポットライトに照らされ、自分の手術のスライドと動画を切り替えながら術式の説明をしていた。上背のある青島がスーツを着ると、白衣の時とはまた違った迫力がある。
伊波達は大阪にいた。伊波達は100人が収容できる会議室で動脈瘤手術をテーマにした勉強会に参加していた。メンバーは青島と五日市、伊波と西藤だった。留守番は吾妻と、非常勤医師の村田医師だ
伊波はあくびをかみ殺しながら発表を聞いていた。いつもなら和気藹々と行われる勉強会だが、今日は何かが違っていた。会場ですれ違う人たちの冷たい視線や、何かをささやく声に、伊波は首をひねった。
今回の勉強会のテーマは血管バイパス術で、青島は脳底動脈本幹の紡錘上動脈瘤の手術について解説した。発表は見事な物だったが、質疑応答の時間になると、不穏な空気が流れ始めた。K大学病院教授の村山が、の脳外科部長の三井医師になにかをささやいたのが見えた。三井医師は手を上げ、司会に指名されると、立ち上がった。
「えー、この動画では、フローリバーサルに、PCAのP2を吻合していますが……これはいかがなものかと」
三井が話し出すと、周りはしんとした。三井の横では、村山が腕を組んで目を瞑り、背もたれに身体を預けている。村山は天下のK大学の教授であり、脳外科界隈の権威だった。三井はせわしなく口ひげを触りながら言った。
「動脈瘤にかかる血流が高すぎるというのは、よく言われているとおりでしょう。破裂の危険があるのではなかろうかと思いますが。青島先生は、その辺をどうお考えなのかお聞かせください」
青島は表情を変えずにそれに答える。
「はい。私はこのやり方で12症例程を手がけましたが、いままでに破裂が起こったことはありません。それより、動脈自体の血栓化や、血流を維持できなくなる危険の方が考慮すべきだと考えます」
「しかし、やはりこれだと血管の狭窄の危険もありますよ」
「それは熟練した術者が行えば問題は無いかと」
「熟練した術者、ですか。まるで自分がそうであるような口ぶりですね」
青島がそう答えると、三井はペンを唇にとんとんと当てた。獲物を捕らえたトカゲのような表情で片方の口元を上げ、ふ、と息を吐くように笑う。
「この前の学会でも青島先生は重症患者を手がけた論文を発表していましたが……助かる見込みのない患者を手術して、まぐれで助けることで、ヒーローにでもなったおつもりですか?熟練した医師というのは、偶然の幸運をスキルと勘違いすることから生まれる妄想では?皆困るんですよ。手遅れの患者さんにも手術をしてくれと言う人間が増えると」
数人の嘲笑が会場に響く。青島が反論しないのを良いことに、三井は言った。
「重症度の高い患者を投薬ではなく、あえて手術で治そうとするのも、医師の自己顕示欲の現れと言えるのではないですか」
会議室のあちこちで、馬鹿にするよいな笑い声が聞こえた。伊波は胃のあたりがキリキリと痛んだ。青島はずっと目を伏せ、反論もせず三井の話を聞いていたが、ゆっくりと口を開いた。
「助けられる人間を助けることの何が悪い?より悪い状態の患者にも対応できるように、脳外科界全員のレベルを上げるのが、この勉強会の意図では?」
一瞬、あたりがシーンとした。村山教授は食い入るように青島を見、ぶりぶると震えている。怒りすぎて顔は赤黒くなっていた。伊波は逃げ出したい気持ちを必死に抑えた。
重い空気に耐えられないというように、司会者が、他に何か質問はありますか、と聞くが、もちろん誰も手を上げない。伊波は息を潜めて、尻を半分ずつ持ち上げ、椅子に座り直した。誰も何も言わないまま、青島の発表はそのまま終わり、次の発表へ移った。
伊波は表面が乾燥しつつあるフォアグラのムースを食べながら、部屋を見渡した。ブッフェ形式のレストランで、それぞれの病院に丸テーブルが割り当てられている。
学会の後の食事会でも、伊波達を目の敵にするような状況はあまり変わらなかった。いや、むしろ悪くなったかもしれない。K大病院のテーブルはブッフェに近く、かつ真ん中に配置されており、たくさんの他病院の医師が集まって挨拶をする声が聞こえる。それに比べ、伊波達のテーブルは部屋の一番隅に置かれていた。他の病院の医師達は伊波達のテーブルには全く寄りつかず、目も合わせない。伊波が料理を取ろうと部屋の前の方に行こうとすると、伊波の進行方向にいた人たちはクモの子を散らすように目を伏せて去って行く。
「まるでモーセにでもなった気分や」
ブッフェから戻り、山盛りの取り皿をふたつ机に置きながら、五日市が言った。
「悪いな」
青島はいつもの表情でそう言いながら、姿勢正しく子羊のローストをナイフとフォークで切り、口に運ぶ。
「いつものことや。でもま、さっきの青島の一言は痛快やったわ~」
「大人げなかった」
「ここ何年かおとなしくしとっても態度変わらんかったんや。もうええやろ」
伊波はおずおずと聞いた。
「あの、僕たち、白百合病院に何か恨み買われるようなことしましたっけ」
五日市は顔の前で片手を振った。
「ああ、ちがうちがう」
話はこういうことだった。二年前、K大病院の医師が緊急性の高い難手術を青島に頼み、青島はそれを受けてK大病院で執刀した。しかし、手術が終わった後に村山が帰ってきて、病院の矜持に関わると激怒した。落ち着いてもう少し待てば、自分が処置できたというのだ。しかしK大病院の医師も、青島もそうとは思えなかった。青島を招いた医者はその後、地方に飛ばされたらしい。
「ええ。青島先生、完全にとばっちりじゃないですか」
五日市が頷く。
「だからそういうことがあってから、なるべく関わらんようにしとったんやけどな。おい、西藤、おまえピッチ早いんと違うか」
西藤は赤ワインを飲み干して机に置いたところだった。顔が真っ赤だった。
「へいきです」
「へいきってな。何杯目や」
「まだ4杯目です」
「まだって、おまえ酒弱いやろ。そのくらいにしとき」
伊波は釈然としないまま白身魚のフリットを口に運んだ。じゃあなんで今日は出席することにしたんだろう、と伊波が不思議に思っていると、それを察したように青島が言った。
「今日は赤城教授に頼まれたんだ」
赤城教授は脳神経外科の権威ある教授で、頭蓋底外科研究会の副理事長でもある。青島の大学の恩師でもあり、何かと目をかけてくれているらしい。
「あの先生に言われたら断れへんからなあ」
その時、カトラリーを皿の上に置く、かちゃん、という音がした。振り向くと、西藤がぼーっとした顔で立っている。五日市が声をかけた。
「トイレか?」
「……」
西藤は小さくうなずきながらよろよろとテーブルを離れると、急に倒れ込んだ。自分の足に絡まったらしい。
「平気?」
伊波は立ち上がりかけながら言った。床には赤い絨毯が敷き詰められていたが、たとえ少しでも指を捻れば、手先が手術に支障が出る。五日市も食べながら言った。
「大丈夫か?おい伊波、部屋までついてってやれ。ここで潰れたら未来永劫語り継がれるで」
「わかりました」
その通りだと思った伊波は片腕を首に回し、西藤を支えるようにして立ち上がった。ちょうど二人は同室だった。伊波はそのままパーティ会場を出、エレベーターに乗りこむ。しかし、西藤の身体の力はどんどん抜けていった。仕方なく伊波は西藤に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「はい。おぶさって」
「いやです」
「いいから」
「……」
エレベーターが開くと同時に、西藤は急に黙り込み、手で口元を覆った。伊波は慌てて西藤の腕を自分の前に回し、エレベーターに乗り込んだ。
「やめてください」
西藤は抵抗したが、伊波は西藤を半分負ぶったような形でホテルの廊下を走った。伊波は慌てすぎて、鍵を鍵穴に挿せず、ガツガツと鍵穴の周りに鍵が当たった。なんとか扉を開け、西藤を強制的に部屋のトイレまで連れて行ってがちゃんと扉を閉めた。同時に長いため息が出た。間に合った。今日初めて息が吸えたような気分だった。
伊波はパーティ会場に戻る気もせず、冷蔵庫にある水を出して飲んでいると、西藤が出て来た。
「水飲む?」
西藤は青い顔で頷いた。伊波は水を渡した。西藤はそれを、ありがとうございます、と言って受け取る。ふいに伊波は五日市の言っていたことを思い出した。
「あのさ西藤」
「なんですか」
「アパートの階段から落ちた原田さんのことなんだけど」
西藤が眉根を寄せた。家族になんて言ったの、と聞こうと思っていたのだが、反射的に今聞いても答えてくれないような気がして、伊波はとっさに論旨をずらした。
「ほら、家族の人、どうだった?」
「え?」
「五日市先生が言ってたじゃん。虐待してるんじゃないかとか」
「ああ。してましたよ、虐待」
「ええ?本当に?」
伊波は驚いて身体を西藤の方に向けた。たまに見舞いに来る原田凜の母親が頭に浮かぶ。いつも上品な服を着て、目を腫らしていた。西藤は自分のバッグを探りながら淡々と言った。
「原田さんは、クラスで全員に無視されていたそうです」
「え?クラス?」
思っていなかった話の展開に、伊波は戸惑った。
「はい。原田さんの友達という女の子がお見舞いに来たんです。その子はごめん、と言って泣いていました。クラスの子達が原田さんをいじめるのを、自分は止めなかったって」
「そうなんだ。確かにそれは可哀想だけどさ、それは虐待とは関係なくない?」
西藤は少し黙った。部屋にはかすかなアルコール臭が漂っている。西藤は財布をポケットに入れながら低い声で言った。
「手術の後、僕が様子を見ようと思って原田さんの部屋に行ったんです。誰も来てないと思って近寄ったら、原田さんの声がしました。『痛い、なんで私、生きてるの』って。僕が声をかけようとしたら、側にいた誰かの、抑えた声が聞こえました。『おまえは馬鹿だ。ひどい娘だ。親不孝だ。何でこんなことをしたの?お母さんに迷惑をかけたいの?』って。あんまりそれを繰り返すので、僕は外で咳払いしてから、声をかけました。『患者の負担になりますので、面会は手短にしてください』って。僕が病室から動かないでいたら、やっと部屋から出て行きました」
伊波は言葉に詰まった。青い絨毯に視線を落としながら眉の端を掻く。
「そっか……まあ、お母さんも心配だったのかも知れないよね」
「心配だったら何を言ってもいいんですか」
西藤はそう言うと、クローゼットのハンガーに掛けてあったバーバリーのトレンチコートを羽織りながら、充血した目で伊波をまじまじと見つめた。
「伊波さんは自分が本当にしんどいときに、親に責められたことがありますか?ぼくはありますよ。学校の不良に見つかるたび、パシリにされたり、踏まれたり椅子にされたりしました。でもずっと黙ってました。親にばれたら怒られるからです。なんでやり返さないんだって。そんな弱い人間に育てた覚えはないって」
伊波は言葉を探したが、何も見つからなかった。西藤ははっとしたように目を瞬く。
「すいません。どうでもいい話です。それじゃ」
「どこ行くの」
「水分補給です。ポカリ買ってきます」
西藤のベージュの長いコートがひらりと翻り、部屋の扉がガチャリと音を立てて閉まった。
その夜、伊波は携帯の呼び出し音で飛び起きた。反射的に時計を見ると、まだ明け方の4時だった。隣を見ると、西藤がベッドで寝息を立てている。伊波はのっそりと起き上がり、テーブルに放り投げられた携帯を手に取った。病院からかと思って見ると、五日市からだった。伊波は眉根を寄せた。こんな時間に何だろう。
「はい伊波です」
「お、伊波?助かったわ~!わるい、ちょっと財布もってホテルの下降りてきてくれへん?」
伊波は五日市の明るい声に拍子抜けしながら、パジャマの上からコートを着、ホテルの玄関へ向かった。ゲートが開くと、昼間とは打って変わってひんやりとした空気が伊波の頬を撫でた。五日市と青島はホテルの正面にいた。青島は一応背筋を伸ばして立っていたが、赤い顔で若干ふらついている。相当飲んだらしい。五日市はタクシーの前で手を振りながら言った。
「おー伊波。わるい、タクシー代が無くなってな。ちょっと一万円くらい貸してや。ちなみに請求はあとで青島に頼むわ」
伊波が脱力しながら五日市に一万円を渡すと、青島も無表情でわるい、と呟く。三人はホテルのゲートをくぐり、照明が落とされたロビーを歩き出した。
「お金、どうしたんですか?」
「それがなー、青島がカード家に忘れてな。俺は人に金を貸さない主義やから」
「え?現金使い切ったんですか?ていうか、どこ行ってたんですか」
五日市が顔の前で手をひらひらさせながら、真面目な顔で青島を指さした。
「いやいや、いかがわしいことに使ってたんやないで。大先生のせいや。会場は辛気くさくてかなわんから、うちらもあのあとすぐ出てってな。外で飲みなおしてたら、ちょうど今日の学会に参加した若手に会ってな。河合病院の先生方のことは存じてます、発表素晴らしかったです、ぜひお話聞きたいです言うから、ええよって言ったのが間違いだったわ。つぎつぎに人が集まってきて、最後は三十人の大宴会や。三十人分の相談乗るの大変やったんやで~。手術器具の使い方からキャリア相談、恋愛相談までなんでも話したわ。まぁ俺の話おもろいから仕方ないけど。人望があるのも困りもんやな」
「すごいですね」
三十人も本当に集まったのかとか、五日市が無理矢理いろいろ話しただけなんじゃないか、とも思ったが、伊波は自分の口角が自然と上がってしまうのを感じた。青島の発表は素晴らしかった。それをちゃんと受け取ってくれた人がいたんだと思うと、伊波は自分のことのように誇らしい気持ちになった。
「まあな。でも問題はその後や」
五日市は肩を落としてため息をついた。
「ひとしきり食べて宴もたけなわって時にな、青島がなっさけない顔で俺の肩ちょんちょん、て指でつつくんや。何かと思たら、思ったより現金が無かったから貸してくれて言うんやで。結局足りなかった合計の三分の一、俺が払う羽目になったわ」
「すまん」
話している間に、三人は青島と五日市の部屋にたどり着いた。じゃ、と言って五日市と青島が部屋に入る瞬間、青島が呟くのが聞こえた。
「すまん。本当に東京に戻ったら返す」
「ええわもう」
五日市の声も、心なしか嬉しそうだった。伊波は苦笑しながら、部屋の扉が閉まるのを見送った。
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